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大山倍達マニアック検定

ある日の極真会館 6(現代カラテマガジン 1972年11月号)

JUGEMテーマ:空手
 

 今月はGWでまったりしたのと、調査でブログを全然更新してません。 お陰で色々とネタが集まりました。
 しかし、国会図書館が欲しい…。
 という事で、今回は「現代カラテマガジン」の1972年11月号です。


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至難の荒技 百人組手
大山 泰彦 4段の力闘

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 「百人組手」ーーそれがいかに困難な常人の創造を絶した荒稽古であるかは、極真会館創設以来、これを成し遂げた者がわずか五名に過ぎない事実からも、容易に窺われよう。 入れ替り立ちかわり現れる百人の対戦者を相手に、ぶっ通しの休みなしで、真剣勝負の組手試合をこなさなければならない。 長い間のたゆまぬ基礎訓練によって培われたスタミナと精神力、それに加えて、何よりも組手に対する豊富な知識と体験の裏付けがなければ、とても成し得ることではない。

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 この驚異的な、猛稽古をもって聞える極真会館きっての荒業に、先頃、一人の男が挑戦した。 大山泰彦四段ーー長年本部道場の指導員として後進の育成に努め、このほどアメリカ派遣が本決まりとなった彼の、これはその出発を目前に控えての最後の総仕上げともいうべき超特訓の模様である。

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 1試合2分間の真剣勝負ーー延々3時間に及ぶ長丁場である。 しかもその2分の間に、相手を完全に圧倒して勝ち抜いてゆかなければならぬというのだから、まさに人間の能力の限界をはるかに超えた至難の荒業といえよう。 50人を過ぎたあたりで大山4段の疲労は極限に達したようだ。 スピードが目に見えて衰え、苦戦が相次ぐ。 対戦者の何でもない攻撃をかわし切れずにダウンすること数度ーーついに大山館長が試合中止を宣告した。 61人目であった。

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特別寄稿
少林寺はニセモノだ!!〈1〉
金剛禅正統少林寺拳法は 中国拳法のマガイモノだ
文:谷口統健(秘拳日本妙道会 主宰)

クニの目
 文:福沢拳山

〈読切連載〉 空手奇談 (5)
 「静かなる鉄人」
文:真樹日佐夫

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連載劇画 血風録(6)
 絵:制野秀一(つのだ・じろうプロ)

連載小説 青春賭博(6)
 文:高森真土

海外だより
イアン・P・ハリス
 南アフリカ地区連盟委員長 ローデシア ソールスベリー支部長 三段

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 1938年、北アイルランド・ベルファースト生まれ。 60年頃から柔道を始め、英国アマチュア柔道協会の二段となる。 63年に南アフリカ・ヨハネスブルグに移住、柔道の他に松濤館の空手を始める。 65年、ローデシアに移住後、道場を開設。 66年に極真会館支部長として認可を受け、間もなく南アフリカ地区連盟委員長に就任。 68〜69年の間に都合4ヶ月間、東京の本部道場で修業を積み三段を允許。 69年には百人組手に挑戦、30人 まで闘う。
 現在はローデシアに4つ、南アフリカに3つ、モザンピークに1つの道場を持つ。

田中恒義
 南アメリカ地区連盟委員長 ブラジル サンパウロ支部長 二段

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 1934年、サンパウロ生まれ。 10年前、松濤館空手を始め、暫くの後、剛柔流に移籍、63年に道場を設立する。 大山倍達館長の著"This is Karate"に感銘を受け、68年に東京本部から指導員を招聘し、半年間指導を受ける。 70年、来日して指導を受ける。 滞在中第2回全日本大会があり、審査員を務めた。 今年の7月には大山館長を招き、第1回サンパウロ大会を開催した。

J・L・マクドナルド
 オーストラリア支部長 二段

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 1945年、オーストラリア生まれ。 67年頃から極真空手を学び、70年、ニュージーランドのアパーハットの空手クラスを指導する事になり、移住。 同年11月に来日して翌年3月まで本部で指導を受け支部長として認可された。

再度の栄冠をめざして
ー第4回オープントーナメント大会を前にー
文:佐藤勝昭(極真会館 初段 前年度大会優勝者)

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 第二回大会が私にとって初めての大会出場であり、試合当日までのコンデション作りなどに関して、全くの無知だった。 当時はキックボクシングが盛んになりはじめた頃で、添野先輩たちが大活躍をしていた。 そして、「試合前日はサウナ風呂に入って体調を調節する」という先輩の言葉を、その頃私は小耳に挟んだことがあった。 それが妙に頭にこびり付いてはなれなかった。
 そして、いよいよ明日が大会という前日に、私はこの言葉通りに実行してしまったのだ。 摂氏百二十度もあるサウナ風呂に、ものの二時間位も入ったろうか……
 風呂を出た時は体重が二キロも減って、フラフラの状態だった。 あまりの披露に、家へ帰っても食欲はなく、床に就いても神経が高ぶって寝つかれず、転々と寝返りを打ちながら、とうとう明方まで過ごしてしまった。
 そんな次第だから、いざ試合場へ臨んでも気分がソワソワして落ち着かず、今になって思えばとても試合に勝てるような状態ではなく、完敗に終わったのがむしろ当然といえよう。
 この第二回大会での惨めな結果を肝に銘じ、その後の一年間、私は雪辱を期してひたすら稽古に打ち込んだ。
 この九月に空手指導のためアメリカへ渡られた大山泰彦師範代の指導よろしきを得て、極真会館本部道場で連日、ライバルの大石さんらと争って稽古した。

空手バカ一代 (6)
文:梶原一騎

誌上空手道場 〈第5回〉
指導: 極真会館黒帯研究会


大山カラテスクール通信教育ニュース
茶帯コースへ進んだ皆さんへ


 今回は百人組手の話がありましたが、元々百人組手というのは、部活動で卒業生にやる「追い出し稽古」が元では無いかと考えています。 つまり海外に行く人間を祝福する為に門下生総出で組手をして送り出す…そんな風習だったと思います。 この時点までの百人組手達成者、挑戦者はいずれも例外無く海外指導員、支部長だと言うのはこれが理由でしょう。
 それでは、また。


参考文献:
現代カラテマガジン 1972年11月号 現代カラテマガジン社 1972年




 






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コメント
今晩は!

>百人組手は部活動の追い出し
成る程!そう考えると初期の人数が百人戦っていない云々も納得ですね。

添野、郷田、岸の各先生方のお顔も…。
実際に泰彦先生と戦われたのですかね?

いずれにせよ最も苛酷な百人組手だったのでしょうね。

では
  • サミ
  • 2012/05/23 8:42 PM
確か館長が「泰彦から一本取ったら1段昇進させる」とかはっぱをかけていたとか。
  • kimura
  • 2012/05/23 9:31 PM
大山泰彦と三瓶、中村、三好だけかと思っていましたが、イアンハリスも100人組手に挑戦していたとは知りませんでした。他にも挑戦者はいたんでしょうか?
  • kim
  • 2012/05/24 6:36 PM
>サミさん
郷田先生は分かりませんが、添野、岸両先生は対戦してますね。

>kimuraさん
そう言えば…と思い昇段チェックしてみましたが、誰も昇段してないっぽいですねw 南本一郎先生の時は昇段してたのに。

他の挑戦者で有名なのは小笠原和彦先生でしょうね。 本部外からでは初の挑戦かな。 詳細は機関誌でもあまり載って無かったですが、確か途中で相手の袖か何かに足の指を引っ掛けて酷い裂傷を負い、中止だった様な…。 映画「キョクシン」に収録される予定だったんですけどね。

後、1969年の昇段規定では、三段から四段への昇段にこういう項目があります。

ホ、100人の組手に完勝する事。(1人につき3点以上取る事)
ヘ、極真会館の功労者及び模範の指導員とみなした場合。

これが改訂されたのは1978年(細かい規定の変更は度々あります)で、ここから40人組手へとなりました。 …まぁ、連続して見て行くと、百人組手が規定に入って無い時期もあるんですけどね。
この規定により極真では長い事、三段より上が非常に少ないという時期がありましたw 具体的に言うと支部長の昇段ラッシュの頃までですね。

  • Leo
  • 2012/05/24 9:47 PM
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