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大山倍達マニアック検定

「カラテ群像」12 加藤重夫 三段(1983年)

JUGEMテーマ:空手



 さて、今回は「月刊パワー空手」1983年6月号の「カラテ群像」より、加藤重夫先生の記事を紹介します。

加藤重夫1968.jpg

加藤重夫 三段

 昭和17年5月4日、東京都に生まれる。 中学の頃よりスポーツに親しみ、陸上・水泳などで活躍。 36年3月、高校(新宿・保善高等学校)卒業後豊島区役所に勤務するも、空手に熱中するあまり8ヵ月後に退職。
 大山道場入門は34年9月。 小柄ではあるがその卓抜した技術が見込まれ、初の海外支部指導員としてメルボルンに派遣される。 現在、東急ストアに勤務の傍ら、千葉県北手塚道場の師範代をつとめる。




 都知事より「辞職」の勧告を

加藤重夫1.jpg

 私が大山道場へ入門したのは、高校2年の秋、昭和34年9月1日であった。
 高校卒業後は豊島区役所に勤務したのだが、もとよりボクシングなどに興味を持ち、また、道場・職場の先輩である矢島力氏(本誌4月号「カラテ群像」において紹介)の励ましもあって、私はますます、空手に興味を覚えるようになった。
 既に先輩諸氏からも紹介されているように、かつての大山道場は確かに、他者を寄せつけないものがった。 基本稽古の厳しさもさることながら、組手はまさに実戦そのもの。 顔面攻撃あり、金的への攻撃あり。 とにかく突いてよし、蹴ってよしで、ラフ・ファイトを楽しんでいるようなものであった。

加藤重夫2.jpg

 また、当の大山先生にしても、熱の入った組手に「いいぞ、もっとやれ!」彌次(失礼)を飛ばしながら、弟子たちの稽古を満足気に見守っておられた。
 私は身長が155cmしかなく、体重も50kgそこそこしかない。 こんな私が、そうした道場内でどのような心境で稽古をしていたかは、およそ察知していただけるかと思う。 とにかく私は、傷だらけになりながらも何んとかみんなについていき、次第に空手の魅力にとり憑かれていった。 当時印象に残っていた先輩としては、小沢一郎氏や大山茂・大山泰彦氏らがいるが、特に茂先輩には竹刀でビシビシ稽古をつけていただいたものである。
 入門して半年ほどたつと、私はほとんど職場を顧みなくなっていた。 本業である区役所には顔を出さず、思い出したようにポッと出勤しては、道場に入り浸りで稽古に励んだ。 そして、これが嵩じてついには、都知事より「辞職」する旨の通知を受ける羽目となった。

 メルボルンでの体験
 区役所に勤めることわずか8ヵ月。 以後は、映画のエキストラ、洗濯屋、盛り場などでアルバイトをしながら道場へ通った。

加藤重夫3.jpg
オーストラリアでの指導風景

 そんなこんなで入門後10年近くが過ぎたある日、大山先生より私は突然「メルボルンへ行け」との"命"を受けた。 思いがけない「外国行き」に私は一瞬、戸惑った。 日本でさえ四苦八苦している自分に、果たして外人相手の指導ができるだろうか。 不安に駆られながら羽田を発ったものである。
 メルボルンの道場は、もともとは韓国カラテ、即ちテッコンドーの練習場であった。 事情により指導員が道場を離れ、ドレーガーという人を介して「指導員を送って欲しい」旨、大山先生に要請があったのが、私のメルボルン行きのそもそものいきさつであった。 それはともかく、テッコンドーの練習法は、大山道場のそれとは大部"内容"を異にしていた。 私が現地に着く前にも、大山先生の御著書をテキストにして稽古をしていたようであるが、基本や型などは初心者も同然であった。 色帯も大勢いるにはいたが、私はまず、基本稽古から徹底して始めることにした。
 が、なんといっても難題は組手にあった。 50名ほどいる道場生は、ほとんどが180cm以上はある大柄揃い。 なかには130kgに及ぶ巨漢もいる。 私は文字どおり"決死"の覚悟でなければ、彼らと立ち合うことができなかった。 それでもなんとか面目を保ち得たのは、現地でお世話になったドレーガー氏の功績によるところが大きい。 氏の図らいによりメルボルン到着後およそ2週間、オリンピック選手用のキャンプ周辺にある砂丘で、特訓を受けたのである。 足がズブズブとめり込んでしまう砂丘で、ランニングをしたり、サンドバッグを蹴ったり、スタミナづくりに励んだ。 こうして現地の空気に馴染んだのち、道場生の前に立ったのであった。

加藤重夫6.jpg

 結果の良し悪しは練習量に比例する
 ある程度の覚悟はしていたものの、メルボルンでの生活は決して楽ではなかった。 なんとも「やりきれない」気になったのは、彼ら道場生が私に、指導者としての"不審感"を抱いていたということである。 無理もない。 身長がないうえに、砂丘で走り込んだ当時の私の体重は、49kgしかなかった。
 「こいつに本当に空手ができるのか。 人を教える資格があるのか」と疑問視する大男たちは、競って私に組手を申し込んできた。 否、というより、既に他流派の段位を持っている者もなかにはいて、彼らと立ち合うことはそのまま、道場の看板をかけた試合にも等しいものがあったのである。 グリーンという大男などは何度も私に挑戦してきたが、息吹の最中、彼には顔面にもろにパンチを喰い、あわや一命をとり止めたこともある。 「すべてを投げ出して帰ろうか」と思う私をなんとか繋ぎ止めてくれたのは、大山館長よりいただいた"励ましのお便り"故であった。
 「人に甘く見られないためには、一番強そうな人間を引っ張り出し、まずそいつを倒すことだ」
 引っ張り出すまでもなく、私の前には次々と挑戦者が現れた。 そして、メルボルンでの任務(昭和43年4月〜44年4月)をなんとか果たして帰国した頃には、私の顔面は傷だらけになっていた。 鉄柱相手の頭突きをやり過ぎたが故に、ボクサーのパンチドランカーにも似た症状を呈し、言語障害すら出る始末であった。

加藤重夫5.jpg
オーストラリアより帰国

 私事ばかり書いてしまったが、当時稽古した仲間で、強烈に印象に残っている男が一人いる。 藤平昭雄氏である。 のちに大沢昇としてキック界の花形スターにもなった彼は、その稽古量たるや常軌を逸していた。 周知のとおり、彼も小柄で、体重も50kg程度しかない。 ザマ、朝霞などの米軍キャンプで、米兵に空手を指導していた彼は、キャンプから帰ったその時が、まさに稽古の始まりであった。 普通ならクタクタになり宿舎に帰るところを、大沢だけが道場に残り、鏡に向かって一人、黙々と稽古に励んでいた。 目の周辺から塩が吹き出るくらいに汗をかき、道場そのものが彼の起居する場所ででもあるかのようなサックをすら覚えたものである。

加藤重夫4.jpg
藤平昭雄と

 無論私などは、どれ一つとってみても彼には到底及ばない。 が、お互いに生活に窮していた二人は、カケソバ一杯を分け合って食べたこともあった。 また、会館近くには"バクダン"と称する安い定食屋があったが、金がなく米の飯やミソ汁が飲めなかった二人は、「食い放題」で置いてあるジャガイモとタクアンをバリバリ貪り食ったものである。
 また、ショーン・コネリー主演の『007』で、パンフレット用の写真を撮るに際し、忍者役で姫路城の石垣をよじ登り、天守閣で一戦を交えたのも二人であった。 軽量ゆえに起用されたのであったが、忘れ難い思い出として残っている。
 書き出すと、思い出は尽きない。 大沢氏を身近に見ていて私がつくづく感じたのは、素質面は然ることながら、空手にあっては、練習量がそのまま結果の良し悪しに繋がるということであった。
 以上、恥ずかしながら過去の自分について一言、綴らせていただいた。



 加藤重夫先生の「カラテ群像」でした。
 加藤先生は結構あちこちでインタビューを受けてらっしゃいますので、特筆するとこはあまり無いかもですね。
 有名なオーストラリア派遣ですが、後年あまり語られていないのは、講道館で外国人留学生の面倒を見ていたドン・ドレガー氏が仲介していたという話です。 当ブログを初期から見てらっしゃる方は何度か見た名前だと思いますが、日本に武道を学びに来た外国人を色々な道場に紹介していた人物で、大山道場時代の外国人は結構お世話になってます。

近代カラテ1967_5_1.jpg

 ただ、当時の壮行会を見ると岩見弘孝先生もオーストラリアに行く予定だったみたいなんですよね。 結局行かなかったのか…会館史から抜け落ちてます。
 ちなみに加藤先生の出演された映画は「007は二度死ぬ」ですね。 藤平昭雄先生のスイカ貫手割りのシーンでスイカを投げてたのが加藤先生だったかな、顔がはっきり分かるのはここだけだったかと。
 という事で今回はここまで。
 それでは、また。


参考文献:
月刊パワー空手 1983年6月号 パワー空手出版社 1983年
月刊フルコンタクトKARATE 1月号別冊 大山倍達と極真の強者たち 福昌堂 1999年

関連リンク:
ある日の極真会 1(近代カラテ 1967年5月号) 
ある日の極真会 7 (近代カラテ 1967年11月号) 
ある日の極真会 10 (近代カラテ 1968年2月号) 
ある日の極真会 13 (近代カラテ 1968年7月号) 










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コメント
加藤先生!

芦原先生とも仲が良かったらしいですね。

高校時代は陸上部かなにかで相当の距離を走り抜いてから大山道場で稽古されたと、どこかで読んだ記憶があります。

公務員になったのに、それを捨てて空手に熱中出来るとは凄いです。大山先生の空手家としての魅力が半端じゃなかったからかもしれませんね。私の経験でも、大山先生のお言葉は「腹にグッと来る」感じがありましたから。
>名誉五段さん

そうですねぇ、陸上で相当やり込んだお陰で、大山道場の稽古でも十分付いていけた様です。

空手の為に安定した優良企業を辞めた元全日本王者がいましたけど、まだ空手で飯が食えない時代だということを考えれば凄いですよね。
大山総裁の魅力もそうですが、ライバルに恵まれたのも一因なんでしょう。
  • Leo
  • 2013/03/03 7:21 PM
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