calendar

S M T W T F S
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
<< September 2017 >>

categories

無料
無料
無料






archives

大山倍達マニアック検定

「カラテ群像」6 加藤健二 三段(1982年)

JUGEMテーマ:空手
 
 さて、今回は目白時代に入門された加藤健二先生の記事です。 加藤先生は目白時代の弟子の中では実戦派として知られており、立教大裏に大山道場が設立された際には師範代となっています。

加藤健二4.jpg

加藤健二 三段

昭和3年11月13日生まれ。 旧姓水島健二。 昭和26年ごろより目白の大山館長宅に稽古に通い始め、以後10年間に亘りカラテ修業を続けた。 立教大学裏手に旗揚げされた大山道場創成期の師範代としてその重責を果たされ、信望も厚かった。 現在は不動産会社の専務取締役。 先月号にも紹介した"双葉会"の中心的メンバーである。



 あの30年以上も前の所謂"目白時代"の様々なことを、この誌面だけではとうてい語り尽くせるものではない。 が、これを承知の上で2つ3つの思い出を書いてみることにしよう。
 大山先生が、第1回目の渡米を終え帰国なさった直後の頃である。 私が目白の先生宅に通いカラテを教えて頂けることになった。 習い始めた当初は、身体が小さいので強くなりたいという極めて単純な理由だったが、1,2年通っているうちにそれが変化しているのに気がついた。 毎日黙々と先生の稽古している姿、カラテに賭けた一途なその人柄に何かひかれるものを感じ、それが私を目白の稽古へと牽引しているのだった。

加藤健二3.jpg

 私が教えて頂いていた頃の稽古は早朝6時から始まった。 といっても既にその時間には、先生御自身の稽古はひと区切り終えていて、私達と共になさるのは第2段階といったものだった。 当時の先生の稽古量といったら凄じいまでのものであり、私達の3,4倍はなさっていたに違いない。 勿論、道場などといったものはなく屋外でやっていたので、冬は霜を踏みしめながら雪が降っても素足のままといった状態だった。 それでも私達が毎日通ったのは、無口で、今でもそうだがあの凡人とは輝きの異る凛とした光を放つ両の目の大山先生の修業一筋の姿勢に底知れぬ深さを見たからである。 当時の稽古方法は本当に基本のみであった。 朝会うとすぐ、中段突き100本、前蹴り100本、追い突き100本そしてバーベル、巻藁を突いて型を何度も繰り返す。 先生はいつも「正」の字を書いて数を記しておられたが、先に述べた全部が「一」であり「正正」となるのにはゆうに2時間はかかった。 今の道場生が教えて頂いているのとはかなり異った稽古方法だと思う。 何せ、先生の庭で移動稽古をすると片道10回はできる。 往復で20回。 これを100往復するのがあたりまえといった調子である。 型についても最初は毎日太極ばかりで、2年目にしてやっと平安の型に入るという具合であった。 正直いえば単調な繰り返しの多い内容には飽きがこないといったら嘘になろう。 現に、先生の名に瞳れて集って来る者は少くなかったにもかかわらず、長続きするのは非常に少なかった。

加藤健二2.jpg
目白時代。 後列中央が加藤健二

 そもそも当時の先生は、御自分の修行に一生懸命で弟子をとるという気持は微塵も無かった。 頼まれるから教えてやるといった風で、去る者は去れ、来る者はこばまず、ついて来るヤツだけついてこいという感じである。 だから中途半端なやさしさなんかはまるでなかった。 かといって押しつけがましい厳しさもない。 何も言わず黙々と汗を流す先生のまねをし、言われたことやる事自体が非常に厳しいものであった。
 弟子の私がこういう言い方をするのは失礼にあたると思うが、敢えて、言わせて頂けるなら、大山先生ほどカラテに対して純真な人間はいなかったと思う。 自分自身に対してもの凄く厳しく、甘えとか情とかを感じさせない。 他人に対してはそうでないが自分に対しては厳しく律する人であった。 何事にもだまってじっと耐え、喜怒哀楽を外に出さない。 むしろ人を寄せつけないといった感じすら与えることがあった。 そんな先生であったから、ささいな事でも弟子の私には嬉しく感じたのであろう。 幾度目かの渡米から帰って来られたときに私が羽田まで迎かえに行った際のことである。 先生が首にかけてあったレイを私にかけて下さったのである。 何も言わず黙っておられたにもかかわらず、留守をよく守ってくれたという先生の温い心が私の首にかけられた華やかなレイにこめられている気がして本当に嬉しかった。

加藤健二5.jpg

 敗戦後の日本には食べる物も少なく、先生をはじめ私たちのお昼といったらコッペパンと水がせいぜい。 それでお腹をなんとか満たして稽古をするといった毎日だった。 先生もあの頃は修業中で一番貧乏なさっていた時代だったと思う。 何せ私達は全員そろいもそろって月謝というものを払ったことがなかった。 何を言っても先生はとろうとしなかったからである。 それでも皆と相談して、せめて水道代ぐらいは払おうとお金を集めたが、先生はどうしても受けとって下さらなかった。 月謝どころか実は反対に私達は、先生宅の台所で勝手に飯を食らって帰るといった有様だったのである。 仕方がないので、先生には内緒で奥様に無理やりお渡しすることにしたのだった。 こういったカラテに対する一途で純真な先生の気持ちというものは、世の中がどうしようもない時代だっただけに、私達にはとても価値あるものに感じられた。
 千葉県館山で大山館長の記録映画を撮った際の一部始終を目の当たりにできた思い出は、今でも私の誇りの一つである。 余りにも有名なあの「牛と闘うカラテ」猛牛と素手で闘う大山先生を撮影しようという未曾有の企画であった。 私は先生から電報を頂き、荷物持ちとして待田君と共に馳参じた。 海外で牛と闘ったという話は身にしていたが、実際に目で見るのは初めてである。 闘いの前の控室ではむしろ私の方が本当にやるのかなとオドオドしていた。 先生はといえば、ジッと一点を睨みすえたなり何ものも寄せつけないといった感じである。 私は少し離れた所で荷物を持ってウロウロしているうちに時間となった。 先生の闘かう間は観ている私の方が無我夢中で、パカン!と自然石を割ったときの様な音と共に大きな図体の牛がドっと私の眼前に倒れこんで来た。 先生が牛の眉間を見事正拳で叩かれたのだった。 牛は既に肛門から泡を吹き出しているのが見えた。 苦しまぎれに目茶苦茶に首を振り角を振り周す。 アッと叫ぶ間もなく先生の腹を鋭どい角の先がかすめた。 かなり出血をみたがそれでも先生は牛を押さえつけ手刀一撃でその太い角を鮮かに折った。 そのときの感動といったら、きっと現に見た者でなければわからないであろう。 口で言えば簡単な処業のようであるが、あの先生が小1時間、牛の猛攻をかわしつつ自分の攻撃の最も有効な体勢に牛の角をつかんで押さえつけていくあの俊敏な動き、腕力のもの凄さ、激烈な一撃。 世界中にこれを可能たらしめる人物は大山先生ただ一人しかいないといっても過言ではない。 当時としてもその反響は大きく、確かN.H.Kのニュースでも発表されたはずである。

加藤健二1.jpg
左から石橋雅史、加藤健二、福沢兼山

 実はその頃の弟子である私達も余り先生の威力を試される様というものを見たことがなかったのである。 毎日の稽古では勿論試割りなどというものはやった事もなかったし、先生御自身も自分はこういう事が出来る等という態度は絶対にしなかった。 むしろ先生は試割り等というものはあくまで余技であって自分の威力を人に見せる為にやるものではない、自分への挑戦といったものだと常日頃おっしゃっていた。 この様に普段は決して見せなかったので、たまたまひょんな機会で10円銅貨を事も無げに2本の指で曲げたり、漬け物石の大きいのをパカンと割ったりなさるのを目の当たりにすると本当にびっくりしたものである。
 目白のお宅にはいつの間にか近所の子供達が集まって一緒に稽古をしていた。 この少年達の面当を見ていたこともあってか、やがて立教大裏に、先生から大山道場の看板を掲げる役を仰せつかった。 皆の稽古場は出来たが、しかし先生は全然顔を出しては下さらなかった。 御自分の修業が忙しくて生徒を教えようという気持ちになれなかったのであろう。 私がせめて週1度で結構ですからと頼みに言った事を今でもなつかしく思い出す。 約10年間、私のカラテの稽古は続いた。 始めた事を途中で放り投げず、ずっとやってこれたというのは今でも誇りに思っている。
 大山先生の側を離れて、もう久しくなるが、目白時代、そして大山道場の看板を出した頃に培った何とも言い表せない心の繋りは、先生はじめ当時の弟子間に今も続いている。 自分の意志で考えたことを出来る、何が何でもやってのけるというのはすばらしい男だと思う。 これを誰の力も借りずに自分一人で可能にした大山先生から得たものが今尚心の底に残っているのを、私は感じている。

 という事で加藤健二先生でした。 旧姓が水島だったので昔話では混乱されてた方もいるかも知れません。 入門時期が1951年頃と書いてありますが、第1回アメリカ遠征後なら1952〜53年頃が正解でしょうね。
 戦闘スタイルは小柄な身体を生かして懐に飛び込んで急所攻撃や刀峰で喉笛を押さえる、だったそうです。
 それでは、また。

参考文献:
月刊パワー空手 ILLUSTRATED 1982年10月号 パワー空手出版社 1982年
月刊パワー空手 1987年7月号 パワー空手出版社 1987年
月刊パワー空手 1987年8月号 パワー空手出版社 1987年

 






東京・池袋の武道具専門店 ブドウショップ



フレッツ光で最大106,000円キャッシュバック実施中!





コメント
コメントする








   
この記事のトラックバックURL
トラックバック