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大山倍達マニアック検定

「カラテ群像」7 待田京介 二段(1982年)

JUGEMテーマ:空手
 
 今日は久々、「月刊パワー空手」で連載していた「カラテ群像」から紹介します。

待田京介2.jpg

待田京介
 本名薦岡康彦。 昭和11年6月22日、千葉県館山市に生まれる。 24年、中学入学と同時に、当時館山市で修業中であった大山倍達館長の自宅の道場に入門し、以降30年頃まで館長に師事する。 高校1年の時、目白に居を構えられた館長の後を追って共に東京に移る。 都立大泉高校を卒業後、芸能界にデビューし、現在もテレビや映画等に活躍中である。


昭和24年4月1日。 当時12才だった私が母に連れられ、中学1年の入学式を終えたその足で、大山倍達と表札のかかっている門をくぐったのがこの日で、私にとって終生忘れる事の出来ない貴重な1日となった訳です。

待田京介.jpg

 幼い私は兄と2人で母の横で、館長の言葉を聞いていたものでした。 館長はこの日「私は未だ修業中の身であり、人に教える事もなければ、又その暇もありません。 私自身の修業時間が1日24時間では足らないのです。 1日30時間か40時間であればと思う程なのです。  どうぞ御子息達には何か別の運動をさせて上げて下さい。」 と云っておられました。 しかし、戦争で夫を亡くし女手一つで私達兄弟を育てた母は強固でした。 私を指し、「この子は小学生時代は毎月入院をする程病弱でした。 しかし今日からは中学生です。 何んとか人並みに運動が出来る様な子にして戴けませんでしょうか。 男子たる者が大人になってからは健康が第一です。」 私達の父が北支(現在の中国北部)で虚弱体質が為に戦病死であった事などを口にし、座を立とうとしませんでした。 当惑気な様子だった館長は、暫くしてから、「わかりました。 では、私と一緒に運動をしましょう。 一人よりもかえってはげみになるかも知れません。 但し苦しくなったらすぐに辞めて下さって結構です。 明日から学校が終わったら真直ぐにカバンを持ったまゝで良いから来なさい。」 と云ってくれました。 田舎育ちの私は、ただ母と館長の話を聞いていただけで帰り際にペコリと頭を下げただけでした。 帰り道、兄と2人だけになった時、兄は私向かって、「恐い人だなあ、俺は行かんぞ。 お前が行くんなら1人で行け。」 と云います。 館長の全身から発している修業者としての風格と殺気を子供心に感じたのでしょう。 私はせっかく母がお願いしてくれたのに、1人も行かないのでは失礼になると、自分だけでも行かねばと心ひそかに思っていました。
 翌日館長の前で兄は来ませんが私だけお願いしますと、しどろもどろで云ったものです。 当時館長が住んでおられた家は、館山市沼町という所で、門を入ると正面が玄関。 右手が家の半分を道場に改築してあり、生垣に囲まれた静かな住宅街の中にありました。 入門第1日の稽古はまず最初に自然体、拳の握り方、それから正拳中段突きと上段前蹴りを各30分ずつ、でした。 終わったら掃除をして帰りなさいといわれた館長は、ひたすら自分の稽古にはげみ私の事などまるで忘れてしまったかの様でした。 初日からこの稽古でしたから勿論翌日は朝から足腰が動かず、便所から這って出て来たのを憶えています。 苦しかったら辞めて結構ですよといわれた言葉がチラッと脳裏をかすめはしたが、頑固で負けず嫌いだった私は翌日も無我夢中で道場へ行き、それからずっと必死になって通い続けました。 館長の汗を流し必殺の気合をこめ1人黙々と練習にはげんでおられる姿は、傍に人が居る事を許さない程、張りつめた異様な緊迫感を持っていました。 私はただ押忍!で始まり上段蹴りと正拳中段突きの二つだけをやり、掃除をするとありがとう御座居ましたと言って館長のじゃまにならない様にしているだけでした。 毎日館長の稽古を見ながら私が子供心に日々の厳しさを自覚しだしたのもこの頃です。
 ある日学校の帰りに突然背後からおそわれましたが、気付いた時には、目の前に今でいう番長が鼻血を出して倒れています。 恐しさのあまりに飛ぶ様にして道場に駆け込みしばしぼう然としていると、館長がどうしたと言われるので、是々しかじかですと訳をいいますと、「そうか」 と言って同じ様に背後から組み付いて来ました。 結果は同じで、その時いかにして自分の体が動いたか判り、普段の心構えの大切さを知らされた思いがいたしました。 その日を契機に、組手の稽古が始まりましたが、稽古の後、「よく1ヶ月続いたね、何日で辞めるかと思っていたんだ。」 と言われた時には、大感激でした。 今迄は、大きな恐い先生とだけ思っていた私にとってその館長の一言で道場が急に明るく楽しくさえ思えたものでした。 今にして思えば修業中に小さな子供が入り込んで来たのですから、館長にしてみれば多分邪魔な存在だった事でしょう。 まあ1週間も締め上げればつらくて辞めるだろと思っていたのかも知れません。

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 昭和24年当時の館長は学生選手権で優勝されて間もなくでしたが、一般の空手に対する知識はきわめてうすく、空手でやられると3年後に又は5年後に死ぬんだとか非常に幼稚な流言飛語がありました。 中学1年生の私が入門を許されたと勘違いした近所の高校生達がいろいろな紹介者をたよって入門を希望して来たのは暫くしてからでした。 困った館長は「薦岡! 私の教え通りに教えてやりなさい」と言って自分の練習にうち込んで居られます。 私も困ってしまいましたが教わった通りにやると大抵1日目か2日目で来なくなりました。 味をしめた私は入門希望者には初日から徹底して上段蹴りのみ1時間をぶっ続けました。 中には汗ですべって脳震盪を起す者も出ましたが一切構わず続けたものです。 実は新入者は私にとっても、館長に新しい事を教えてもらいたいと欲が出て来た時ですので邪魔だったのです。 以来、館長と2人だけの稽古がほとんどでしたが、ある日練習を終って雑布掛けをしている時、ふと自分の足を見て、親指の爪が無いのに気付きあわてゝ道場の中を落ちた爪を探し這い廻った事がありました。 館長がそれを見てどうしたと聞かれたので、実はと言いますと、心配され痛くないのかと尋ねますので、何んともありませんと答えました。 「さっきの組手の時に君の足を踏んでしまったので、その時に取られたのだろう。」 と言われました。 後年、足を怪我して外科で指の爪を取る手術をした時に初めて館長の瞬発力の偉大さを知りました。 外科の手術では、先ず指の廻りに麻酔注射をしメスで周囲の皮を切りそれからニッパーで力まかせに引きちぎるのです。 その音は大きくバリバリと異様なものです。 血だらけになった自分の指を見て、何故あの時血も出ずに1枚の爪が本人の知らぬ間に音もなく外れてしまったのか、今だに判らず、ただただ館長の強さと恐しさだけが脳裏い焼き付いたものでした。

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 この頃の毎日は私にとって充実した楽しい日々でした。 時折道場に姿を見せる美しい奥様のやさしい眼差、生まれたばかりの赤ちゃんが天幕付きのベビーベッドで眠っている姿、稽古の後汗を拭き取って下さった館長の大きな手、垣根のすき間から覗き見をしている学生達、私だけが選ばれた人間の様に得意気でした。 そんな時館長が道場に姿を見せない日が続きました。 奥様に尋ねると、山にこもっているので、一人で稽古をする様にと言われます。 毎日の稽古に館長の姿が無いと何か淋しく、1ヶ月もの間館長は何をしているのだろうと思い、何か自分の親父が居なくなった様な感じで稽古に身が入らず奥様は淋しくないんですか等と馬鹿げた質問をした事がありました。 この頃の館長は、山に入り滝に打たれ、何キロも離れた屠殺場に通って牛を倒す事を研究したり、常に人間の力と精神力の限界にいどんでいた日々だったのです。
 館長は、武道家は自分に厳しくあれ、他人にはやさしくあれと昔から常々言われていますが、私程館長御夫妻のやさしさと愛情に恵れ、息子同様にして教えを受けた人間はないと思う反面、極真中最悪の弟子であったと反省をしている日々です。



 という事で、「大山倍達最初の弟子」と呼ばれる待田京介氏でした。 待田氏のエピソードは大下英治先生の小説「風と拳」でも結構描かれていますね。 大枠は同じです。 1949年入門で1955年頃まで稽古をしていたという事で、立教裏の大山道場発足頃には殆ど顔を出さなかった様です。 しかし大山倍達総裁との付き合いはその後も続き、極真奨学会の理事を務めたりもされています。
 ちなみにですね、大山倍達総裁の弟子は待田氏以前にもいらっしゃいます。 知られた限りだと、杉並時代に指導を受け、立教裏の大山道場に再入門された松本岩男氏が今の所最も古い弟子となるんじゃないですかね。 次に古い弟子となると…館山市時代の八代という少年ですね。 近所に住んでおり、清澄山での山籠もりに同行したそうですから47年頃の入門となります。 まぁ、些細な事ですがw
 しかし自分が先生を独占したいからと弟弟子を追い出す待田氏のエピソードは、かのブルース・リーを彷彿させますねw
 待田氏が80年代半ばに芸能活動をほぼ中止した為、正直芸能人としてのイメージはまるでありません。 出演映画を見ると何本か見てはいるんですけど、意識して見た事はありませんでした。 私の世代だと仕方無いかな、と思いますが、ハリウッド映画"Mr.Baseball"に出演されていたというのに、見て気付かなかった自分が残念です。
 それでは、また。


参考文献:
月刊パワー空手 ILLUSTRATED 1982年12月号 パワー空手出版社 1982年
巨人 大山倍達の肖像 -ゴッドハンドの軌跡 国際空手道連盟極真会館監修 コア出版 1984年

 






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コメント
昔2時間もののテレビドラマで脱走囚と刑事という役柄で待田京介と藤巻潤が出ていました。最後は渓谷で決闘。カラテアクションでした。構えた手が完全なチョキだったり思いっきり昔風の空手でしたが、二人が有段者なのを知っていたので食い入るようにみてました。あのドラマ、けっこう面白かったな。
  • kim
  • 2012/03/20 9:34 PM
>kimさん
それは見たいですねぇ。 大山倍達義弟VS大山倍達最初の弟子、なんて贅沢な組み合わせですw
  • Leo
  • 2012/03/20 9:45 PM
こんばんは。
多分昭和56・7年ころの4チャン夜の2時間ドラマです。
脱獄囚集団が人質をとって山に潜伏して人質の中に刑事がいた、という話でした。
では。
  • kim
  • 2012/03/20 10:00 PM
>kimさん
あぁ、その頃じゃあ良い子の私は寝てたでしょうねw
いつか見てみたい物です。
  • Leo
  • 2012/03/22 11:04 PM
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