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大山倍達マニアック検定

「カラテ群像」9 福澤兼山 二段(1983年)

JUGEMテーマ:空手
 

 えー今回は、「月刊パワー空手」「カラテ群像」より、福澤兼山先生の記事を紹介します。
 あんまり知らない人の方が多いかと思いますが、「現代カラテマガジン」では、大山国良先生が「近代カラテ」で始めたコラム、「クニの目」を引き継がれて執筆されていましたね。
 それでは、どうぞ。

福澤兼山2.jpg


福澤兼山 二段

 昭和16年1月11日東京市本郷湯島に生まれる。 同年12月第二次世界大戦が勃発、これにより父を失い精神的支柱を空手に求めて30年(15歳)春に目白・大山道場の門を叩く。
 昭和38年3月、日本大学商学部卒業。 日本火災海上に6年間勤務ののち叔父の経営する敏宏実業(株)に入社。 のち、同社代表取締役となる。 現在、(株)福澤代表取締役。 『ピースクリー山の会』幹事長、などを務める。





 入門一日目
 あれは昭和30年─か31年だったかと思いますから、今から約28年前のことです。 ある春の日曜日に青白くヒョロヒョロした、見えるからに腺病質な中学生が目白の大山先生のお宅を訪れました。 その少年が私だったのです。
 玄関に出て来られた大山先生との初対面の時のことを、私は生涯忘れないでしょう。 今でもあの時の先生のランニングシャツ姿、そしてシャツからはみ出した力強い筋肉のひとつひとつの動きまで、そのまま覚えているのです。
 「あのォ、空手を教えていただけるでしょうか……?」
 と気弱に、恐る恐る聞く私に、張りのある野太い声で「ハイ、教えますよ!」と弾むように応じてくださった時の先生の微笑で、それまでの緊張と恐怖感から解放されました。
 目白の稽古場については既に諸先輩が書かれているので詳しいことは省きますが、当時としては豪華でモダンなお宅でした。 ただ少々異風に思ったのは掘の内側にチョークでいろいろ書いてあったことで、それは先生が自らを律するために書かれた言葉でした。 二、三紹介します。
 「目的の為に馬鹿になれ」
 「汝は天下の大馬鹿者だ」
 「武術の天才は努力によって成る」
 また、もうひとつ異色だったのは、立派な家と不釣合に庭木が1本もなかったことです。 もちろんのことですがそれは、庭で稽古をするためだったのです。

加藤健二2.jpg

 私がその庭で最初に習ったのは下段払いでした。 大山先生ご自身と加藤健二先輩(初代師範代)、お二人で教えてくださいました。
 午前中は下段払いばかりで稽古は終わってしまいましたが、午後からはこれに中段一本突きが加わり、少々難しくなります。 午後からの先生は、時にチラッと見るだけで加藤先輩だけが手取足取り教えてくださったのですが、私の覚え込みの悪さに先輩のほうが先に疲れてしまいました。 こんなわけで、今でも先輩からは口癖のように「お前は昔から何をさせても不器用だなァ」といわれます。 私もそんな時は負けずに「下段払いは一流ですヨ」とやり返し、大笑いになります。
 大山先生30代、加藤健二氏20代、私15歳の出会いである入門一日目の春の日曜日は、このようにして暮れたのです。

 目白から池袋へ
 今もそうだと思いますが、大山先生も奥様もたいへんに人の面倒見がよかったので、われわれ弟子たち以外にも先生ご夫妻を慕って大勢の人々が入れかわり立ちかわり集まってきて、目白の時代も池袋の時代もかなり賑やかなものでした。 特に池袋立教裏の道場に移ってからというものは、加藤師範代を助けて日大芸術学部OBの石橋氏と南本氏が指導した時期があり、必然的に大学生や劇団関係の若者の出入りも多くなりました。

福澤兼山1.jpg

 当時は私も高校に進学しており、ほかにも何人かの高校生がおりましたので、少し年上の大学生たちと一緒に稽古をしたり話をする毎日が楽しみでした。
 稽古内容についても既に先輩方がお書きになっていますが、私個人にとっては少々きついものでした。 最初にも書きましたとおり、私は元来とても体が弱く、力もありません。 身長178cm、体重56kgでモヤシのようだった私は、空手そのものよりも補強運動であるウエートトレーニングに情熱を注ぎました。 当時の稽古は夜だけでしたが、学校から帰ると明るいうちから道場に行って、バーベルとダンベルと逆立ちばかりやっていたのです。 その頃の私の関心は、空手が強くなるよりも人並みの健康が欲しい、ターザンみたいな逞ましい肉体が欲しいという思いだけでした。
 そんな私の健康に関して先生からもずいぶんとご心配をいただき、わざわざ私のためにトレーニングのカリキュラムを作ってくださったり、栄養の取り方についてまで細かくご教示くださいました。 後年になって体重を76kgまで増やすことができ、ベンチプレスで115kgを上げた時の嬉しさといったら、なんとも表現できない感激で、急ぎ先生にお知らせしたほどなのです。
 栄光ある極真の前身である大山道場の"恥部"にもなりかねないことを書いてしまいましたが、私にとってはこれこそが真実であり、これこそが青春だったのです。

 道場、世相、思い出すままに
 (1) 目白の頃、戦後初めての空手雑誌が発売されました。 『月刊空手道』といい、1年ほど続き定価は20円でした。 これには大山先生の記事も詳しく載り、毎月買いました。

福澤兼山3.jpg

 (2) 立教大学裏の道場で先生は、時々弟子たちと組手をしてくださいました。 もちろん先生は、相当に手加減され、少年たちが相手の時などは怪我をさせないようにと細心の注意をはらってくださり、特に痩っぽちの私には軽く軽く当てるようにして、それでも私が倒れそうになるとパッと後ろにまわって私の身体を受け止めてくださるのです。 傍目には、まるで父と子が相撲をしているような姿だったかと思います。
 (3) 道場の周囲には何もありませんでしたが、立教通りには鉄板焼ソバ20円、小倉アイス15円の店があり、われわれはよく焼きソバを2人前ずつ食べました。 アイスクリームは腹の足しにならないので、よほど小遣いを持っている時以外は食べませんでした。 なお、当時の池袋西口にはまだ闇市の名残りで、なんとなくゴミゴミしたなかにいろいろな店が並んでおり、そのなかに蛇屋があってウインドーに「ガラスを叩くな」と書いてありました。 われわれは蛇を脅かすためにドンドンとガラスを叩いては、店の婆さんに怒られました。 一番よくやったのは良ちゃん(早川良一氏)です。

福澤兼山4.jpg
大山道場に通っていた豊田善美

 (4) 当時、女子プロレスの第1期でした。 選手の何人かが道場に出入りしたり、空手の稽古に来たりしていて、その彼女たちに人気があったのは学生空手チャンピオン学習院大学の安田英治先輩や、薬科大に通っていたハンサムな小坂修一先輩などで、われわれガキどもはまったく問題にされていませんでした。
 (5) その頃の唯一の娯楽といえば、映画を観ることでした。 仲の良い連中で時々観に意気、時には先生に連れていっていただいたこともあります。 しかし当時は、空手映画はほとんどなく、わずかに東映が一本『力闘空手打ち』(主演:波島進)を上映していましたが、本格的映画とはほど遠いものでした。

 そして今
 「超一流といわないまでも"只の一流"ぐらいにはなりたかったのに、結局は二流で終わりましたよ。 せっかく先生や先輩と縁があったのに……」
 ーーこのように加藤先輩に申し上げたら、即座に「縁があっただけでも充分じゃないか」といわれましたが、考えてみたら確かにそのとおりでした。
 戦争で父を失い、兄弟もいない私が"男"として精神的バックボーンを確立するためには、何か"範"とするものが必要だったはずです。 その私に大山先生との縁ができ、空手の修行を通して先輩や後輩との絆を持てたことは、人生の大きな収穫であったはずです。
 そして今、その縁のなかから自然発生的に"双葉会"という集まりが生まれました。

福澤兼山5.jpg
双葉会(一番右が福澤兼山)

 これは、会長も置かず会則もなく、大山先生と食事をともにしたり時折旅行などをしている取りとめのないグループで、また、日常にあっては用事もないのにお互いの家を訪問したり訪問されたりして、家族ぐるみのつき合いをしているユニークな"会"です。
 私は今後も、終生この"縁"を大切にしていきたいと思っています。


 という事で、福澤兼山先生の記事でした。
 福澤先生が挙げている悪戯仲間の良ちゃんこと早川良一先生は、多分有明省吾の留置所破りの元ネタとなったH氏だと思いますw
 小〜中学生くらいで入門した初期の門下生でイニシャルがHだと、そのくらいしか思い浮かばないんですよね。
 「月刊空手道」は空手時報社ので、創刊号は金城裕先生と大山倍達総裁の対談があり、表紙になった事もあります。
 女子レスラーとは、1人は東京ユニバーサル女子プロレスリング団.の豊田善美(明美)さんですね。 肝の据わった方だった様で、いくつか伝説もあります。 佐渡の演武会に一緒に行かれた際には、道中バスの中で痴漢に遭い、同行のメンバーがその痴漢を締め上げたとかw ちなみに同行のメンバーとは、こんな感じです。 石橋雅史先生の横に豊田さんがいるのが確認出来ます。

福澤兼山6.jpg
佐渡島演武会遠征メンバー(後列左から3番目が豊田善美)

 で、この豊田さん、元々尚志館という空手道場に入門されてるんですよね。 今ググると愛媛の日本空手協会系の道場と同名なんですが、1956年頃は別の道場があったのかも知れません。

 あ、それから今までは中庸的な呼び方を悩んでおり、指導員以上の人には「先生」を付ける事にしてたのですが、今後は皆「先生」にする事にしました。 大した話では無いのですが、「師範」だと正確には段位が関わって来ますので、当ブログの記載ルールとして少々困ってたのですw
 明文していない記載ルールは色々あるのですが、そんな感じで今後とも宜しくお願い致します。
 それでは、また。


参考文献:
月刊空手道 1956年7・8月合併号 空手時報社 1956年
月刊空手道 1956年10月号 空手時報社 1956年
月刊パワー空手 1983年3月号 パワー空手出版社 1983年
月刊パワー空手 1987年7月号 パワー空手出版社 1987年
月刊パワー空手 1987年8月号 パワー空手出版社 1987年



 






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コメント
当時としては豪華でモダンなお宅

こう目白の大山先生のご自宅を福澤先生は表現されていますが、やはり「目白御殿」であったのでしょうか? とにかく、普通の家より大きくて立派であった事は事実だと思います。しかし……その御殿も保証人になったおかげで手放す事になり、後に板橋区南町の方に小さな家を購入して、その家に黒崎先生が尋ねたと言う事らしいですが、正確かどうかは解りません。
「師範」という呼称と段位の関係は興味深いです。ぜひご教示下さい。
  • dai
  • 2012/07/09 10:03 PM
>名誉五段さん

そうですねぇ。 全体像の分かる写真を見た事はありませんが、建設中の写真や室内の写真を見ると結構立派だったと思います。
金城裕先生と居間で対談している写真も広々としてますし。 L字型だったという庭は一部分しか写っていませんが、広かったんじゃないですかね。

ちなみに引っ越し先の借家は板橋3丁目342で、その後南町12に移っています。
黒崎先生は1956年夏の人見神社合宿には参加していますが、ご本人が仰る1953年入門説については少し疑問があり、実際にはもう少し遅いのでは無いか? と言うのを以前Twitterで書いた事がありますw
仮に板橋の家が初対面だとしたら、黒崎先生は1956年の合宿直前に大山総裁と出会った事になりますね。
  • Leo
  • 2012/07/09 10:07 PM
>daiさん
ええとですね、本来の規定では、五段より「師範」になります。

ですが、一国一城の主である支部長は、五段未満でも「師範」と呼びます。 本部直轄の場合は本部の「師範」がいますが、五段未満の方も、大体「師範」と呼称しますw
「師範代」については「師範」が任命した人が対象となりますので、段位の規定はありません。
規定上はこんな感じです。

(イ)二段以上の者には錬士の資格を与える。
(ロ)三段以上の者には教士の資格を与える。
(ハ)五段以上の者には師範の資格を与える。
錬士は準指導員、教士は正指導員とみなし、師範の資格を有する者のみ道場の師範となり得る。

まぁ、厳格に守っている所なんて殆ど無いと思いますがw
  • Leo
  • 2012/07/09 10:27 PM
Leo様

実はその「南町」のご自宅のあった場所から自転車で7、8分ぐらい北の方面に20代半ばまで住んでおりました。今松井派の毛塚君も当時は要町に住んでいましたからすごく親近感を感じますね。もっとも、総本部に私は自転車で、毛塚君は徒歩で通っていた(昭和50年当時)程ですからとにかく近かったのです。
>名誉五段さん

本部に近かったとは羨ましい。
まぁ、今私がいるとこは昔西田幸夫先生が住んでた辺りですがw

本部通いで一番遠かったのは、山崎照朝先生だと思いますが、昭和50年当時も遠方から通われている方っていらっしゃいましたか?
  • Leo
  • 2012/07/12 9:44 PM
そうですね。一番遠いい人で栃木県小山市から通って来ていた青森出身の人がいましたね。真面目な人で「けんか空手極真拳」のエキストラで林栄次郎さん達と少し出ていましたね。
>名誉五段さん

栃木県ですか。 この頃ならもう東京都下埼玉支部もあるのに凄いですね。
「けんか空手極真拳」のシリーズもレアな方が出てらっしゃいますので、エキストラ出演のシーンを見るのが好きですw
最後の3作目は何かもう色々酷かったですけどw
  • Leo
  • 2012/07/15 11:58 AM
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