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大山倍達マニアック検定

大山倍達 世界へのメッセージ(1989年)

JUGEMテーマ:空手
  昨日はDVDで持っているにもかかわらず、Gyao!で「空手バカ一代」の6話まで通して見てしまいましたw
 やっぱり飛鳥先生の声はイイ! 途中で銭形警部やらジャイアンの声が入っていてちょっと笑ってしまいますけどw
 という事で1〜3話は2/23まで、4〜6話は3/2まで配信中です。
 以降の予定は…
第7話 むなしい勝利
第8話 道場破りの果て
第9話 猛牛への挑戦
の3話が2/24から配信されます。

 それでは今回はですね、リクエストがあったので、大山倍達総裁が福晶堂の「月刊空手道」に初登場した際の記事を載せてみます。

月刊空手道89_1.jpg

 以前にも中村誠先生と三瓶啓二先生のライバル対談等を実現して来た雑誌ですが、大山総裁のインタビューは初なんですよね。
 この路線で山口剛史先生や金澤弘和先生、岡野友三郎先生とか(他にも多数思い浮かびますが)の対談記事とかあったらなぁと思います。 …多分縁ある方とじゃないと無理でしょうしw

 本題に戻しましょうか。 記事は「極真空手総帥 大山倍達 世界へのメッセージ」と題して、結構ハードなメッセージを送っています。
 まずは冒頭のメッセージから行きます。 総裁は世相を懸念しつつこの様な発言をしています。

メッセージ
(前略)
 格闘技の中で最強に強い格闘技があるとするならば、他でもない空手である。 そして空手の中での最強は極真空手と自負するところである。 私は声を大にして、極真空手こそが人類の平和と、世界の融和をもたらすものであると言いたい。 この章にあたって、勿論それを叫ぶのであるが、それと同時に大山倍達は人間である。 神様ではない。 欠点も多い男である。 人は毎日反省をするところに進歩があり、自分も毎日反省している。 極真空手もまた完璧とは言わない。 欠点あることもよく知っている。 ルールについても、これからまだ補正し、改正していかなければならない。 出来うるならば、皆さんに極真に参加してもらい、徐々に直していってもらいたいと願いつつ、これを日本へのメッセージは無論のこと、世界へのメッセージとして贈るものとする。
極真会館 大山倍達

月刊空手道89_2.jpg

 そしてこれはちょっと珍しいですね、座右銘の12ヶ条バージョンです。 実は晩年になって11から1つ追加され12になったのですが、あまり目にする機会がありません(私がぱっと思い付くのは「わが師 大山倍達」ですかね)。 という事でいつかネタにしたいと思っていましたし、丁度良いので掲載します。 皆さんは何が増えたのか分かりますか?w

座右銘
一   、武の道は礼にはじまり礼におわる。
        よって常に礼を正しくすべし。
二   、武の道の探究は断崖をよじ登るがごとし。
        休むことなく精進すべし。
三   、武の道においてはすべてに先手あり。
        しかれども私闘なし。
四   、武の道においても金銭は貴いものなり。
        しかれども執着すべからず。
五   、武の道において金を失うことは小、信を失うことは大、
        覇気を失うことは己を失うことなり。
六   、武の道は姿なり。
        何事においても常に姿を正しくすべし。
七   、武の道においては千日を初心とし、
        万日の稽古をもって極とす。
八   、武の道における自己反省は
        常に練達への機会なり。
九   、武の道は宇のためにあるものなり。
        修練にて私心を忘れるべし。
十   、武の道においては点を起とし、円を終とす。
        線はこれに付随するものなり。
十一、武の道において真の極意は体験にあり。
         よって体験を恐るべからず。
十二、武の道において信頼と感謝は
         常に豊かなる収穫を得ることを忘るべからず。

 それでは、メッセージを引用して行こうかと思います。

空手について
 …武術の原点は素手で殴り、蹴り合うというものではないか。「人は空にして生まれ、空に帰る」という言葉があります。 何も持たずに、まさに”空手”で生まれた人間が、素手で闘う、それもまずはつかみ合い、組み合いせずして殴る、叩くー、これこそが闘争の原点である。 このような意味から考えるならば、空手こそが、すべての武道の原点だといってもいいのではないでしょうか。

寸止めについて
 実戦と証明、これが私の信念であるからこそ、私は今まで終始一貫として”寸止め”による勝負を批判してきたのです。
 空手は武道です。 武道であるならば、何よりもその存在意義たる実戦性、強さを追い求めなくてはいけない。 もちろん武道はそれだけでない。 礼節を極め、精神を鍛える、人間教育の道である事も私はよくわかっているつもりです。 しかし、だからといって強さを第一義にせずして何が武道であろうか。 本物の武道を求めるならば、より実戦に近い形で研鑽し合う事こそ重要ではないか。「危険だから当てない」「倒れるハズだから当てない」、それなら問うが、何が危険なのか、どう攻めれば危険であり、どう受ければ危険ではないのか。 そして倒れるハズだという証明はどこにあるのか。 これらすべての疑問が”寸止め”では解決されない!
 相手に当てずして勝敗を決する、これは実戦を”仮想”するのではなく、”幻想”を見ているのです。 空手が武道であり格闘技であるならば、まず最低限、当て合うべきです。 だからこそ私は”寸止め空手”を体操に過ぎないというのです。 本当に空手を考え、自ら実践者であろうとするならば、そして自分自身が空手家であり武道家であるという誇りがあるのならば、闘う事を否定してはいけない。

極真ルールについて
 現在、極真会館主催の大会で行われているルール、国際空手道連盟ルール(国空連ルール、極真ルール)をつくったのはもちろん私です。 しかし、大山道場当時、組手にルールなどはありませんでした。 正直いって禁じ手なしの組手でした。 寸止めを否定し、直接打撃を主張する私としては当然の事です。 でもだからといって空手は殺し合いではありません。 毎日の稽古で死人が出ていては20世紀の現代に存在する事はできません。 そこでいつしか、顔面に対しては、掌底で入れたり、牽制程度にしたりしていったのです。 ですから、実戦性を重んじ、武道として存在し得る空手でありながら、殺し合いではないという、ギリギリの一線が顔面強打の禁止なのです。

日刊スポーツ昭和44年9月広告.jpg

 大会にはルールがあり、そこで勝ち上がるためにはルールに則り、ルールを利用しなくてはいけない。 そこで最近の傾向として、顔面をガラ空きにした組手が多いという声があるのも知っています。 しかし、選手達自身も、もちろんそれは承知のはずです。 道場での稽古では、禁じ手なしを想定した場合の研究、指導などは十分になされているはずです。 いつ顔面を殴り合ってもいい準備と精神力はどの選手、道場生にもあるでしょう。 だからこそ、極真カラテが武道空手だといえるのです。

防具について
 防具については、私はもう40年以上も前から研究しました。 剣道の防具を改良したり、色々な素材を利用したり、あらゆる方向から防具を考えたものです。 しかし、やはり防具着用については空手の本質を変えるいくつかの矛盾性を解消する事ができなかったのです。
 防具においては、打撃による痛みを感じないために、肉体鍛錬が軽んじられ、パワーが無視される。 防御が甘くなり、組手に真剣さ、緊張感がなくなる。 防具について試行錯誤した結果、残念ながらこのような結論に達せざるを得なかったのです。
 また、顔面への手による攻撃について、寸止めは論外として、面(防具)をつけたうえでのルールももちろん模索しました。 しかしこれも結論的に限界を感じざるを得なかった。
 素手・素足での攻防、これが空手だというのが私の信念ですが、素手で攻撃した場合、防具の上からでは必ず拳、手首を痛める。 どんなに拳を鍛えていようと、防具を殴る以上これは避けられない。 寸止めの延長で軽く当てるのならまだいい。 しかし、渾身の力で殴るなら、拳は使い物にならなくなる。

カラテクター2.jpg

 そして、次に脳への影響です。 脳への悪影響を考えるならば、まだ、防具ではなく素顔を殴ったほうがいい。 防具を着けた場合、突きの衝撃は後頭部に残るのです。 ボクシングでいうところのパンチドランカー、これに近い症状になってしまう。 空手は武道であるが、殺し合いではない、それと同時に空手の稽古がすなわち人間破壊になっては本末転倒である。
 このような意味で、私は極真ルールこそが最も空手として理想に近い姿だと自負しています。
(中略)
 それこそ私は空手の本義に返れ、と言いたい。 本来の空手の技量を伸ばすために、他武道を研究するのは素晴らしい事です。 事実私も柔道なども学びました。 しかし、これと、ルールの中に入れる事は全く別問題です。 実戦においては一撃で人が倒れない事もあります。 突いて倒れない、蹴って倒れないからといって投げればいい、締めればいいというのは、本来の空手から逃げる事ではないでしょうか。 一発で倒れないなら、一発で倒れるように修業する。 どうしても一発で倒れないなら相手が反撃する前に2発入れられるようにする。これこそが空手の本義ではないでしょうか。
 
型について
 空手では、”地に則った基本、理に適った型”といわれる通り、極真会館でも稽古の中で、型は重要な部分を占めております。
 型の動作の中には、組手における立ち方に始まり、歩き方、攻撃技、受け技が含まれており、いわば型は空手の教科書ともいえるものです。 空手を指導する際、できうるならば自らが動き、手本を見せ、五体をもって教える事が最も望ましいのはいうまでもありません。 しかし、人は年をとるものです。 老いて身体が自由に動かなくなったとき、つまり自らの動きで十分に指導ができなくなったとき、何をもって教えるか、そんなときこそ型が重要になるのです。また1人稽古する際も、型によって理にかなった動きを学ぶ事もできます。

月刊空手道89_3.jpg

 型はまた、先人の空手に対する精神を継承する意味でも、文化財としての価値があります。 しかし、だからといって型は空手のすべてではありません。 あくまでも、稽古の中の一部としてのみ生きるものです。 ところが、型が組手と同格のものとして他団体において扱われている事は、どうしても私には理解できません。 型を競技化し、それを体操と同様に点数によって優劣を決める、完全に型をスポーツの一種目ととらえ、競技として見ているわけである。 その一方で、型は武道であると断言し、型は空手の精神であり、まるですべてであるが如くに神秘化する。 つまり、完全に矛盾したものを型に求めているのです。 これを果たして彼らはわかっているのでしょうか。
 型が空手の武道性、精神性を表すものだというのなら、何故に試合を行い、それも点数制にするのでしょうか。
 今述べたように、極真会館においても型は重要な稽古の一部です。 しかし型はそれ以下でもなければそれ以上でもない。 型を競技化する事にわたしは反対しません。 むしろスポーツとして、子供や女性、老人でも親しめるために、型は必要なのかもしれません。 それなら完全に型をスポーツとして割り切り、体操やフィギュアスケートのように、音楽を流して行えばいいと思います。

本家日本について
 私は、基本的には本家日本が必ずしも優勝しなくても良いと思っております。 何故なら、それだけ極真カラテが世界に広まっている事を証明するわけですから。 しかし、だからといって本家である日本がぶざまな負け方をしていいわけではありません。 世界の空手はみな、本家である日本を目標に日々精進しているのです。 日本選手はそれら、海外の人々の期待に応える義務があるのです。
(中略)
 日本勢が外人勢に大きく差をつけられた結果、一体どうなるか。 もはや外人は日本に対する憧れを失い、日本を目標とせず、指導員を日本人ではなく、他の強い国に求めるようになる。 その結果、組織的な実権も日本は失い、海外諸国のリーダーシップにより組織が動く事になる。 まさに柔道界の二の舞になってしまうのです。 それが現在の寸止め空手界ではないでしょうか。
 空手は日本で生まれたものです。 日本独特の武道性、精神性を空手に求めていくためには、本家日本が絶えずリードしていなくてはいけません。

技は力のなかにあり
 相手の技を確実に捌き流す。 そしてまわり込みながら攻める。 左右に動き、間合を計る。 空手の究極の姿は相手に接する事なく倒す事です。 このような空手の本分を決して忘れる事なく精進しなければいけません。
(中略)
 空手で強くなるためには”力””スピード””技”、この3要素をそれぞれ磨く事が必要です。 そしてそれらの中でも特に軽視してはいけないのが力、つまりパワーです。 日本人の悪い傾向の1つに、技を重視し、力を軽視する事があります。 しかし、これは大きな間違いです。
(中略)
「技は力の中にあり」これは真理です。 しかし、だからといってマシーンを使い、バーベルを持ち上げればいいというものではない。 決して機械に頼ってはいけないのです。 特に空手は武道であり格闘技です。 相手に勝つためには、まず自分に勝たなくてはいけない。 精神力、気力が何よりも大切なのです。 そのためにこそ、決して技におぼれず、マシーンに頼らず、まずは自らの五体を以て鍛錬する事を忘れないで欲しい。

 他にもこの号では、
「”巨星”大山倍達 極真までの道程を語る」
「極真空手年譜」
「検証・極真空手」
と、4部構成になっており、極真に対し負の感情を持っていた読者には腹立たしい特集だったかと思いますw
 最後に今更ながら気付いたのですが、大山倍達史の記事で大山総裁がさり気なく真相に近い事を語っているんですよね。 以下抜粋。

 …京都の丸山公会堂で戦後初の武道大会が開かれました。これは柔道や剣道が中心となるもので、空手も一緒に参加してました。 そこで私は、空手の演武の中で、組手の試合もあるというので出かけていったのです。 その頃はまだ、同じ寸止めでも現在のようにルールがしっかりしていない模索の時代でしたから、組手は一応当ててはいけないという約束だったと思います。
 私は飛び入りという形で出場しました。 しかし試合は当てようが当てまいが全く問題にならない。

 分かりますかね? 「空手の演武の中で、組手の試合もある」と大山総裁が自ら語っています。 つまり選手権試合じゃなかったという事ですね。 しかも本文中、どこにも「優勝した」とは書かれていませんでした。 私は演武者の中で最優秀賞で「空手日本一」みたいな感じの表彰をされたんじゃないかと推測している訳ですが、いずれにせよこれを裏付ける資料も人も、今となっては誰もいません。 ただトロフィーが1つ、残っているだけです。 (戦後初の空手大会についてはコチラの記事で書きました。)


 という事で今回はここまでです。
 他にも空手界の大同団結の話なんかもあったんですけど、その辺りは割愛しました。
 大山総裁が思っている本来の極真は、「道場の稽古では試合だけでは無く、ノールールの指導、研究もしている」という事ですが、これを守っていたのは本当にいくつかの支部ぐらいでは無いでしょうかね。 機関誌の「月刊パワー空手」では暫くノールールの中の空手技術を紹介する連載なんかもあり、中には結構エグい技なんかもありましたけど、こういう事も研究しろよって意味だったと思います。
 しかし支部によっては基本稽古の廻し蹴りでさえ、帯を持たない組手立ちからの蹴りしかやっていない所もありますし、中には約束組手すら殆どやった事が無い支部もあるそうです。 あ、約束組手をやっているという道場でも、それは所謂「受け返し」を指しているという話を聞いた事があります。 今はそういう事も無いでしょうが、型を殆どやらない道場なんかもありましたよね。
 逆に、顔面ありを研究して掌底やスーパーセーフ、グローブでの組手を指導している道場や選手育成コースを持っている道場もありますから、極真と言っても道場単位でかなりの開きがあります。
 しかしどの極真が勝っても負けてもそれは全ての極真に返って来るものですから、私が言うのも何ですが、「さすが極真」と思われるような闘い、生き様を見せて欲しいものです。 勿論、組織としてもね。

 ちなみに、今回割愛した「空手界の大同団結」ですが、このインタビューの少し前から提唱していた事で、オリンピックが絡んでいます。

ゴン格8910.jpg

 大山総裁自身は古くから空手界にいらっしゃるし、それなりの発言権が斯界に対してあるのですが、それでも全空連との話し合いは平行線を辿ってしまい、結果的に総裁にとっては腹立たしい事にテコンドーに遅れを取ってしまったと。 それで、まずは国内を直接打撃制で固めたかったんだと思います。
 ところで、私の手元にある今号は印刷ズレがあり、表紙がぶれていますw 3Dメガネ掛けたら浮きますかね? これが切手やお札なら高値が付きそうですが、ただの雑誌では評価低いだろうなぁ…。
 本当は今回藤子不二雄先生とつのだじろう先生のネタをやろうと思っていましたので、こちらは次回に回します。
 それでは、また。

参考文献:
月刊空手道 1989年1月号 福晶堂 1988年
ゴング格闘技 1989年10月号 日本スポーツ出版社 1989年

参考リンク:
空手バカ一代 無料動画 GyaO! (2011/02/20)

 






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コメント
リクエスト記事ありがとうございます<m(__)m>

いやぁ〜 仕事が早くてビックリです。
記事を読んでどうして「型反対派」「型推進派」の意見がこうも食い違うのか・・・について納得しました。両派とも自分達に都合良く、大山の発言を解釈していたのですね。

「型競技」は現在、松井派も新極真も開催しています。連合においては、今年「型の全日本大会」が予定されています。競技化しても武道の本質を忘れないよう、各派にこの記事を見てもらいたいものです。

ありがとうございました。
  • 大山倍達ファン
  • 2011/02/21 7:43 AM
>大山倍達ファンさん
まぁ、コメントの返信は遅いですけどねw
調べる必要が無いので早かっただけですよ。

極真館も型はやってますね。
別に型をやる分には良いと思うのですが、競技型ばかりになるとどうかなぁとは思います。
これは組手にも言える事ですよね。
  • Leo
  • 2011/02/25 11:22 PM
こういう貴重な内容(特にルール外の輩にも対応する為の稽古について)の発言が
今一つ皆へ行き渡っていない様に思えてならない現状というのは、実にやりきれないばかりですね……
本来ならばこういう有り様こそが最低限度として一般化されてなければいけないハズなのに。

さらにはそういう発言を知ろう&広めようとすらしない人ばかりなのは何故だろうか、と。
大山総裁と梶原兄弟をバカにするだけで済まないんだってばよ
  • 葬流者-SOULDIER-
  • 2016/09/11 6:50 PM
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