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大山倍達マニアック検定

極真会館主催 第2回世界大会プログラム1 (1979年)

JUGEMテーマ:空手
 
 今月は月初から忙しかったので更新が滞り気味でした。 楽な暮らしがしたいですw

 さて、今回は1979年11月23〜25日の3日間、日本武道館で開催された極真会館主催の第2回全世界空手道選手権大会 の大会パンフを交えながら振り返ってみようという企画です。

第2回世界大会1.jpg

 今大会は極真に大きな衝撃を与えた大会で、ターニングポイントとなりました。
 4年前の第1回とは違い、まず一般の門下生にまで外国勢の情報が流れる様になり、前回旋風を巻き起こしたブラック・パワーの一角を担っていた中村忠門下こそいませんでしたが、"熊殺し"として名を馳せ、プロレスラー・アントニオ猪木に挑戦を表明し、梶原一騎原作の劇画「四角いジャングル」でも主人公級の扱いを受けているアメリカの強豪ウィリー・ウイリアムス三段を筆頭に、伝統あるイギリス支部からは古豪や俊英、そして南アフリカの巨人ケニー・ウーデンボガード他多くの選手の名前が「月刊パワー空手」「現代カラテマガジン」の誌面を飾りました。




 門下生として初めて経験した世界大会という人もかなり多かったでしょうから、寄ると触ると世界大会談義、という人もいたんじゃないですかね。 例の"熊殺し"とて、「あれは映画だから」と笑えるのは闘う予定の無い人だけであって、実際に拳を交えかねない人はどれほどの攻撃力があるのか、やはり不安もあったかと思います。
 そして場所が日本武道館。 大山総裁の宿願ですね。 1975年に2度ほど武道館に打診したものの、断られています。 まぁ、80年5月に会長の毛利松平先生が日本武道館理事長に就任するのですが、79年の今大会では「わがカラテ 日々研鑽」によれば…事実かどうかは分かりませんが、700万円近くを日本武道館にぼったくられた様です。
 ちなみにこの時には大山総裁と梶原一騎先生の不仲はかなりのもので、以前書いたつのだじろう先生の「ゴッドハンド」の打ち切りなんかもありました。

 では、まずパンフから。
 初っぱなから豪華ですね。 海外からの祝辞はスペインのカルロス国王、ヨルダンのフセイン国王、同じくモハメッド皇太子、アメリカのジミー・カーター大統領、ジョン・ケネディの実弟エドワード・ケネディ上院議員、ブラジルのオリヴェイラ・フィゲレード大統領、ソ連のドミトリ・ポリヤンスキー駐日ソ連大使と錚々たるメンバーです。 日本からは…まぁ、いいかな、議員を筆頭に柳川魏志氏や、阿含宗管長の桐山靖雄氏まで祝辞を述べる多士済々振りw

第2回世界大会2.jpg

 しかし大山総裁は日蓮宗なのにどのルートで阿含宗と知り合ったんでしょうねぇ? 何となく想像は付きますけど。
 ルールの方は前回の第11回全日本とほぼ一緒ですね。 ここ数年大山総裁が問題視していた掴みに対しての厳格化ですか。 箇条書きすると以下が反則/減点対象です。

・手技による顔面殴打(牽制は良い)
・貫手による顔面、首への攻撃
・金的への攻撃
・頭突き
・ダウンした相手への加撃
・掴み(掴みは全面的に禁止だが、判断は主審に委ねる/背手掛けによる膝蹴りは良い)
・意図的な場外への逃げ
・主審判断による悪質な試合態度
・掌底押し
・背後からの攻撃


第2回世界大会3.jpg
背手以外は反則行為

 手足を掴むのも反則ですが、瞬間的に掛け倒すのは例外となっています。
 後は…あ、あれですね、愛媛に芦原英幸先生以外の支部が出来ました。 愛媛南豫支部、支部長は高見成昭先生。 ちなみに芦原先生は翌年の全国支部長会議も欠席しているので、完全に店仕舞いの準備を進めていたんじゃないかと思います。 現在の芦原会館本部ビル竣工後のポスターにも、以前紹介した通り「芦原会館」と書いてありましたし、今大会の二宮城光先生の不出場にも影響していたという話もあります。
 では、大会本編に参りましょうか。

 1979年の極真はブームの真っ只中でありつつも、 どこかフィクションめいた状況になっていた。 劇画や映画の大ヒットにより、全国から極真空手を学びたいと切望する人間は数知れず。 しかし、それを受け入れるべき本部道場は手狭となり、新道場建設を志すも難航、一部古参による新しい門下生への間引きやそれに伴うイジメもあった。
 それを諫めるべき大山倍達も多忙で目が届かず、そして指導員もまた自分の稽古に忙しかった。
 しかしそれでも過酷な環境を潜り抜け極真の一員だという自負を身に付けた門下生は、どこか宗教にも似た関係を構築していった。
 前年11月2日に新宿京王プラザ・ホテルで発表されたアントニオ猪木とウィリー・ウイリアムスの異種格闘技戦は、そんな状況に拍車を掛けた。 当初は79年春に予定され、その後10月へと変更し、最終的には80年2月27日ゴングとなるが、この対戦が話題になり始めてからは多くの門下生やファンの心を熱くした事だろう。 大山の胸中は不明だが、既に看板選手へと成長したウィリーを手放しかねない、そして極真の看板を落としかねない事態に拒否感を示していた様に見える。 極真を宣伝するだけで無く、組織の運営方針に影響力を持ち始めた梶原一騎と大山の対立は、徐々に表面化していった。
 そんな中、世界大会を前にした79年8月24日と26日に、三瓶啓二、中村誠、三好一男が百人組手に挑戦する事になった。 当初は代表選手全員に挑戦させる予定であったが、この3名が挑戦に失敗し、断念。 真夏の最悪の条件だったとは言え、来たる世界大会への不安を抱かせる結果となった。
 日本代表選手は中々確定しなかった。 大会の1ヵ月前となる10月25日の大会記者会見でも6名までしか紹介されなかった。 最終的には士(さむらい)に掛けて11名を選出。 以下が代表メンバーである。

・東孝・川畑幸一・佐藤俊和・三瓶啓二・中村誠・野口敏郎・原田裕次・廣重毅・藤原賢治・三好一男・廬山初雄

 原田裕次は前回の世界大会優勝者・佐藤勝昭が退会して設立した佐藤塾門下で、全日本でも好成績を修めた立崎辰雄や風張廣昭の同門である。 極真からの退会者を中心に小さな大会が乱立する以前は、この様な事も可能だったのだ。
 そしてこの内、廬山と佐藤は大山に直談判して大会に出場している。 ブランクがあるとはいえ、この大会に掛ける思いは並大抵では無かっただろう。
 出場が取り沙汰されていた二宮城光は不出場だった。 当時総本部茶帯だった長谷川一之が「最強最後のカラテ」撮影隊から訊いた話によれば、二宮は日本に行くまでは出場するつもりだったという。 恐らくは大山と芦原の問題で欠場となったのだろう。

 今大会は開催時より政治的な問題が勃発していた。 南アフリカ共和国、ローデシア、ボツワナ、ナミビア、モザンビークといった南アフリカ勢は、アパルトヘイト問題に関連して外務省より参加を認めない旨の通達があり、大山も交渉したが国連決議に起因する通達は覆らず、20日の前夜祭でまず伝えられ、そして大会当日に大山より観客に説明した。 南アのケニー・ウーデンボガードはウィリーに比するとも云われた逸材だっただけに、選手本人も、また観客も落胆した事だろう。

第2回世界大会7.jpg

 他にも中東問題によりアラブ諸国とイスラエルが対立中だった事から、アラブ諸国よりイスラエルが出場するならボイコットするという連絡が入った。 紆余曲折はあったが結果的にイスラエルの招聘を断念。 オイルショックの記憶も新しい中、日本の国益を損ねかねない事態とあっては、致し方無かった。
 そして政治問題はここで終わらなかった。 大会当日にはアメリカチームがボイコットを示唆したのだ。 問題はアメリカが国家として認めていなかったパレスチナ解放戦線(PLO)の出場だ。 この問題の遠因はイスラエルの欠場だった様で、PLOを出場させるのであれば、アメリカはボイコットすると大使館を通じて連絡があったという。

第2回世界大会4.jpg

 開会式まで後数時間。 大山はPLOの選手団のコーチと会って事情を話した。 当然PLOとしてはアメリカの要求に応えるつもりも義理も無い。 そこで大山は居住地は南イエメンなのだから、南イエメンに改称して出場してくれないかと頼むと、コーチのアルヒーヒは大山の胸中を察し、PLOと書いたプラカードも南イエメン書き換えた。 その為、今大会のパンフレットにはその名残として"P.L.O"の記載があるが、その後の試合記録等では「南イエメン」と記載されている。
 そして、政治問題はここで尽きなかった。 7月に大演武会を行い緊密な仲になったと思われたソ連が欠場したのだ。 他にもポーランドやルーマニア、ブルガリア等、東側の衛星国が欠場した(ハンガリーは出場)。 この件に関して特に言及はされていないが、欠場国の内訳から判断するに、政治的な問題だったと考えて差し支え無いだろう。 翌年開催予定のモスクワオリンピックの成功に暗雲を投げ掛ける様な事態となった。
 他にも南米の一部地域では交通事情により間に合わず、不出場国が出た。
 こうして63ヵ国の出場予定国が45ヵ国に減り、出場選手187名が145名へと激減してしまった。

第2回世界大会8.jpg

 42名が欠場した事により、1回戦から不戦勝が相次いだ。 日本選手だけでも、川畑幸一、野口敏郎、三好一男、三瓶啓二が不戦勝となり、2回戦でもシードだった佐藤俊和と東孝が不出場同士の1回戦の結果を受けて不戦勝と、勝ちを拾っている。
 1回戦はハワイのチョイとベルギーのカルレノで幕を開けた。 判定でチョイが勝ち、続く2戦目でスウェーデンのラングレンが香港のホワットと対戦。 膝蹴りを決めて僅か10秒でKOした。 だが、この時点で優勝候補の1人、イギリスのジェフ・ホワイブローと接戦を繰り広げるほどの強豪だったと気付いた人間は少なかっただろう。

第2回世界大会14.jpg

 日本勢は藤原賢治がニュージーランドのワーンに右の上段を当て、37秒で一本勝ちを決めて好スタートを切った。

第2回世界大会10.jpg

 廣重毅は判定でウルグァイのイエミを判定で下すが、原田裕次はアメリカのチャック・チスムと対戦し、延長の末に判定で負けた。 1回戦からまさかの日本勢の敗退。 しかし相手がアメリカの選手であり、原田は言わば分家となる佐藤塾の選手。 この時点で動揺した観客は少なかったのでは無かろうか。 こうして大会初日は終了した。

 2日目。 2回戦はまず日本のエース、中村誠が登場。 チョイと対戦するが、中々蹴りが出ない。 突きで強引に押し込み、顔面殴打の反則もあったが、中村の判定勝ち。 1回戦不戦勝だった野口はブラジルの天才児、アデミール・ダ・コスタと対戦。 キレの良い蹴りを繰り出すコスタに対し、やる気が空回りしたのか、野口は掴みを頻発してしまう。 再三の注意を受けるも掴みは止まらず、敢えなく失格。 晴れの大舞台で成果を出せず、涙を呑んだ。
 1回戦を一本勝ちで勝ち上がった藤原はフランスのカプレと対戦し、苦戦するも技ありで勝利を得、1回戦不戦勝の川畑はハワイの日系人キタグチに判定勝ちと、日本勢は順調に勝ち上がる。 廣重はシードと対戦する予定だったが、シードにいたのはソ連の選手。 不戦勝となった。
 東、三好、佐藤は2回戦も不戦勝となり、Dブロックの2回戦は三瓶がインドネシアのアンと対戦。 一旦は本戦で旗4本を得た三瓶が勝つが、最高審により延長へ。 延長で再び差を付けて4-0の判定勝ち。 そして大会から遠ざかっていた伝説の強豪、廬山初雄が登場、フランスのヤラウイを相手に下段で技ありを取って危なげない判定勝ち。 日本勢9名が勝ち上がった。
 外国の強豪はどうだったか。 シードのイギリスの強豪、コリンズはトニダードのマルコムに延長で中段突き一本を取り貫禄の勝利。 ホワイブローはカナダのコロンボに判定勝ち。 そしてウィリー・ウイリアムスは1回戦をシードで、2回戦をキュラソーのランズマークと対戦。 "熊殺し"ウィリーの登場に会場は沸きに沸いた。 猪木と闘う男の実力を見に来た観客もいただろう。 ランズマークは168cm、75kgの体格、ウイリアムスは196cm100kgと、頭1つ以上違う選手同士の対決であったが、果たして、決着は33秒でウイリアムスの左上段廻し蹴りが入り一本勝ち。 会場に戦慄を与えた。

第2回世界大会11.jpg

 そしてこの2回戦では大事故が発生した。 最年長38歳での出場となったカナダのメッサ―は1回戦を不戦勝で勝ち、続く2回戦でギリシアのジョンズと対戦。 開始45秒でジョンズの繰り出した右の後ろ廻し蹴りを側頭部に受けダウン。

第2回世界大会9.jpg
この蹴りで頭蓋骨陥没

 立ち上がって続行しようとするメッサ―だったが、腫れ上がった頭部を見てドクターが即座にストップを指示、病院に担ぎ込まれた。 その後の診断で判明したのは、頭蓋骨陥没という重傷だった。
 
 3回戦Aブロックは今大会、イマイチ突きと蹴りのバランスが悪い中村と、2戦連続で膝蹴りによる一本勝ちを修めた2級のラングレン。 イギリスの大会でも活躍していたが、日本には情報が伝わっておらず、全くのノーマークだった。 183cmの中村より12cm高い195cm。 1、2回戦共に上段の膝蹴りで一本勝ちを取っており、長身を活かした戦法だったが、下段も持っている選手だ。 このラングレンを相手に中村は大苦戦。 突きで強引に内側に入り込む中村をラングレンは打点の高い蹴りと膝で迎え撃ち、本戦、延長は引き分ける。

第2回世界大会13.jpg

 体重判定でも差が付かず、再延長でパワーで押し込む中村に転がされたラングレンの印象が悪かったのか、旗が4本上がり中村が辛勝した。 ちなみにこのラングレンは後にアメリカへ渡り、ハリウッド俳優のドルフ・ラングレンとして活躍し、91年のアメリカ大会で大山倍達と共にゲストとして来場したのを皮切りに、数々の国際大会に招聘され、現在でも新極真会の会場に足を運んでいる。
 さておき、続く日本勢は藤原がスイスのウィルディと対戦、4ー0で本戦判定勝ち。 川畑は不戦勝で3日目に駒を進めた。
 Bブロック、イギリスのホワイブローは原田を破ったチスムとの対戦。 この試合は大激戦となった。 既にコリンズを超えたとの声もあるホワイブローは違わぬ試合振りを見せ付けるが、バネのあるチスムからは決定打を奪えず、再延長まで行っても決着が付かない。 最高審により2分間の再々延長が与えられ、ここで遂にホワイブローが失速、5ー0の判定で敗れた。
ここで今大会初試合となる東孝が登場。 1回戦はシード、2回戦も不戦勝と幸運を得ていたが、昨年痛めていた膝が回復しているのか気になるところだ。 ハワイのチュンを相手に本戦で判定勝ちを修め、危なげないスタートとなった。
 しかし続く廣重は試し割りで失敗していた事からいつもの試合運びを捨て、強引に一本勝ちを狙うも、イギリスのヒースに延長で試し割り判定で敗北。 また1人日本勢が破れた。
 コリンズはアメリカのムンローと対戦し、延長で右の下段を効果的に使い技ありを2つを奪い合わせ一本勝ち。 貫禄を見せ付ける。
 Cブロックでも番狂わせがあった。 1回戦、2回戦と不戦勝で勝ち上がった三好一男は初戦となる3回戦でイギリスのバーナード・クレトンと対戦。 今大会ではアメリカとイギリスの選手の調子が良く、油断は許されない。 しかし一度も試合の無かった三好は完全に調子が狂ってしまっていた。 本戦で引き分け、三好は延長前に大山から試合態度を注意される。 クレトンの実力もあるが、本来の実力が発揮出来ない三好、は試合態度に鬱積したものが現れたのだろうか。 日本優勝の為に捨石の覚悟で臨んだ大会だったが、延長で三好に旗が上がるも、大山より再延長の指示が出る。 ここで緊張の糸が切れたか、再延長でクレトンに旗が3本上がり、敗退した。 試合後の三好は悔しさを隠せず、「ちくしょう!」を連発しながら控え室で大の字に倒れた。
 そしてここまで試合の無かった佐藤はハイチのゼピリンと対戦、判定が佐藤に軍配が上がった。
 日本にとって最大の脅威、ウィリアムスはパナマのコルテズをいきなり下段で転がし、すぐさま左上段廻し蹴りで一本。 前評判を裏切らない実力は、ここでも証明された。
 Dブロックは三瓶とキュラソーのバリエントスと対戦。 バリエントスの顔面殴打により一時試合中断となったが、実力で勝る三瓶が完勝。 しかし大きなダメージを負った。
 廬山の2戦目はマレーシアのブース。 廬山より10cmほど背が高いが、無名の選手である。 会場の期待を背に登場した廬山だったが、得意の下段を食らっても前に出るブース相手に大苦戦。 ブースの中段突きが効果的に廬山を打ち抜くが本戦は引き分け、延長で廬山が辛勝し、場内は騒然となった。

第2回世界大会15.jpg

 この時、廬山は調整に失敗して7kg近く体重が落ちており、軽くなった身体にブースの重い突きを食らった廬山は、肋骨を3本折っていた。
 本部の茶帯だった長谷川一之は選手係を務めており、当時の事をこう回想している。

 (もしかしたら、たいへんなことになってしまうかも……)
 あれほどの強さを誇った日本はどこへ行ってしまったんだ。 場内散らばった道場生たちは、受持分担の仕事もうつろに、自信にあふれた外人たちの試合を力なく見つめていた。




 はい、1部終了っす。
 何か色々書いたので1回で収まらない結果になりました。
 波乱の3日目は後半の2部目に続きます。


参考文献:
現代カラテマガジン 1979年1月号 真樹プロダクション 1979年
現代カラテマガジン 1979年7月号 真樹プロダクション 1979年
月刊パワー空手 1979年8月号 パワー空手出版社 1979年
現代カラテマガジン 1979年11月号
真樹プロダクション 1979年
月刊パワー空手 1979年10-11月号 パワー空手出版社 1979年
月刊パワー空手 1979年12月号 パワー空手出版社 1979年
第2回オープントーナメント全世界空手道選手権大会プログラム 国際空手道連盟極真会館 1979年
月刊パワー空手 1980年1月号 パワー空手出版社 1980年
月刊パワー空手 1980年2月号 パワー空手出版社 1980年
現代カラテマガジン 1979-80年12-1月合併号 真樹プロダクション 1980年
現代カラテマガジン 1980年2月号 真樹プロダクション 1980年
現代カラテマガジン 1980年3月号 真樹プロダクション 1980年
月刊パワー空手 1980年5月号 パワー空手出版社 1979年
月刊空手道 1983年9月号 福晶堂 1983年
月刊フルコンタクトKARATE 1990年2月号 福昌堂 1990年
必殺カラテ! わがいのち 国際空手道連盟極真会館編 講談社 1979年
増補改訂 限界への挑戦 大山倍達著 宝友出版社 1979年
わがカラテ 日々研鑽 大山倍達著 講談社 1980年
生涯の空手道 廬山初雄著 スポーツライフ社 1980年
過渡期だよおとっつぁん〈part 2(喧嘩論集・格闘技篇)〉大山倍達を信じよ 平岡正明著 秀英書房 1981年
反逆世代への遺言 梶原一騎著 ワニブックス 1984年
わが師大山倍達 1200万人への道 睫攘庵 徳間書店 1990年
佐藤俊和自伝 勝つ心 佐藤俊和著 福昌堂 1993年
カラテ狂時代 史上最強への道 長谷川一之著 原書房 1998年

参考映像:
第2回全世界空手道選手権大会 第1部、第2部(TV映像) フジテレビ 1979年
最強最後のカラテ QUEST 1980年








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コメント
三瓶さんに顔面入れたバリエントスは、前屈のような構えから顔面パンチを得意とした選手でした。三回世界大会でも正面から入る松井選手にカウンターいれてましたね。
  • 漫画世代
  • 2013/04/13 12:29 AM
>漫画世代さん

普通に日本代表と当たれる所まで勝ち上がる実力はあるのに、不思議と日本代表に対しては顔面殴打を繰り返す選手でしたねw
第1回から第5回まで連続エントリーで、第4回だけは怪我で不出場でしたが、通算4回の世界大会に出場したキュラソーの鉄人です。
  • Leo
  • 2013/04/13 4:20 PM
何度読みなおしても興奮しますね。
  • やいや
  • 2013/05/20 10:51 PM
でかいのにはかなわない。この大会が如実にそれを証明した。あくまで一流派の試合形式ではあるが、同門では条件は一緒である。でかいのは、射殺しかありませんと、とある軍隊の格闘教官が言っていた。
  • キリコ
  • 2015/04/30 11:14 PM
どなたかご存知でしたらお教えください。
近くの古書店で
「strongest karate,1st karate open tournament kodansha」という雑誌が出ていました。密封されていたので中身は見ていません。調べても情報が全くないのでどなたかご存知でしたらお教えください!!
よろしくお願いします。
  • kimura
  • 2015/05/02 11:06 AM
>キリコさん

体格というのも才能ですからねぇ。

>kimuraさん

http://www.ashiharakarate.org/thestrongestkarate.jpg
これの事ですかね?
私も手元にありませんが、実はアメリカの名選手のサイン入りを見付けたので、現在到着待ちっすw
多分、講談社が出した世界大会写真集(http://kuroobi.info/book/17.gif)の英語版だと思います。
  • Leo
  • 2015/05/03 12:16 PM
これです!!
多分サインは入っていませんが
買うことにしました!
有難うございます!
  • kimura
  • 2015/05/03 9:57 PM
「一撃必殺空手いのち」の英語版が存在したとは驚き。
手に取ってみたいものです!
  • tama
  • 2015/05/04 10:27 AM
>tamaさん

あまり知られていない1冊だと思いますね。
以前、Kyokushin4lifeに載ってた事はありますが。
  • Leo
  • 2015/05/06 9:27 PM
strongest karate入手しました!!
総裁ファンなので、総裁の写真が少ないのは
少々残念でしたが、改めて総裁の成し遂げた
事(世界大会開催など)の偉大さを感じられる
一冊でした。
有難うございました。
  • kimura
  • 2015/05/13 10:19 PM
>kimuraさん

私も手元に届きました。
極真時代の三浦美幸先生とギャリー・クルゼヴィッツ選手という、シカゴ支部の師弟コンビのサイン入りでw
  • Leo
  • 2015/05/15 12:29 AM
ギャリーですか!!
懐かしいです。
いつかレビューお願いします。
  • kimura
  • 2015/05/15 11:15 PM
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