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大山倍達マニアック検定

「空手バカ一代」の元ネタ 2-2(KCコミック第1巻より)

JUGEMテーマ:空手
 さて、前回の続きです。
 昨日は完全オフにしようと思っていたのですが、ちょっと長谷川一幸(巨気)先生のDVD映像特典に入っている第2回全日本の映像を見てしまい、ついでに一部で第1回全日本の映像と言われている8ミリ(実際には第2回の映像と思われる。 というのも特典映像と違う角度で撮影されているが、佐藤勝昭先生や富樫宜資先生らしい人物が写っている)、真樹日佐夫先生原作の「すてごろ」等々色々見てしまい、あんまりオフにならなかった気がしますw
 レア映像もその内紹介したいですね。

本シリーズはコチラから。
 
 
KC空手バカ一代1.jpg

 そうそう、本編を始める前に一言。 前回、「宮本武蔵」の本について話をしましたが、その後「世界ケンカ旅行」を読んでいたら、「全8巻」と書いてあったので、戦前に出版された大日本雄辯會講談社版を読んでいたと思います。

 大山倍達が山籠もりを開始したのは「空手バカ一代」では1946年の秋頃となっていますが、現在残されている山籠もりの際に付けていた稽古日誌では、47年4月が一番古い日付の様です。

清澄山山籠もり.jpg
稽古日誌

 1956年に山口剛玄先生と共にインタビューを受けた時の物を抜粋してみます(「東京毎夕新聞」 1956年4/30)。

大山倍達山口剛玄インタビュー.jpg

大山 初めて山へ入つたのは昭和二十二年七月です。 戰後、ある事件を起こしてしまいましてねぇ。 それがだんだん大きくなつてしまつたものだから、あつちこつち逃げ歩いたんです。 そのとき、曹寧柱先生(原文ママ)と知り合つたのですが、曹先生に、
 「山に入つて、落着いた方がいいだろう」
 といわれたので、その気になつて、田中清源氏(原文ママ)の世話で天城山に入つたのです。 でもこのときは半年ぐらいで下りて来てしまいました。ハツキリいえばCIDとMPに追い回されたので山の中に逃げ込んだんです。
(中略)
 その後、どうせ空手をやるなら、日本一になつてやろうと決心して、日蓮上人が悟りを開いた千葉県の清澄山に入つたんです。 そのときは、裾から二舛阿蕕い了海涼罎望屋を作りまして、八代という弟子と二人で入つたんです。
(中略)
大山 山に入るときは丸坊主になつて、髪と修業と競争するつもりだつたんですが、やはり町に行きたくて、どうしようもなかつた。
(中略)
…それで、また心を振るい立たせて眉毛を片方ずつ剃つて、町へ出られないようにしたんです。 眉毛は伸びが遅いですからね…一日五時間ぐらい稽古したんです。 そのうち、町の子供たちが「天狗がいる」といって見に来ましたよ。

 どうでしょうか。「空手バカ一代」のエピソードが含まれてますね。
 元々、眉を剃ったのは文中では省略していますが、椎柱先生に手紙を書いて苦悩を吐露した所、進められて眉を剃ったという事です。 これは戦前、剛柔流の山口剛玄先生が山籠もりの際にやった事ですので、それを沈萓犬伝えたのでしょう。

 「大山倍達正伝」を曲解して「大山倍達は山籠もりをしなかった」と言っている人も居るようですが、正確には「長期間では無く、何度も山籠もりを繰り返した」というのが真相でしょう。 籠もったのは清澄山の他に、身延山、七面山、天城山、三峯山の様です。
 ちなみに妻の智弥子夫人は当時の苦労話を「わが夫、大山倍達」という対談本で実にほのぼのと語っており、山籠もりについてはこの様に語っています。

ー総裁が清澄山に籠もられたのはその頃ですね。
智弥子 そうですね。 一度だけ山に訪ねて行ったことがあるんですよ。 でも、追い返されちゃいました。

 また、智弥子夫人は眉を剃り落とした大山総裁が下山して来た時もばったり出くわしています。

空バカ眉剃り.jpg

ー眉毛剃ったのは見たことありますか。
智弥子 ありますよ。
(中略)
それを私に見られた。 自分で決めたことを総裁自身が破った。 それで自分の弱さに気づいたんだと思います。 それで両方の眉毛を剃りましたね。 最初は鉢巻きして隠してたからわからなかったんですよね。 それで気づいた時にはおかしかったけど、でも笑っちゃいけないでしょ。

 他にも「大山名人」が山籠もりをしていたという証言を元に、清澄山で修業していた場所を探し回った真崎明氏とメディアエイトの前田達雄社長が、修業時に残したと思われる鍋や瓶を発見しています(尤も、本当に総裁が使っていた物なのかは不明)。

清澄山遺品.jpg
清澄山で発掘された物

 途中下山して奉納相撲に出場する話ですが、かつて大山総裁がお世話になった辻兼一という先生のご子息、正弘氏が以下の様に語っています。

空バカ奉納相撲.jpg

大山さんと秋祭りに行った時の事です。 場所は今の長良川小学校なんですけど、そこに土俵があって、相撲大会が行われていたんですね。
 すると大山さんは「一丁、出てみるか」と言って、まわしを着け、土俵に上がるや、どんどん相手を投げ飛ばしてしまうわけです。 大山さんは韓国の方なんで相撲の技は知りませんが、力ずくで相手を倒してしまう。 そして、地元の力自慢で有名な人にも勝ってしまった。 ものすごく強かったです。
 その相撲大会の主催者は『相撲の知らない男がなんであんなに強いんだ!』と驚いていました。 そして優勝した大山さんは米俵を一俵、懸賞でもらい、家にプレゼントとして持って帰りました。 それが大山さんが強かったという唯一の思い出です。

 そして、下山。 大山倍達が電信柱を叩き、雀が落下するというシーンがあります。 これは関西テレビの番組「明日ハレルヤ」で大山総裁自身が語ったところによれば、こうでした。

あれ、漫画ではね、雀が落ちてるんだけども、雀は落ちやしないよ。(スタジオ内爆笑) しかし瞬間ねぇ、瞬間、あの〜飛べないんだね。 瞬間びっくりして。そして手で叩いたその跡がねぇ、そのまま残って。

空バカ電柱.jpg

***

 下山後、大山倍達は空手の全日本大会が開かれる事を知り、飛び入り参加をする訳ですが、この時の記事は47年の「京都新聞」(1947年9/28)が唯一と思われます。 GHQが武道禁止令があったので、この大会が嘘だという人もいますが、圓心倶楽部主催による体育大会があったのは事実であり、そこで空手や柔道が披露されたのも事実です。

京都新聞昭和22年9月.jpg
体育大会を伝える京都新聞の記事

 これは不確かな情報なのですが、空手に関しては沖縄の武技だという事で、他の武術を尻目に解禁されていたという話も聞いた事があります。 実際、東大空手部は戦後一度廃部になって、1947年に復活していますし、早稲田の空手部の場合は大浜信泉という先生が文部省とGHQに交渉し、廃部にすらならなかったという話ですから、ルーズなところもあったのだと思います。

 さて、この大会の証言者を紹介してみます。 最初は大山総裁の師、椎柱先生です。 沈萓犬和膸柿躡曚鯊膕颪望靴い芯ニ椰佑如△海梁膕颪任録拡修發笋辰燭箸了。

 当時はまだ山口先生は大陸から引き揚げる前で、私も審判などをやったんだが、大山は試合に出た。 空手の試合は大山の他に2、3組がやっただけで、全員が試合をしたわけではないよ。
(中略)
空手では、他の奴は型や、瓦の試し割りをやったりした。
 この時の組手では、防具も少し着けたんじゃないかな。 たしか、銃剣術の防具(胴)と剣道の面を着けてやった。 スネ当てはなかったので、足掛け(下段蹴り)はなかった。 大山の相手は鹿児島出身で、警察上がりの男だったな。その頃はまだ大山も後年ほどには太くなかったが、相手の男も似たり寄ったりの体格だった。 どんどん攻めていったので、誰が見ても大山の勝ちだったよ。 奴も嬉しかったようで、すぐに館山へ電報を打っていたな。

 もう一人は、後に本部直轄大阪道場の責任者となる、岩村博文先生です。 当時柔道を学んでいた岩村先生は、この大会を見に行き、大山総裁と出会いました。 以下引用。

空バカ全日本.jpg

 「戦後とはいえ、それでも観衆は1000人ぐらいはいましたですかね。
 大山先生がいきなり、ノッソリと会場に現れたときは、みんなびっくりしましたですね。
 大山先生を扱った映画にも、また劇画にもありましたでしょう。 まさにあのとおりで、それは凄いものでしたよ。 会場からは溜息が頻繁に聞こえました。 風貌は、大山先生からもお聞きになったと思いますが、二目と見られませんでした。 まず、なんといっても目の輝きが凄かったですね。 それで、全身からは殺気が漂っていたんです。
 組手など、当時私には空手のことはよくわかりませんでしたが、先生と、他の選手たちとでは比べものにならなかったですね。 スピードや迫力の点で、他を寄せつけないといった感じでしたから……。
 ほとんどの選手が、立ち会いの時点で負けていました。 てんで勝負にならなかったですね。三つ、呼吸をしているあいだに、勝負は決していたようです。 1で構えて、2で空いての攻撃を受けて、そして3でこちらの攻撃を入れる。 このパターンでしたね、どの試合も。
 先生は体格的に見て、当時としては大きいほうでしたが、試合に出るほとんどの選手もわりと大きな身体をしていました。 ですから、体格的な問題ということもないでしょう。 私なんかのような素人目にも、力の差、技の差がはっきりと見て取れました。

 どちらが正しいのか、それともどちらも正しいのか、それは分かりません。 個人的な意見で言えばですが、岩村先生の見た光景は、約束組手の演武では無かったかと思います。 試合と試し割りと、それから演武組手をやったんじゃないでしょうか。 試し割りで瓦17枚割りを達成した件については、これを語る関係者もおらず不明。 しかし、演武で門下生が15枚や20枚の瓦を割っている事から推察すると、出来たであろうと思います。 そうそう瓦と言っても、今流通している様な試し割り用の瓦ではありませんよ。

 最後になりますが、本部に1947年と銘打たれたトロフィーがあるので、最優秀賞の様な形で表彰されたのかも知れません。

全日本トロフィー.jpg
トロフィーと共に


 如何でしたでしょうか?  このシリーズはバラバラに展開する予定ですので、次回は何巻に手を付けようか悩むところです。
 解説は…特に無いですかね。 今週は平日に1度くらい更新したいものですw
 それでは、また。

追記:
「京都新聞」の掲載を忘れていたので、追加しました。
 最も→尤もに訂正しました。

参考文献:
京都新聞 1947年
東京毎夕新聞 1956年
剛柔の息吹 山口剛玄著 栄光出版社 1966年
世界ケンカ旅行 大山倍達著 河出書房 1968年
KCコミックス 空手バカ一代 第1巻 原作:梶原一騎 漫画:つのだじろう 講談社 1972年
続・ケンカカラテ わが青春の修練秘録 大山倍達著 スポーツニッポン新聞社出版局 1974年
空手道 「大学OB 青春時代を語る」 創造 1977年
月刊パワー空手 1984年2月号 「武道カラテに捧げる生涯 大山倍達の足跡」 パワー空手出版社 1984年
武道空手 1989年9月号 「山籠り」 成美堂出版 1989年
紙のプロレス公式読本 大山倍達とは何か?  ワニマガジン社 1995年
月刊空手道 1995年10月号 「椎柱氏インタビュー<後編>」 福晶堂 1995年
わが夫、大山倍達 大山智弥子著 ベースボールマガジン社 1995年
ワールド空手 1997年5月号 「大山倍達伝説への旅」 ぴいぷる社 1997年
最強最後の大山倍達読本 ゴング格闘技編 日本スポーツ出版社 1997年
月刊大山倍達 創刊号 2004年
月刊大山倍達 第弐号 2004年
大山倍達正伝 小島一志、塚本佳子著 新潮社 2006年
 
参考映像:
「明日ハレルヤ」 関西テレビ 1990年


 






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コメント
素晴らしい記事ありがとうございます。
ガキンチョのころ見た大山先生を眼前でみりようです。
おっさんは根性なしで空手から逃げ出しましたが、最初に出会った武道が大山空手であったことには今も影響を受けています。
これからも素晴らしい記事を期待しています!!
  • のぶさん
  • 2010/12/13 9:11 PM
>>のぶさん
あんまり期待されるとアレですが、頑張りますw
  • Leo
  • 2010/12/15 9:53 PM
古代ギリシャの弁論家デモステネスは、演説の練習に取り組む期間中、気を弛めて自分が外に出ないように、自分の髪を半分だけ剃り落としたらしいです。
大山さんはこの逸話を知っていたんでしょうかね。

デモステネスの話(ドイツの書物からの翻訳) http://kambun.jp/kambun/uchida-demosthenes-yaku.htm
また彼は、気まぐれで外出することのないようにと、片側の頭髪を剃り落としてしまった。そして、一歩も外出せずに、研究に精を出し、日夜練習に励んだ。


>最も、本当に総裁が使っていた物なのかは不明

正しくは「最も」ではなく「尤も」です。
  • 釣本直紀
  • 2012/02/16 12:34 AM
>釣本直紀さん

大山総裁がデモステネスを知っていたかどうかは分かりませんが、読書家ですので、知っていても不思議はありませんねぇ。

誤字の指摘、ありがとうございました。
  • Leo
  • 2012/02/17 11:37 PM
何度目でしょうか?

質問です 当時なら ?と思うような人について行って
三島までいく 日本橋のお嬢様は 相当な天然さん?でしょうか?

また 嫁入り前の娘が 数年前まで 牢獄にいた凶状持ちの男に預けられ 嫁入り修業の先生が 拳銃乱射して 数年牢獄にいた その男の夫人と聞いて それなら大丈夫ですねという 娘さんの奥様は 豪傑ですか?
  • くれど
  • 2013/04/06 9:23 AM
娘さんのお母さんですね 訂正します

次に 朝鮮半島から来た 力自慢で 空手バカ一代をきわめたいんですという 青年を 面白い奴と 受け入れるのは わかるんですが

朝鮮独立に 命を賭けたいんですとか 赤色革命がしたいんですという 青年を 戦前の空手界が受け入れたというのは なんだか わたしには とても違和感があるんですか これは どう考えればいいのでしょうか?
  • くれど
  • 2013/04/06 9:31 AM
>くれどさん
誰が誰を指しているのか分かりづらいので、こちらで理解した範囲での返答となります。

智弥子夫人の事ですが、めっちゃおっとりされた方です。
馴れ初めを読むと分かりますが、戦後の物資不足の最中、大山総裁は色々と物資を実家に届けたり、辻兼一の秘書みたいな事をやって政治活動をしており、頼れる、もしくは経済力のある男だという認識があったのかも知れません。
むしろその辺の男よりは将来性がある様に見えたかもですよ。 知り合った時期は写真を見ると眼付き悪いですがw
それにまぁ、惚れちゃえばどこまでも行きますよw

で、義母にあたる方ですが、ワイドショーも無い時代、精々新聞か「婦人画報」辺りしか読んでいないかも知れない女性に田中清玄がどういう人物かを推し量る術は無いと思います。 知っていたとしても昭和天皇への進言くらいかも知れませんしね。 ここだけ抜けば大変立派な人物ですw
ただ、智弥子夫人の回想では田中夫人は日本賢母だか何だかに選ばれていたとかありますし、日本人的には、大きな家に住んでいるだけである程度の信用性もあるでしょう。
事実かどうかは知りませんが、大下英治氏の小説に山本玄峰老師が智弥子夫人を気に入り、娘だと紹介したという記述があったと思いますので、回りを見れば信頼に足るかと。
良きにつけ悪しきにつけ、多少知っていたとしても大人物だろうとの認識になるのでは?

革命云々は大山総裁では無く、椎柱先生の事だと思われますが、沈萓犬論亳挟仄い慮淆俺ο造亡玉辰鮗けていますので、特に問題は無いかと。 大体、立命館入学前に転向してたんじゃないかなぁ。 師の山口剛玄先生は協和会と東亜連盟にいましたし、ガタイの良い沈萓犬鮖蓋先生がスカウトしたという経緯があり、そこに思想は関係ありません。

現在の視点で当時の人物の考えを推し量ると矛盾や疑問が生じるかも知れませんが、当時の視点で考えれば何の不思議も無いかと思います。
後、戦前の空手界でも別に思想教育も調査もしませんので、不思議はありませんねぇ。
大学空手部であれば特定の色に染まる事もありますけど。
  • Leo
  • 2013/04/06 2:03 PM
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  • ぴゅあ☆ぴゅあ1949
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