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大山倍達マニアック検定

森川哲郎著「武道日本」より「河上彦斎流三代」

JUGEMテーマ:格闘技全般
 

 さて、今回は久々に武道家列伝をやりたいなーという事で、幕末の志士・河上彦斎の直孫である河上利治先生のインタビューを掲載します。 河上彦斎と言えば近年では実写映画にもなりました「るろうに剣心」の主人公、緋村剣心のモデルとされている人物ですね。

河上利治1.jpg

 聞き手は当ブログではお馴染み、森川哲郎先生。 誤字脱字、非常に多いですが、なるべく再現しておりますw
 メッチャ長文ですが…それではどうぞ。




 幕末の志士河上彦斎の名は、あらゆる意味であまりにも有名である。
 志士としての偉大さは、別にしても、その天才的剣客としての技は、当時比類なしといわれて、彼をつけねらった鬼剣近藤勇でさえ、対面すると思わず避けて通ったといわれる。
 しかもその剣は、それまで伝えられた各流のいずれをつぐものでなくあくまで自分の工夫で、一代で完成したものであった。
 明治四年時の政府に反抗して、斬罪の刑に処せられ、不運の最後をとげたが、その夭折のために、後世作家に曲筆されて、種々の誤解を生んだ。
 ある作家は、彦斎が独身で、子孫を遺さなかったと書き、ある作家は、人斬り彦斎として、幕末三刺客の中に加えた。
 だが、そのすべてまちがいであった。 彦斎は、明らかに妻と一子を残し、その一子は長じて、やはり風雲の生涯を終え、さらに子孫を残した。
 戦後の作家は河上彦斎、田中新兵衛、岡田以蔵をその三刺客にしてしまったが、大菩薩峠の作家中里介山氏はその第六巻の中で、明治維新の三刺客として「維新の際、多く人を斬った者が三人居る、その三人の一人は河上彦斎、次いで薩摩の桐野利秋、最後に新選組の近藤勇だろう」と伝えている。

武道日本(上).jpg

 だが彦斎には正式な妻天為子が居た、一子彦太郎もいた。(史書肥後勤皇後藤是山著参照)
 筆者は、彦斎流を今に伝える彦斎の直孫河上利治氏に会い、その彦斎の剣と奥義と、その生涯の事など、さらに現代に於ける名剣といわれる同氏が、現実に真剣をもって闘ったその体験談を新しく聞く事が出来た。 なお、河上道場で剣技を磨く、天真流九代目家元国富鉄冠氏にも特にこの対談に加わっていただき、河上氏の次女三千代三男利明豊山高)さんなどと門弟の方方に総登場して貰い、応援していただいた事に、深甚の謝意を表明しておく。

    暗殺者にされた河上彦斎

 森川 本日は、お忙しいところを、特に現代の武道を後世に伝えるため、お時間をさいて、いただいて申しわけありません。
 ときに河上先生は、つたえきく河上彦斎先生の風貌を伝えていられるためか、なかなかの美男ぶりですね。(笑声)
 河上 いや、祖父はもの腰がやわらかく、私より非常に美男だったそうだが。
 国富 河上先生はよく祖父彦斎先生に似ていると伝えられております。 隔世遺伝から言ってもそうあるべきでしょう。 特に太刀筋の鋭さなどから言っても、たしかにそうですね。
 森川 その太刀筋のことですが、世間で今まで書かれた小説や、日活でやった扇雀主演の映画などでは、子孫がまるでいなかった様に思える。 したがって剣の流派も堪えたと誤認している様だがそれはどうした理由ですか。
 河上 それは文芸作家の責任ですよ。(笑声) 事実の調べもよくしないで、フィクションで面白く書き上げる。 彦斎の女性は祇園の名妓と言うぐあいに。 祖父は日蓮宗で戒名は応観法性信士、墓は池上本門寺細川藩の墓地と熊本の神風連の桜山詞殿に詞られています。 彦斎の妻は天為子、一子彦太郎が私の父です。 何分有名な作家が勤皇家彦斎を人斬り彦斎にしてしまったというのが真相でしょう。
 国富 という意味は、薩摩の田中新兵衛や土佐の岡田以蔵は、明らかに幕末の暗殺者だが、小説家がこの連中と一緒にしている。 この二人は暗殺請負者で思想も低ければ志も高くない人物、ところが河上彦斎先生は、当時に於いても決して刺客とか暗殺者として取扱われてはいなかった。
 一流の肥後勤皇党の袖領であり出色の指導者で、後に日本弁護士会々長になった熊本の松山主膳氏などは彦斎門下の一人だった。 剣の達人であると共に学も深く和歌も達人という人物でした。 これは残っているものでも分る。

河上利治2.jpg

 京都御所にしばしば参内して孝明天皇から愛され、非常な御親任を受けた。 高杉晋作、特に久坂玄瑞との交りは深く長州奇兵隊を組織したとき、特に客将として迎えられ軍の作戦指導をやっています。 明治政府が出来てから微士に召されても居る。
 この点、飽迄も、田中新兵衛や岡田以蔵とは人間のケタが違うのですね。 彼等の最後は一人は博徒の群に転落して殺され、一人は同志に詰腹を切らされて、どぶ鼠のような死方をして、暗殺者というより、一人の殺し屋の最後に終わって居るわけです。
 だが、河上彦斎の場合は違った飽迄も勤皇党の領袖であり志士だった。 最後に所刑される時、「庶人に下して斬罪を申付く」の宣告は彼が肥後細川範士族だったが為めで、西郷隆盛は救命運動が失敗した時、これを知って号泣したと伝えられている程です。
 森川 佐久間象山の暗殺、これが余りに大きな維新の役割を果たした暗殺だったので、そう言う印象をあたえているのではないですか。
 河上 そうでしょう。 象山暗殺は、明治維新夜明け前の必要な行事でした。 この暗殺がなかったならば、日本の歴史を書き代えねばならないかも知れません。 皇室と幕府を合体して天皇を彦根城に遷座さす、言わば天皇を幕府の人質にしようと企てた象山が、討幕派に暗殺されるのは当然で、封建的徳川幕府を倒して明治維新の基礎からの改革をする。 その思想の先駆者です。 問題は、この暗殺で長州が勤皇派に動き堺御門の戦いとなり、幕府の瓦解作用が初まりました。 逆に鳥羽伏見の戦いに追込み、大政奉還になる大きな原因のきっかけをつくったわけです。 民族のための回天の事業、時代としては止むを得なかった暗殺であった訳です。 これは岡田などの一暗殺請負者と同一視出来ないところです。
 森川 では、その彦斎の剣法、河上流居合の術、その流派発祥の由来については、これは何流から生れたものでしょうか。
 河上 祖父の少年時代は肥後細川藩御家老付きの茶坊主という役割でした。 従って剣も初めは自分一人で研究し日夜苦心工夫したものらしく、然し後では武を轟武兵衛に、文を宮部鼎蔵に修めて、国学を林桜園先生の門に修めますね。
 森川 ああ、それが神風連との結びつきになってくるわけですね。
 河上 そうです。 神風連の人たちは同志であり後輩でしょう。 当時肥後の三強として、轟武兵衛、加屋晴堅の三人をいっていたそうで、この人達が肥後勤皇の先覚者であり指導者だったのです。 下級武士を率いて、倒幕運動に立った勤皇派の重鎮です。 全国各藩の倒幕派の間に往復して、維新の風雲を捲起すアジテーターでもあったのでしょう。 明治維新は封建的な徳川幕府の悪政と諸藩の搾取から、民を解放し、天皇を中心に新しい時代をつくる目的でした。 それが薩長土肥の藩閥政治に取ってかわられ維新の目的が一部の私慾にすり変えられた。
 国富 歴史的文献では、先生は会津藩外東北諸藩に潜行し圧迫にあえぐ不平士族を全国的に鳩合して打倒藩閥政府の狼火をあげる計画で第二の維新を企てていたらしい。 これは勝海舟の日記にも書かれています。 単なる剣客でなく大なる政治家、そして大なる思想家だったのです。 桂小五郎と肩を並べる第一線の先覚者としてです。 なお郷里熊本では徳富家、故蘇峯徳富猪一郎翁の家を中心に、横井小楠の家とも縁がある家柄で、熊本ではかなりの名門ですよ。
 森川 捕われたのはどこでしたか。
 河上 熊本郊外外谷尾崎の寓居です。 それ迄大分県の鶴崎、ここに肥後藩の飛び地があり、ここで若い士族の子弟の練兵所があった。 ここの隊長をしていたとき、長州の萩の乱が起きて大楽源太郎が事破れて逃げて来た、彦斎はこれを同志としてかくまった。 信義の上で仕方なかったのでしょうな。
 ところが政府は既に危険人物として注意し密偵を鶴崎に放っている。 大楽の事が藩に知れるとたちまち藩主命令で帰藩を命ぜられた。 「貴公は萩の乱の叛乱分子を密かにかくまっているが、それでは藩が迷惑する、自重して貰いたい」と申渡し。 この時突如として数十人の役人が彦斎がおそいかかって、捕えた。 その時の彦斎の様子は、何等の抵抗もせず、ただ冥目して天運の極まるに従う風であったと伝えられています。
 森川 中央政府の顕官達がそれ程河上彦斎を恐れて、藩に捕えさせ、東京に護送させた理由はどこにあったのでしょう。
 河上 彦斎謀殺の張本人は木戸孝充、即ち桂小五郎だったらしく、かつて維新直後に昔の同志が京極三条木屋町の旗亭で宴を催した事があった。 その席上で彦斎も桂も同席したがつかつかと桂の前に座った彦斎が、「桂君貴公は政府の顕官となってから、昔の志を忘れ変節した。 尊皇攘夷の精神を忘れて、藩閥政治で真の王政復古を足げにしたのはけしからん以後君がやめないなら、僕は君を斬るぞ」と一言して木戸の鼻をひねり上げた。 その時、木戸は何等一言の弁解もせず黙って下を向いたという事です。 これ程気性のはげしい彦斎だったので木戸達はおそれた。 また、祖父は一たび、斬ると言えば必ず斬るという人だったので、同志も一目おいていたが、そのかわり、無責任な発言は一切せぬ人物で、政府要官もこの一言は肝に銘じたに違いない。 これが後で、「河上を生かしておけば、俺達の命が危い」と、木戸が洋行する時、留守中に殺しておけと、腹心の玉野裁判長に密命し、罪もない彦斎を熊本で捕え正しい裁判もせずに小塚原で斬罪にした原因です。

(中略)
 国富 西郷南州が、刑場に馬を馳せて助けに飛んだが、間に合わなかった。 そして、ああ立派な人物を殺した。 と号泣したという話があります。 斬首される時の態度も、従容せまらぬ立派なもので、辞世の和歌を残していられます。
    大君のためにとつくせまこころを
    わが生みの子のいやつぎつぎに
 これが河上家代々の子孫に残された志ですね。


(中略、河上彦太郎と、天為子の話)

    実戦の道場剣法

 森川 ところでいま彦斎直伝の刀法と伝える形を真刀で見せていただきましたがあの独特のかまえ、非常に変った抜身を右脇に横にかまえるあの形など他流にはみられ無い、まったく実戦的とでも言うか興味ある構えですね。
 国富 私は天真流で、他流ですが、人を斬る極意の剣はまずああしたものじゃないでしょうか、先ず対手に彼我の間合を見せない、そして、こちらは左手を出して、はかっている、しかも抜身の白刃が肘の背後にかくされて、剣の常識たる間合をとらせない、踏ん込めば一太刀、捨身の剣を横に払う。 一閃相手を斬り伏せる、彦斎先生の刀法はすべて、自分独創のものをあみ出したものですからどれを見ても実戦の理にあい、力学上にも適合した現実に働けるものばかりですね。
 河上 祖父の刀法は、先ず居合いとみてよいでしょう。 私の家では火鉢の火箸の長さが成人の手首から肘迄ある。
 これは客と対座した時、客の襲撃をこの火箸で受止める必要からで、先程の杖術の鉄刀受けもこの利用です。 武道とは、才を止めるにある。 平生これ位の注意をしていなければならないものでしょう。

(中略、国富の実戦談)

    真夏の夜の血闘

 国富 昭和二十四、五年の夏の夜のことでしたね。 例の"伏見の夜嵐"とも言うべき血闘は?
 河上 早いものですね。 もうそんなにたちまか?
 森川 どうして"伏見の夜嵐"というのですか?
 国富 河上先生の道場が、京都の京阪電鉄丹羽橋、伏見区京町北八丁目にあるのです。 敷地、二百三十坪という尨大な屋敷ですが、その奥座敷から門前にかけて血闘が繰り展げられたからです。
 森川 場所も人もできていますね。
 国富 そのころは、まだ終戦まぎわで世間はまだかなり混乱していました。 その混乱につけこんで、一人の山法師が京阪神地方を荒しまわった。 六尺近い膂力絶倫の荒法師で、熊本県出身、金峯山で修業、秘法を修めた修験者と自称してしました。 事実、口笛をふいて鳥寄せの秘法を行ったり、催眠術で相手を金縛りにしたりして、あばれるから、これにかなう奴がいない。
 これが、かなり悪質な男で、道場荒しをやるだけでなく、代議士、実業家、有名芸能人など金のありそうな奴のところに押しかけて、おどかし半分にゆすりをやっていた。 弱味を握られていたり、後難が恐しかったりするので、誰も訴えでるものがない。 それをいいことに、益々羽をひろげてついに京都に踏みこんできたわけです。
 雲を突くような大男で、六角の樫の棒をついて市中を歩き廻る。 その音が街頭にからんからんと金属製の高い音を響かせるというわけです。
 森川 いよいよ、面白くなっ来た。(笑声)

河上利治3.jpg

 国富 故郷の山中では、裸身で切り立った岩肌や峯を走って上り下りして鍛えあげたという男です。 武芸については、かなり精通していると見えて、散々荒した末、遂に伏見、河上道場を目指す敵として乗り込んできた。 ちょうど、その時先生は都ホテルで外国からの使節の応待で、道場生をひきつれて出かけて道場には居なかった。 残っていたのは、わずか二名の若い弟子と女子供ばかりです。 その道場に踏み込んで、案内を乞うた声が割れ鐘のようだったというのですね。 いまでも、その時恐怖にすくみ上った女子供たちの語り草になっています。 それから三時間家人不在の大広間に上り込んで大あばれです。 果ては女中に酒を出させてすごんで居る時、幸にも河上先生が帰えって来た。
 森川 それから大乱闘ですか。
 国富 そうです。 真夏の夜の乱闘です。 奴は褌一つで手下を二人連れて座っていた。 そこに黄秩父の浴衣に白帯姿の丸腰で入って来た先生が二言三言何か交したかと思うと奴が物凄い勢で立ち上った。 すわっとこちらから見ていると先生の右足が素早く彼の胸に飛んだ。 空手の前蹴りです。 だっと奴が後へ退る、それを追って、先生が数歩前進したかと思うと、今度は先生の右の手が真直に目に見えぬ速さで彼の顔面を打っていた。 奴は壁に追いつめられた。 あっと思ったその刹那今度はえいっという気合と共に奴が頭突で反撃した。 九州特有の頭突です。 これをまともに食って居れば先生は死んだか顔面からきっと血沫き飛んでいたでしょう。 その時一瞬右の手が敵の頭髪をつかんだ。 だがその力は物凄ごく、逆に先生を仰向けに、どうと許りに倒していたのです。 ところが逆に倒れた先生の体の上を、二十数貫の奴の巨体が毬の様に飛んだ。 得意の巴投げでした。 巧みな早技、私達があっと言った時には既に奴は完全に押え込まれ、裸じめにかかっていた。 それから数分二人の体は動できませんでしたが、今度は邪魔者がはいった。 奴の手下が表に飛び出して、ジープで表道を通る米兵をだまして連れ込み急場を逃れ様とたくらんだのです。 米兵が土足の儘座敷で格闘する二人の頭上に来て両者を引離した。 怒った先生が米兵を怒鳴りつけて、ふっと後ろをみると修験者が六角棒の金剛杖を振り上げて今にも打ち降そうさんとしてい刹那だ。 あぶない、私は思った。 ぶうんと唸りを立て六角た棒が先生の脇腹をぶっ払ったかと思った瞬間、その時先生は後向きのまま、庭先に飛んでいました。 褌一つの真裸の姿で、騎馬立ちの構えに両手をひろげ、大声で
 『さあっ、来い、坊主っ!』
 と叫んでいるのですね。
 その時、坊主はさっと身をひるがえすと表門目がけて走り出していました。 これからが「伏見の夜嵐」門前の一騎打ちです。
 森川 木刀で樫の六角棒金剛杖を、真剣のように切り捨てたという武勇伝ですネ。
 国富 そうです。 庭の先生は素手で獲物を持っていなかったが、今度は先生自慢の大身の木剣が獲物です。 河上道場の前向側に赤いポストがある。 大入道は手なれた金剛杖を左手に、右乳上に握り右手を高く持って一打必殺の構えだ。 一方先生は二尺四寸の木大刀を正面に構えて相対した。 あわや真夏の夜の伏見の街に血の雨が降ろうとする寸前の状景でした。 辺りは薄暗く、道場の門灯がかすかにこの素裸の二つの形相を薄気味悪く浮き出して、激しい殺気が二人の周囲をつつんでいました。
 『さあ、来い!』
 『おうっ!』
 二者の掛け声が聞えたのは、わずかにこの最初の時だけです。 その後は何の声も発しません。 一秒、二秒、同じ姿勢でその間十秒も不動のまま相対していたでしょうか、一瞬に先生の剣先が、僅かにぴりっと動きました。 青眼の構えに付けた剣先が右の方え少し許り、ほんの少し許り動いたかと思うと、左足が、つつっと前に進んだ。 先生が押して出たのです。 大入道は押された、然しかれもまた巧みである。 杖はそのままでかまえは不変、足だけを退いた。 間合いはまだ初太刀のままです。 また数秒、木刀が動いた青眼から八双、自源流八双の構えです、先生の足がそれと同時に進んだ。 その時でした。 木剣がぴりっと動いて先生が打下したかと思った時です修験者の金剛杖は、飛鳥のような速さで、先生の左脇腹目がけて斜に打ち下された。 正にあっという瞬間でした。 木剣は自源流独特の一本撃ち、『えいっ』裂帛の気合は同時に発していした。 両者同時に発した気合はどうしても相撃ちを避けられぬ結果になるのですが。
 森川 凄い血闘ですね。 それから、
 国富 その時、勝負は決していました。 その瞬間に勝敗がついたのです。 修験者の金剛杖は、見事に木剣で六分目の所を完全に七割迄刃物で切った様に切られて、残る三割りが斜に裂けて大地に音をたてて飛んでいたのです。 あっというまに二の太刀が下から上に切上げて敵の肋骨数本を打ち折っていました。 修験者はその場で伏見警察署に暴力犯で捕り十四日目に拘置所から先生の身許引受けで出所し旅費を与えて故郷に帰りましたが、その時警察で、
 『樫の金剛杖が木刀で切れるか、真刀で切ったのだろう』
 と言われて困ったものです。
 森川 さすがに、大変な手の内ですね。
 国富 すでにもう十数年前、京都桃山の乃木神社権宮司時代の出来事ですが、先生は彦斎とおなじように風雅、を強調される「剣魂琴心」とでも言いますか、文武両道とは正にこの事を言うのでしょうね。
 森川 誤り伝えられた河上彦斎の姿を正すことができたのは収穫でした。 剣の心を求めてひたむきに正しい政治の創造に精魂をかける。 これもやはり現代にほしい人間のあり方ではないでしょうか。



 と言う事で、河上彦斎の孫、河上利治先生の記事でした。
 この記事は「剣豪列伝集」に掲載されていた森川哲郎先生の連載で、結構レアな対談が残されてます。
 河上先生のこの対談もかなりレアなんじゃないですかね。
 まぁ、ここで語られた彦斎の話とて、縁者側からの一方的な話ですから、そのまま信じるのは問題があるでしょう。 しかし、歴史の一証言として残されるべきかと思います。
 本記事では省略しましたが、彦斎の妻、天為子は相当な肝っ玉母さんだった様で、山県有朋からの慰労金に「下賜金」と書いてあった事から、「先輩であり同志である彦斎の遺族に下賜とは何事だ!」と一喝して詫びさせたりしてますw
 で、冒頭に「るろうに剣心」の緋村剣心(緋村抜刀斎)のモデル、と書きましたが、最近の作者のリメイク版には、セルフパロディとして、河上彦斎が登場してるらしいです(こちらは未見)。

緋村剣心.jpg
「るろうに剣心」

 今回はここまで、それでは、また。

参考文献:
武道日本 森川哲郎著 プレス東京 1964年
ジャンプ・コミックス るろうに剣心―明治剣客浪漫譚―完全版01 和月伸宏著 集英社 2006年








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