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大山倍達マニアック検定

「空手バカ一代」の元ネタ 4(KCコミック第3巻より)

JUGEMテーマ:空手
 

KC空手バカ一代3.jpg

 えー今回は梶原一騎先生原作、作画つのだじろう先生による劇画「空手バカ一代」第3巻の元ネタを探るというお話です。 本巻は大山倍達の転換期となる回ですね。 新しい出会いと別れ、そして絶望、空手の道の断念、新たなる闘いへの誘い、1つの巻でこれだけ詰まってます。

 という事で本編。 作中、"倍達"と書けばそれは「空手バカ一代」の大山倍達を指し、"大山総裁"は現実の大山倍達を指します。 混同しない様にw



本シリーズはコチラから。
 
 さて、ヒグマとの対決が警察の介入により中断された倍達は、次の目標を失い空しさを感じながら帰京します。 そこに小島テーラーの店主(店主の解説は前回しましたよね)が駆け込み、有明省吾が警察に留置されていると聞かされます。
 それによれば有明は食堂で洗武館の仲曽根七段門下の人間が倍達を貶しているのを聞き、叩きのめしてしまいます。 それが原因で警察に拘留。

洗武館.jpg

 ふむ、多分洗武館というのは当時通信教育を行って、「週刊少年マガジン」にも広告を出していた剛柔流泉武館が元ネタでは無いかと思います。

泉武館1.jpg
1971年の広告

 大山総裁は泉武館の泉川寛喜先生、その師比嘉世幸先生や泉川門下だった市川素水先生、千葉拳二郎先生とそれぞれ交流がありましたので、梶原先生が広告を見て勝手に思い付いたのかも知れません。

泉武館2.jpg
泉川寛喜

 71年より始まった「マス大山空手スクール」のライバルでもありますしねw

***

 で、倍達は弟子の暴走に戸惑い呆れつつも引き取る為に警察に赴きます。 しかし、そこには衝撃の展開が待っていました。 有明が警官を殴って留置所から脱走したとの報告です。 拘留されていた留置所の壁には血で書いた破門願いが…。

有明破門願い.jpg

 ぼくを
破門してください
    有明省吾
大山先生

 この話の元ネタは、大山道場門下のHという当時中学生だった人物(イニシャルはHですが、有明省吾の元ネタとされる春山一郎氏ではありません)だと言われています。 この事件から30年近くの後、「月刊パワー空手」にこの様な記載がありました。

 あるとき大山道場に警察官がきて「交番の仮留置場へ入れておいたら、ブロックをぶち破って逃げてしまった。 この道場のものではないか」という。 誰も知らないから「いやうちの道場のものではないでしょう」と答えたが、それから20年たって「実はあれは自分だった」と"白状"したのはHだった。

 その後、2000年に出版された「甦る伝説 [大山道場] 読本」ではこのHという生徒は小学生の頃に入門しやんちゃざかりで悪戯ばかりしていたそうで、中学に入ってから起きた事件との事。 曰く微罪で池袋警察署に補導、拘留され、壁に穴を空けて脱走。 深夜だったので調書も何も取られなかったそうです。

 Hが捕まったのが深夜だったため、調書も何も取られなかったことが幸いした。 池袋警察署もこんな不祥事を表沙汰にするわけにもいかず、外部には知らせなかった。 しかし後日、大山道場生が警察の親しい人からその話を聞き、道場はその話題で持ちきりとなった。 大山道場生たちが、出した結論。 それは、「Hに違いない」ということだった。

 つまりH氏は黙っていたにもかかわらず、事件間もない頃からバレてたって事ですかねw H氏は、他にも中学時代に電車で女性にいたずらする土工3人を全員叩きのめして鉄道公安官に仲間がいるだろうと疑われたりしてます。

***

 本編に戻りましょうか。 行方知れずの有明は気掛かりだが、ともあれ被害者の洗武館に顔を出し謝罪する倍達。 その倍達が去った直後、有明が洗武館に乗り込み道場破りを行い、仲曽根門下最強の日下部三段を倒し、看板を割ります。
 有明の狂気の行動に絶望する倍達に名ボクサー、拳聖ピストン堀口との出会いが待っていました。 ジムを訪れサンドバッグ打ちやスパーリングを経て友誼を結ぶ2人。 暗く沈んでいた倍達の心に爽やかな風を吹き付けます。 堀口は小西康裕の元で空手を学んだ経験もあり、空手への理解があったのです。

KC空手バカ一代3_2.jpg

 しかしその僅か数日後…ピストン堀口こと堀口恒男は轢死します。 倍達は新たに得た友人の突然の訃報に接し、涙…。
 そして暫くの後、ピストン堀口の生前の意を受けて、倍達は社会人ボクシング大会に出場、試合中観客席から有明の事を伝えようとした小島テーラーの店主の声に動揺し、思わぬ反撃を受けるも、僅か1分ほどでKO。 以後の試合を棄権して有明の元に急ぐのだった。

 では解説。 ピストン堀口氏が亡くなられたのは1950年10月24日未明、前日に銀座まで遅くまで飲んだ堀口氏は茅ヶ崎まで列車で帰る際に乗り過ごし、平塚駅で下車し、線路を歩いて帰る途中に0時7分頃、東京発の急行下りの列車に撥ねられます。 列車は急停車し、平塚市の花島病院に運ばれるも死亡。

ピストン堀口.jpg
ピストン堀口

 「空手バカ一代」ではパンチドランカー症状の為避けられなかったという風に書かれていますが、そこまで酷い症状であったならそもそも1人で外に出さないでしょうし、自殺説まで取り沙汰されましたが、酩酊状態だったのが一番の要因かも知れませんね。
 堀口氏が空手を学んだのは事実で、空手の本土紹介に尽力を尽くした空手界の恩人の1人、神道自然流の小西康裕先生の元で学んでいます。他にも忍術や体術で名高い藤田西湖先生にも学んでいますね。  で、大山倍達総裁と交流があったか? と言うと、これは事実の様です。 出会いは戦中、小西先生の元で対面したと堀口氏の長男、堀口昌信氏が語っています。 元々ボクシング出身の大山総裁ですから、戦前からの超人気ボクサーピストン堀口とは当時大山総裁が所属していた在日朝鮮建国促進青年同盟とのボクシング試合を通じて親しくなっていた様です。 昌信氏はこの様に記憶しています。

 …「父と大山さんがスパーリングをしていたのは子ども心に覚えています。 民団が興行を行った試合に、大山さんが出場したという話も聞いたことがあります」

 それで、1946年に7月10日2人がエキジビションで対戦したとされています。 契約体重はフェザー級、当時だと118〜128ポンド(53.5kg〜58.1kg)。 体重超過でコミッションが認められるのは5ポンドまでです。 つまり2人は最大でも118〜133ポンド(53.5kg〜60.3kg)の間だったという事ですねぇ。 この時の大山総裁のリングネームは大山猛。 一応世界中の対戦記録を更新し続けるBoxRecに、同日の試合の記録があります。 堀口恒男と対戦した46年7月10日はTakeshi Oyamaというフェザー級の日本人との対戦になっていますね。 まぁ、このサイトも古い記録は不正確な物や抜けも多いのですが、「大山倍達正伝」と同じ日付の記録があるので一致していると言えるでしょう。 これによれば10ラウンド判定負け、ここの記述を元にするとエキジビションでは無く公式試合になるんですがw 実はこのOyamaという人物は1ヶ月前の6月10日にも試合記録があり、この時は堀口氏の弟、基治氏との対戦記録があります。 試合は10回戦で4ラウンドKO負け。 前述した通りこれが全ての対戦成績かは不明ですが、フェザー級に日本人ボクサーとして登録され、いきなり10回戦デビューで2戦目であのピストン堀口と10回戦判定負けという色々不思議なボクサーですw
 この件については士道館の添野義二先生が当時大山総裁に聞かされた話としてこういう事を語っています。

添野  何しろ勝負には厳しかった。 『極真』の名前でやっていたから、負けると口を聞いてくれなかったよ。 勝つとニコニコしていたね。 でもデビュー戦だけは負けても優しかった。 その時にこう言ったよ。 『俺は昔、ピストン堀口のところで4回戦をやって負けたことがある。 だからがっかりするな』。

 「大山倍達正伝」では当時の大山総裁は80kgを越す、とありますが、当時は恐らく60kg台です。 写真を見ても70kg無さそうに見えます。

1946年頃の大山倍達.jpg
1946年頃

 46年頃ですからね、まだまだ格闘家として未成熟です。 で、「大山倍達正伝」では中学時代にソウルで行われたYMCA主催の市民大会に出場しウェルター級で優勝したという証言があります。 このエピソードが社会人大会の元ネタかも知れませんね。
 後、割とどうでも良いのですが、作中、倍達が叩いた電柱の所に「公共物を大切に」と書いてあり、ちょっと笑いました。

KC空手バカ一代3_1.jpg

***

 本編で有明が起こした不祥事は…何と武装警官12名を暴行し、逃亡したという事でした。 この記事が現存するらしいです。 その報道のあった夜、有明は倍達の元を訪れ、無言で去ります。 倍達は弟子の有様に嘆き、遂には有明を破門します。

KC空手バカ一代3_3.jpg

 その直後の事でした。 破門を言い渡された有明は荒れ、不良少女の誘いに乗り車を運転して暴走、ハンドル操作を誤り事故を起こしてしまいます。 知らせを受けた倍達は病院に赴き、愛弟子の変わり果てた姿に衝撃を受けます。 そして有明は倍達に狂気の理由を語ります。

KC空手バカ一代3_4.jpg

 それは倍達の、大山空手の為でした。 そして告白を終えた有明はこの世を去ります。

 んでは解説。 武装警官云々ですが、事実のほどは知りませんw ただ有明省吾のモデルとされる春山一郎氏をライバル視していた大山泰彦先生が自身のブログでこう書いてらっしゃいます。

やはり稽古の帰り道、空の見えないバラックの中を通りぬけるところで、一目でその筋の人と分かる男達に囲まれました。
春山が私に道着を渡しながら「帰れ、俺とは反対のほうに走れ・・」と囁きました。
私はドキドキしながら春山のそばを離れましたが、誰も私のことは気にかけませんでした。
遠くから見ていると春山を囲んでいる人間がドンドン増えていきました。
脚が竦んでしまいました。
 
突然春山が「オウー」と叫びながら目の前の男に頭突きを出しました。
男はもんどりうって倒れました。
春山の身体が左右に鋭く動くと横にいた二人の男が左右に吹っ飛びました。
囲みが一瞬空き、春山が走りだしました。
私も池袋駅に走りました。
電車に乗っても心臓が口から飛び出てしまったようにドキンドキンを大きく音を立てていました。
 
次の日、先生が春山の乱闘が大きく新聞に載ってしまったと頭を痛めていました。
私は沈黙です。確かこの話は劇画「空手バカ一代」の中に出てきたと思います。

 これの事ですかねぇ?
 で、春山氏の事故ですが、詳細は不明です。 時期は本部道場完成前後。 62〜64年辺りでしょうか。 20歳で亡くなったという話もありますので、同い年の泰彦先生で計算すると42年生まれになるので、62〜63年頃ですかね。  泰彦先生は大山道場時代に聞いたと言いますし、加藤重夫先生はこう語っています。

加藤  大山道場から極真会館になって、春山先輩が20歳になったときぐらいだったかな…ある日、自分が稽古に出ようと会館に入ると、大山館長が上から降りてきたんだよね。 それで、「春山が交通事故にあって危ないと電話が入った。 後を頼む」と言われて病院へ行かれて…。 その時、春山先輩は車でガードレールにぶつかって、すでに全身の骨がバラバラになっていたそうだよ。 館長が病院へ着いたときには、それでもまだ意識があったらしいんだけど、そのまま息を引き取られたって聞いてます。

 昔の話ですから、どちらが正しいのかは知りません。 春山氏はこの頃になると道場に来なくなって数年が経過していますので、偶に会う事はあっても繋がりは殆ど無かった様です。 16歳くらいで用心棒をしていたと言われ、完全に別の世界で生きていた氏はいずれにせよ長生き出来なかったであろうと、当時の門下生は語っています。
 ちなみに客観的な出来事と合わせた「空手バカ一代」年表的にはこうなります。

1945年8月 終戦
1946年秋 山籠もり
1947年 京都の全日本空手道選手権大会/有明省吾と出会う
1948年4月 九十九里浜で雷電号と対決
1950年10月 ピストン堀口死去

 こう見ると有明省吾は2年ほど弟子だったと言う事になりますね。 尚、この年表は「空手バカ一代」年表であって史実ではありませんので、間違えないで下さい。

***

 若くして命を散らした有明の墓を見舞い、虚ろな心を酒で忘れてみようかと1軒の酒場に入る倍達。 しかし鍛えた身体には酔いもロクに廻らない。 自分の行為に空しさを感じた倍達は席を立つがちょうどその時、"人斬り仁科"の異名を持つ繁華街一帯を統べるヤクザの大幹部と揉める事になります。 機嫌の悪い倍達は敢えて喧嘩を避けようとせず、傍らのビール瓶を叩いて瓶切りを披露します。

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 しかし仁科は引かず、ナイフを倍達に向け、突きに行きます。 外受けでナイフの持ち手を捌きながら中高一本拳のカウンターを顔面にぶち当てる倍達。 はじけ飛んだ仁科は即死。

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 その場で倍達は逮捕されました。 悔い、罪を受けようとする倍達に下された結果は正当防衛。 とは言え仁科の残された妻子に責め立てられ空手を捨てる決意をする倍達。 そしてその償いの道に生きる事を誓うのでした。

 今の所、大山総裁がこういう事件を起こしたという客観的な証拠は発掘されていません。 この話の「空手バカ一代」以前で一番詳しい記述は、恐らく1970年の"Black Belt"誌ですかね。 以前大雑把に意訳しましたので、こちらに再録します。

 終戦直後、米士官の為に接収されていた東京の山王ホテルで開かれていたダンスコンテストも終わろうとする頃、1人の日本人が激怒していた。 そしてその怒りの矛先である韓国人は気にする事無く笑っていた。
 2人の男は女を巡って争っていたのである。 日本人はベルトに装着したナイフを取り出しちらつかせた。 間合いに入るや、男は突進してナイフを突き出す。
 そして韓国人と交差する瞬間、男は逆突きを顔面に食らった。
 骨の破壊される不快な音が鳴り響き、まるで熟したスイカを開いた様なその頭が床に着くまでに、男は死んでいた。
 その韓国人、当時24歳の崔永宜ー後に大山倍達という日本名を得て帰化するーにとって幸運だったのは、この日本人がいくつかの殺人事件に関与していたとされるヤクザだった事だ。 その為、大山は裁判所で厳重に警告されるだけでこの事件から解放される事となった。

 これは「空手バカ一代」前に掲載された事件の顛末ですので、原型と言えるでしょう。 作中のエピソードとも状況は似ています。 24歳という事で、1946〜48年前後でしょうか。 山籠もりの時期よりも前の話です。 後はそうですね、1976年の「週刊大衆」にはこうありました。

 この直後、この少年誌を出している出版社へ投書は舞込んだ。 《主人公のモデル・大山倍達は婦女暴行、殺人を犯した男である》 ーー出版社は「前科者をヒーローにはできない」と、取締役、編集長、梶原氏を警視庁へ派遣し、大山氏の罪科を調査させた。
 婦女暴行ーーその事実ナシ。 殺人ーー終戦直後、赤坂署管内でアリ。 但し、相手はヤクザでドスを抜いて攻撃してきたため、正当防衛。 無罪。 出版社は連載を続行した。

 これは大山総裁が記者に語った話ですので、客観的な話ではありません、悪しからず。 つまりは依然として事実は不明のままです。
 後、瓶切りに関しては以前説明しましたので、こちらをご参照下さい。

***

 亭主が死に、東京を去る仁科親子。 群馬の田舎に帰り荒れ地を分けて貰うも、とても生活の成り立つ物では無かった。 そこに倍達は押し掛け、乞食暮らしをしながら耕すのを手伝う。

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 収穫が終わると行商に行き金に換え仁科親子の為に尽くす倍達、少しずつ打ち解けてみた矢先、仁科の息子、雄一が倍達を罠に嵌めて村の若衆から袋叩きに遭わせる。 しかし倍達は空手を捨てると誓った為、無抵抗でこれを受け、自分の誠意を示す。 仁科親子はその倍達の誠意に心打たれ、遂には倍達を許します。

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 年末になると小島テーラーの店主が倍達に電報を寄越し、倍達を帰京させます。 店主は倍達をロスの富豪、日系人のトッド若松の元へ連れて行きます。 空手を捨てると誓った倍達をアメリカに空手代表として連れて行く意向を示し、倍達を煽ります。

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 まだ見ぬ強豪と相対する可能性を提示され迷う倍達を、若松は待つと告げるのだった。

  えー大山総裁も開墾を手伝ったという話はあります。 大山総裁が所属していた東亜連盟の主催者、陸軍中将石原完爾氏が戦後暮らしていた西山農場での事ですね。 千葉でも開墾したらしいですが、どちらも伝聞程度にしか知りません(ただし農具を持った集合写真があります)。 この辺りは裏付け全くありませんのでご容赦をw
 で、アメリカ遠征の誘いですね。 この話は大山総裁によれば柔道家の牛島辰熊先生から誘われたそうです。 代表を決める選考会が麹町のモダン・インポート・カムパニー社長の大山勝美邸で行われ、選ばれたと。 トッド若松は後の話になりますが、グレート東郷への橋渡しをする為の架空キャラという事でしょう。
  で、新顔のレスラーと契約する時に良く使われるというテスト、この様な話は知りませんw 多分こんな事やらないと思います。
 ここでジャック・ジョンソンが素手の一撃で牛を殺したというエピソードが紹介されます。

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ジャック・ジョンソン

 ジャック・ジョンソンと言えば長らく最強のボクサーとも謳われた黒人初のヘビー級チャンピオンです。 …が、大山総裁のこんな発言が残っています。

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  大山  外国でもこんな話があります。 マツクス・ベアーという有名なボクサーか、メキシコで試合をして負けてしまつた。 その帰り道試合場を出たトタン、目の前に牛がいたから、腹立ちまぎれにブン殴つたら牛は死んでしまつたという評判なんです。
  それで、アメリカへ行つたときにほんとかと聞いてみたら「そんなことはぜんぜん嘘だ」といつていましたよ(笑)

 何と1956年のインタビューですw 「空手バカ一代」で引き合いに出されたエピソードは、当の大山総裁自身が20年近くも前に否定していました。 マックス・ベアもボクシングヘビー級王者として名を馳せた選手です。

マックスベア.jpg
マックス・ベア

 後にプロレスラーに転向したプリモ・カルネラや、最強を誇ったジョー・ルイスとも激戦を繰り広げています。
 そしてプロレスラー、"2トン"トニー・ガレント。 この選手も実在します。

Tony_galento.jpg
Tony Galento

 元々ヘビー級ボクサーで、ジョー・ルイスと対戦したのがキャリアの中では最も有名でしょうか。 後にプロレスに転向しますが、何故か熊(レスリング・ベア)やカンガルー等、人間以外の動物と闘う機会が多く、タコと対戦した話は今でも語り草となっています。

ガレント大ダコ戦.jpg
1946年に行われた伝説の大ダコ戦

 ちなみに長年の相棒である熊とはグローブマッチまでやっている様ですw

レスリングベア.jpg
レスリング・ベア

ボクシングカンガルー.jpg
カンガルーボクサー"ポゴ"

  あ、画像は手持ちのプロマイド資料でガレント相手の物ではありません。

 そう言えば仁科夫人って初登場から段々美人になりますよね。

仁科夫人.jpg
描き忘れが多いが、セクシーぼくろの持ち主

 つのだ先生の女性絵ってこういう絵じゃない様に思うんですが、この絵を描いているのが「空手バカ一代」つのだ担当編の末頃に止めたという一番上手いアシスタント氏なんでしょうかねぇ…? 何というか、こう野球漫画の大家、水島新司先生が「野球狂の詩」で少女漫画家の里中満知子先生とコラボした回がありましたが、あれ位の違和感を感じますw


 という事で、今回はこんなもんです。 一瞬分割しようかと思いましたが、止めました。 皆さんにとっての新事実はありましたか?
 当ブログコメント欄で、kimuraさんと珍老人さんの書き込みに回答しようと「月刊パワー空手」を漁ったのがきっかけでムラムラっと来て書いちゃいましたが、記事だけなら6時間足らず。 上々な速度じゃないですかねw (※画像スキャン、編集で2時間経過、そして記事を組むのに1時間、日給出てもいいクラスw)
 あ、ちなみにボクシングのフェザー級体重は1949年頃の物ですので、細分化された現在とは違います。

 そして、トニー・ガレントの大ダコ戦発掘! これって快挙かも知れませんw 1946年の新聞で報道されていますが、正直見付ける自信はありませんでした。 海外のサイトでも見た事無いです。
 それでは、また。


参考文献:
The Ada Evening News, 8/5/1946
Andrew Adams, "MAS OYAMA SEARCH FOR THE ULTIMATE CHALLENGE", BLACK BELT THE 1970 YEARBOOK, BLACK BELT INC., 1970
Sid Feder, WRESTLING FAN'S BOOK(New second edition),  Key Publishing Co., 1953
月刊ファイト 1956年10月号 月刊ファイト 1956年
週刊少年マガジン 1971年49号 講談社 1971年
週刊大衆 1976年10/21号 双葉社 1976年
月刊パワー空手 1987年8月号 パワー空手出版社 1987年
U.S.ネーヴァル・インステテュート刊行 アメリカ海軍航空隊 訓練要綱 ボクシング・テキスト 拳闘社 1952年
KCコミックス 空手バカ一代 第3巻 原作:梶原一騎 漫画:つのだじろう 講談社 1974年
巨人 大山倍達の肖像 -ゴッドハンドの軌跡 国際空手道連盟極真会館監修 コア出版 1984年
凄くて愉快な拳豪たち 梶間正夫著 ベースボール・マガジン社 1986年
極真カラテ 21世紀への道 大山倍達著 徳間書店 1992年
拳に賭けた男たち 山本茂著 小学館 1996年
最強最後の大山倍達読本 日本スポーツ出版社 1997年
月刊空手道 合本復刻(創刊号〜第10号) 金城裕編 榕樹書林 1997年
劇画バカ一代 梶原一騎読本 日本スポーツ出版社 1998年
甦る伝説[大山道場]読本 日本スポーツ出版社 2000年
大山倍達正伝 小島一志、塚本佳子共著 新潮社 2006年

参考リンク:
国際大山空手道連盟 エッセイ「汗馬の嘶き」 第12話 さらば吾ライバル (02/26/2012)
BoxRec Takeshi Oyama (02/26/2012) 
SAMEDASU No.17 人間対猛獣3・「ツートン」トニー・ガレント対大ダコ、熊、カンガルー (02/26/2012)

関連リンク:
【古記事】剛柔流が極真に送った果たし状(1976年) 
神の手の原点、瓶切り
マス・オーヤマ・究極の挑戦への探究(1970年) 








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コメント
春山先生はご存命と2年ほど前に、極真の重鎮G師範から直に聞いたことがあります。
  • ひざげり
  • 2012/02/26 10:52 PM
>ひざげりさん

あぁ、R先生のS県の大会にたまーに来ていらっしゃるらしいですよ。
でも裏が取れた事無いので、今回はスルーしましたw
春山氏の妹さんとその御子息は大山泰彦先生に会いに行っているのに、春山氏に関してはその手の話が無いので、実際の所どうなのかなぁと疑問中です。
  • Leo
  • 2012/02/26 11:41 PM
いや~
今回も凄いボリュームでとても
興味深く拝見させて頂きました!
Leo様の情報収集力は凄いの一言です。
ありがとうございました。

春山氏は存命説、死亡説と謎の多い方ですね。
後楽園でダフ屋してたとか...
裏社会の人なので死んだ事にしちゃったのかな?と思ったりもします。




  • ドラゴ
  • 2012/02/27 12:11 AM
公共物を大切にw

小坂先生が『(大山)先生はよく電柱を思いっきり叩いて、叩いた隣の電柱までダッシュで走って行く。そしてその電柱にて耳をあて、まだ"ビ〜〜〜ン"と振動音が鳴っているのを満足げに聞いていたよ。だけど当時の電柱は構造上いつも振動音がしていたんだよね。。』と笑いながらおっしゃっていましたw
  • 天下泰平
  • 2012/02/27 8:47 AM
>ドラゴさん

んー、春山氏がご存命だとして、考えられる可能性を提示してみます。 ちなみに私が聞いた話だと、事業を興しているので表に出たく無いという事でした。
ポイントは門下生の誰一人として葬儀に参列したという話が無い事だと思うんですよね。
まぁ、かなり好意的に解釈すると、ですがw
1)春山氏が事故に遭う。
2)大山総裁が見舞う(例えば後遺症が残る様な重症だったとします)。
3)大山総裁がそっちの世界と縁を切らせ、死亡説を流す。
4)退院後の春山氏、別の地方で仕事を始める。
5)大山総裁死去。
6)春山氏、2000年の「大山道場読本」を読み、自分の境遇を知る。
7)某師範にコンタクトを取る。
8)一部で存命説が流布する。

こういう感じなら死亡説存命説共に両立するかと思いますw

>天下泰平さん
こう、手刀を鍛えている時は何か色々叩きたくなるのはすごーく良く分かるんですが、隣の電柱まで走って行って振動音が伝わるの聞こうとするのは大山総裁ぐらいですよねぇw
その様子を思い浮かべると、ニヤニヤしてしまいますw
  • Leo
  • 2012/02/27 9:36 PM
いつも有難うござます。
いつか拳道会の中村日出夫氏との関係などを詳しく知りたいです。
よろしくお願いします。
  • kimura
  • 2012/02/28 12:46 PM
凄いです。まさかガレント対蛸の画像を見ることができようとは!
ありがとうございました。
  • モーリスティレ
  • 2012/02/28 4:32 PM
>kimuraさん
中村先生とは殆ど接点無いので、関係とかあまり無かったと思いますよ。 今の所、金城裕先生が山梨の演武会に大山総裁を呼んだって話以上の物は知りませんねぇ。


>モーリスティレさん

私も写真が見付けられるか半信半疑でしたw
ただ、新聞記事の写真なので何がどうなっているのか良く分からないのが残念ですね。
  • Leo
  • 2012/02/28 9:54 PM
仁科夫人の顔の変わり様に対する
ご指摘には
爆笑してしまいました。

本来
違和感を感じるのが当たり前の事を
なんとなく無意識に受け入れていました。

こうやって騙されていくのかと思うと怖いですw。

まあ
当初はカタキ以外何者でもなかったが
倍達の誠意が通じて
仁科夫人の表情が大きく変わったという事で。

いや、絶対無理があります(^_^;)。
  • もん爺
  • 2012/03/01 1:16 AM
>もん爺さん

いや、案外誠意が通じたのやも知れませんw

次の巻になりますが、元旦の仁科夫人の横顔は更に美人で、喋り方にも品があります。 初登場時は「あんた」呼ばわりでしたが、和解する頃には「あなた」になってますし。
まぁ、あのまま小島店主が電報打たなかったら、間違い無く再婚コースですよねw
  • Leo
  • 2012/03/01 9:43 PM
関係ないけど、ジャック・サンダクレスの正体について教えて下さい。
  • やいや
  • 2012/03/01 11:38 PM
>やいやさん

何か前に誰かに聞かれて回答したなーと思ったら、やいやさん、あなたに聞かれて回答してましたw
ですので、こちらのコメント欄をご参照下さい。
http://blogs.masoyama.net/?eid=21
  • Leo
  • 2012/03/02 12:36 AM
すみません。記憶から飛んでました。芦原英幸氏が渡米したときジャックさんが会いに来て、ハイスピードで打つ芦原パンチを見て称賛してたとか。
  • やいや
  • 2012/03/02 2:08 AM
>やいやさん

あれ、芦原先生は退会前にNYに行かれた事があったんですか?
退会後に行った事はあったみたいですけど、その時に中村忠先生の所に行かれたって話を聞いた様な…プライベートで行かれたんでしょうかね?
  • Leo
  • 2012/03/03 12:53 AM
いつも勉強させていただいております。
こちらの記事を最近拝見したもので、大変時期はずれで、すでに解決されている事柄かもしれないのですが、ここで紹介されている「大山倍達先生と沖縄剛柔流の比嘉世幸師範に交流があった」というのは、同じ沖縄空手の「比嘉佑直」先生の誤りではないでしょうか?
この記事元について検索させていただきましたところ、ある本で、やはり大山先生と交際のあった金城裕先生が間に入って、両者の交流があった、との記述があるとのことでしたが、金城先生を通じた交流では比嘉佑直先生が大山先生と交流を持たれていた事実がございます。
まったくの推測で恐縮ですが、同じ「比嘉」姓ということで混同されたのではないか、と愚考いたしました。ちなみに、比嘉佑直先生は剛柔流ではなく、首里手系(たしか少林流だったか?)の先生であったと思います。
  • 通りすがりのマニア
  • 2014/03/06 7:23 PM
>通りすがりのマニアさん

仰るとおり、勘違いしてましたw
ご指摘ありがとうございます。
  • Leo
  • 2014/03/08 12:30 PM
春山一郎は、170僂任錣蠅蛤戮瓩任后(総裁より少し背が低いようです)
総裁の出版及び空手二十周年記念の椿山荘での試割りの写真を見る限りでは大きくないです。
(「男の星座」で春山一郎が登場する場面の元ネタの写真です。たぶん春山一郎の写真はこれしか世に出回っていないはずです)
当時は、大山茂先生が一番背が高かったようです。
  • 一九
  • 2014/09/12 5:57 PM
>一九さん

ありがとうございます。
当時、長身で知られた方ですと、安田英治先生、大山茂先生、矢島力先生がいらっしゃるかと思うのですが、茂先生の方が矢島先生よりも背が高かったんでしょうか。
先日、椿山荘の茂先生との短刀取りを含めた複数の写真が記載された雑誌を入手したのですが、いずれ掲載したいと思います。 ただ、グラビアなのでどう掲載するかが悩みどころですが…。
  • Leo
  • 2014/09/13 7:24 PM
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