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大山倍達マニアック検定

極真VSムエタイ 前編(1964年)

JUGEMテーマ:空手
 

 はい、極真空手のそして後にキックボクシングという新たな競技を生み出した、ターニングポイントと呼べる1964年の極真VSムエタイ、ちょうど50周年ですし、これを今回取り上げてみようかと思います。

極真VSムエタイ6.jpg

 まぁ、特に目新しい話は…多分無いかと思うんですがw
 それでは、どうぞ。




「タイ式ボクシングに なぐり込む"空手"」

空手がタイに遠征、タイ式ボクシングと他流試合をする。 遠征する空手修業者は極真会(会長・大山倍達八段)の師範代・黒崎健時四段、中村忠二段、藤平昭雄初段の三人で、一行は十五日午前九時二十分羽田発の日航機で出発、二十一、三十日の両日バンコクのナショナル・スタジアムで対戦する。
(「日刊スポーツ」 1964年1/14)


 話はこの半年ほど前まで遡る。 1963年の7月頃(2〜3月頃という説もある)、当時NET(現・テレビ朝日)のボクシング番組向けにプロモーターをやっていた野口修は、ここ数年来思い描いていた構想を胸に、立教大学裏の大山倍達率いる日本空手道極真会を訪れていた。

大山道場2.jpg
当時の極真会

 外国人ボクサーとのマッチメイクの為、頻繁にタイ国に行っていた野口は、当時タイ拳、タイ拳法、タイ式ボクシングと呼ばれていたムエタイに魅せられ、日本で興行を行いたいと思う様になっていたのだ。 実際、野口は1959年と1962年、ボクシングの興行に1試合、ムエタイの試合を敢行している。
 次第にムエタイと同じく足も使う空手と闘わせる形で興行を行ったらどうだろうかーこう考える様になっていた野口はムエタイに挑戦出来る空手道場を探していたのだった。 以前より声を掛けていた日本拳法空手道の山田辰雄からは遂に良い返事は貰えなかったが、東の実戦派として名高い"牛殺し"大山倍達からは選手派遣について承諾を得た(この件についても大山門下である黒崎健時が個人として受けた、という話をしている時があるが、個人で受けたのなら門下生を自由には出来ないであろう。 黒崎が責任を取るからと進言し、任せたという形だと思われる)
 尚、この時の大山の返答は野口自身が2種類の話をしており、どちらの返答が正しいのかは不明である。
 一つは有名な「タイ拳なんかワンパンチKOだよ」という強気の発言。 そしてもう一つは「ウチにはムエタイと闘える選手はいないよ」という消極的な発言だ。
 当時大山道場に通っていた大山泰彦はこの消極的な発言に対し、自身のブログで以下の様に反論している。

故総裁と野口氏の席上に私が居た訳ではないが、故総裁がタイ式には、かなわない・・・等と言う訳がないし、鍛えてくれ・・などとも言う訳がないと思う。

 どちらが正しいかは不明だが、どちらも含まれている発言だったのかも知れない。 例えば実際にムエタイの選手と闘ったという伝説のある大山自身は一撃だが、その門下はまだまだ…という意味かも知れない。 記録の残らない会話の真偽など、誰にも分からないだろう。 ただ言えるのは、大山倍達という人間は、滅多に人に弱気を見せないが、事に臨んでは徹底的に研究するという現実的な側面を持っていた。 私個人としては、どちらの発言もあり得るのでは無いかと思う。
 尚、中村忠が聞いた話では、野口がムエタイ関係者からタイで空手家一行が負けたという話を聞いたとか、ムエタイに勝てる訳が無いと言った話を聞いた野口が、「いや、日本の本当の空手の力はそんなものじゃない。 それほどいうのなら一度私が間に入って、挑戦を受けようじゃないか」とタンカを切ったのが原因だったという。 この話については大山泰彦もエッセイでこう書いている。

確か、タイの人に、日本の武道を馬鹿にされたとか、カラテ道をバカにされたとかそれで、意地になってムエンタイに挑戦してやろうと決意し、日本各地の空手道場を回ったのだが実際に突きや蹴りを当てて稽古しているところは無く、頭を痛めていた。
そこに極真会の話を人から聞いて来たのだと、実際に稽古を見てこの流派なら行けると思った。先生是非やりましょうと、だいたい、こんな感じだったように思う。

ところが時間が過ぎると、故総裁がムエンタイとの対戦は新しいビックビジネスの話であるようなことを言い出した。
野口氏が「ムエンタイと勝負できるのは極真会カラテしかいない。あたらしく名前を、キックボクシングと命名してマスコミを使い国際的に広める。これは大変なビックビジネスになる・・・」こんな事を時々話しているのを聞いた。
また、「野口は大変な人だよ、普通の人じゃないよ、話が何処に飛んでいくか解らない・・・注意しないと大きな怪我をするよ・・・」こんな話も出てきた時があった。
とにかく色々な思惑があったようだ、そこで故総裁が黒崎先生に任せることになった。


 ちなみに一番有名な説は、野口が大山の発言をタイのプロモーターに伝えたところ、「それほどタイ拳を冒涜するんだったら、いつでも戦ってやる」と激怒したという話だ。 これもまたどちらが正しいかは不明だが、大山泰彦の記憶通りの話だったとすれば、次第に大きくなる野口の話に危機感を持った大山が手を引こうとしたところで黒崎が受ける事になったのかも知れない。 それにしてもアメリカに渡って日本の格闘技事情に疎い中村と泰彦の両名が似た話をしているのは実に興味深い。

 半年後に道場移転を控えた大山道場では、「極真会がムエタイ(タイ式ボクシング)の挑戦を受けて立つらしい」という噂が流れつつあった。
 中村がこの噂を聞いた数日後、大山より道場に呼び出された。 大山の傍らには黒崎、そして他にも岡田博文、大山泰彦、藤平昭雄の3名がいた。 大山は中村が来ると、こう発言したという。

 「すでに多少は諸君らの耳に入っているかもしれないが、このほど我が極真会はムエタイと対戦することを決定した。 ついてはこの黒崎師範をリーダーに、君たち四人にタイへ行ってもらいたい。 極真会から行く以上、必ず勝って帰ってこなければならない。 諸君らを選んだのはそれを踏まえてのことである。 むろんこの大山、諸君らが私の期待に応え、勇躍敵地に乗り込んでくれるものと信じている。 それぞれ事情はあるだろうが、ぜひとも期待に応えて極真の名を世界に轟かすよう努力してほしい」

 話を終えた大山が4人に確認を取ると、「押忍」と返事した。 師の命令は絶対である。

極真VSムエタイ0.jpg

 いざ挑戦と言っても1963年当時、タイからの留学生はそこそこ居たものの、日本人にとってはムエタイなど、一部の人間しか知らなかった。 野口はムエタイについて、知る限りの知識を与え、自身もボクサーだった経験から、ボクシング技術については色々伝えた様ではあるが専門家では無い。 責任者となった黒崎が苦労して対策を考え、成増の黒崎の道場で激しい稽古に励んだ。
 元々試合は極真側は空手着に素手、という事であったが、結局空手側もグローブとトランクスを身に着け、ムエタイルールで戦う事となった。
 当初、タイ遠征は10月に企画されていた事から、黒崎の発案で8月20日より1ヶ月間鬼怒川の黒崎の知人宅で合宿を行う事になった。

極真VSムエタイ12.jpg
鬼怒川合宿

 黒崎を筆頭に岡田、泰彦、中村、藤平の5名は、ボクシングから導入したトレーニングを中心にヘッドギアとグローブを着けた組手をこなし、黒崎が発案した川を利用した鍛錬に勤しんだ。 そして同じ打倒ムエタイの目標を掲げたメンバーの中には、チームワークが生まれつつあった。

極真VSムエタイ24.jpg
ムエタイを想定したスパーリング

 これまで試合の無かった極真会において、これほど試合に勝つ為にトレーニングを積んだのは初めての事だった。 合宿後の選抜メンバーは、他の門下生を寄せ付けないほど強くなっていたも言われている。

 合宿から帰ったある日、野口より呼び出されて、野口ジムでタイ人とスパーリングする機会を得た。 1人は元ムエタイ選手で国際式の東洋ライト級王座にも挑戦した事のあるイソラサク・パンタイノーラシン。 早速中村とスパーリングする事になり、中足でみぞおちに蹴りを入れると、相手は息が上がって吐いてしまったという。
 中村は引き続き、手だけで野口ジムのボクサーとも1ラウンドだけ対戦し、泰彦によれば相手の体が浮いてしまうほどのパンチを叩き込んで圧勝した様だ。
 また、泰彦も変則上段から引き寄せての膝蹴りで圧倒したという。

極真VSムエタイ11.jpg
野口ジムにて

 意気揚がる極真勢であったが、10月の遠征は12月へと延期になってしまった。 更に1月になるという。 これにより、遠征メンバーの予定が完全に合わなくなってしまっていた。 泰彦は家庭の事情から稽古も休みがちとなり、岡田も諸事情により、遠征を辞退する事になった。 そして中村も大学卒業を間近に控え慌ただしい時期であり、1月の遠征では卒業も危ういとあって、両親も反対していた。 これを察していたのか黒崎は藤平を飲みに誘い、藤平にこう語っている。

 …タイに行く前に黒崎先生に飲みに連れて行かれて、最悪の場合、俺とお前で行くようになるかもしれない、って言ったんだ。 なんのことだか分からなかったけど、「おい、負けたらお前しばらく日本に帰れねえぞ」って言われて、「ああ、わかりました」って言って、だから負けたら仕方ねえなって。 今みたいにちゃらちゃら負けてもどうってことない、気楽な気分で行くわけじゃないもん。

 藤平の追想にある通り、参加メンバーが減った時点で黒崎に選手として出場するという話が出始めていたのはこの時期だった様である。 ある日、意を決した中村が大山と黒崎に出場辞退を告げると、大山は沈痛な面持ちでこう発言した。

 「黒崎、君と藤平だけでは人数が少なすぎる。 このことはなかったことにしよう」
 私は館長と黒崎先生の沈痛な表情を目にして、胸を強く揺すぶられる思いであった。

(中略)
 …しかし、これまで並々ならぬ情熱を注いで遠征を成功に導こうと努力されてきた黒崎先生のことを考えると、自分だけが我がままを言うのは悪いような気がした。 私は決心した。 「大山先生、仮にこの遠征で卒業できないようなことになっても、僕を行かせてください。 大丈夫です。 学費ぐらい自分で土方してでも稼ぎます」
 「忠君、そうか、行ってくれるか。 ありがとう。 どうだ黒崎、これでタイ遠征は実現可能になったぞ」
 「はい、館長。 この黒崎もどうやら中村に借りができたようです」


 こうしてタイ遠征が確定したのだった。 試合は1月の21日と30日の2回、これに合わせて15日の便で、黒崎、中村、藤平の3名がタイに行く事になった。 当日は遠征メンバーであった泰彦も見送りに来た。 泰彦によれば、大山この日、黒崎にこう告げたという。

見送りの雑踏の中で、私は黒崎先生のそばにいた。
その時、故総裁が「君チョット」と黒崎先生の正面に来た。
「君、野口は必ず君に試合に出てくれと、言ってくるよ」
「はっ・・」
「君、絶対に試合はしてはいけないよ、野口の話に乗っては行けないよ」
私は今でもその時の故総裁の顔を覚えている。


 しかし、前日の新聞には既に黒崎も選手としてカウントされていた様な報道がされており、実際黒崎自身もこう発言していた。

極真VSムエタイ14.jpg
タイ遠征直前の記事

 「空手はこれまで神秘的なものとして育ってきた。 ほんとうのことをいうと、私は空手の強さに対して疑問を持っている。 タイ式ボクシングのルールで対戦することは、私たちの方が不利なことはわかっているが、このさい私は空手の強さを身をもってためしてみようと思う。 空手が国際的なものとしてのびるためにはテストのいいチャンスだろう」

 この時点で黒崎が試合する事が確定していたのかは不明だが、中村によれば他メンバーを鍛えるのに忙しく、自身の稽古があまり出来なかったが、黒崎が試合をするという様な話はあったという。
 一方で勝敗については、

「やって見なくてはわからない。 しかし私たちは負けられない。 イソラサクと中村のスパーリングからいえる限りでは、こちらに十分の勝算はある。 こわいのは向こうはなぐられ、けられて、からだを鍛えていることと、こちらの決め手である素手のなぐりがきかず、投げとばし、トドメを刺すことができないことだ。 真剣勝負なら問題ないんだが……」
(中略)…「あくまで向こうのペースに乗らず、軽く動いて相手を誘い、チャンスに一発で決める正攻法をとるか、最初から強引に攻めまくる奇襲戦法に出るか、そのどちらかをとる」

 と語っている。 こうして野口率いる極真会勢は、タイへと旅立った。
 タイに着いてそうそう、記者会見があった。 この時に対戦相手も同席した様だが、相手を見て皆勝てると確信したという。
 一行は野口の知り合いで、父が日本人だというコール・ブンラットのジムに逗留する事になった。 翌日はブンラットの選手と蹴り無しでの公開スパーリングを行ったが、やる気十分の中村と藤平は、一方的に攻撃する。 これが理由だったのかどうか、試合が延期になった。 卒業試験を睨む中村からすれば忸怩たる思いであったが、こうなってはどうしようも無い。 心配した黒崎は中村に帰国しても良いと告げるが、中村はこれを断固拒否。 しかし、1ヶ月近い延期は、一行にとってはチャンスとなった。
 ムエタイの会場に度々足を運び、会場の雰囲気を知った。 そして当初は合わなかったタイの風土にもすっかり慣れ、黒崎の発案による、サウナの様な試合会場へ向けた練習も出来た。 23日にポーン・キングピッチと対戦する海老原博幸(結果は2-1の判定負け)とも激励を交わした。 しかし好事魔多し、ようやく自分の稽古が出来る様になった黒崎が足の親指の爪を負傷し、化膿して腫れ上がってしまったのだ。 靴を履くにも困難なほどの激痛が走っていた事から、黒崎は試合数日前に足の爪を取って膿を抜いたが、試合のある2月12日までに完治しそうに無かった。

 1964年頃は日本からは多くの駐在員がタイに滞在しており、極真会一行も在留日本人による運動会へと招かれた。 この席で日本人らに試合を期待されたが、今まで何度か挑んで来た空手家のいずれも勝てなかった、という話を聞かされた。 また、写真も見せられた様で、同胞が敗北した写真を目の当たりにした一行は奮い立ち、在留日本人からのエールにも答えようと一層奮起した。

(続く)

 ここまでで前半終了。 相変わらず私が書くと長いなw
 全ての物事を詰め込もうとするしw
 後、田中清玄先生のムエタイと空手の交流試合を企画したという話は扱おうかどうしようか悩んだですけど、「空手バカ一代」ネタまで取っておこうかな、と。
 続けて、後編をどうぞ。


参考文献:
日刊スポーツ 1/14、2/24 1964年
週刊現代 1964年4/23号 講談社 1964年
週刊大衆 1964年10/8号 双葉社 1964年
ゴング格闘技 1992年10月号 日本スポーツ出版社 1992年
月刊フルコンタクトKARATE 1992年11月号 福昌堂 1992年
月刊フルコンタクトKARATE 1996年4月号 福昌堂 1996年 
月刊フルコンタクトKARATE 1月号別冊 大山倍達と極真の強者たち 福昌堂 1999年
ゴング格闘技11月号増刊 空手に愛をこめて。 Karate & Karate 日本スポーツ出版社 1999年
NIPPON SPORTS MOOK 27 蘇る伝説「大山道場」読本 日本スポーツ出版社 2000年
月刊フルコンタクトKARATE 4月号別冊 空手バカ一代たちの伝説 青春大山道場 福昌堂 2000年
キックボクシング入門 〜平凡な日常にキック・ユア・アス!〜 ベースボール・マガジン社 2004年
必死の力・必死の心 黒崎健時著 スポーツライフ社 1979年
闘いの中で スポーツライフ社編 スポーツライフ社 1983年
小さな巨人ー大沢昇伝 松永倫直著 スポーツライフ社 1986年
人間空手 中村忠著 主婦の友社 1988年
わが師 大山倍達 高木薫著 徳間書店 1990年
"キックの鬼"沢村忠伝説 真空飛び膝蹴りの真実 加部究著 文春ネスコ 2001年
サムライへの伝言 黒崎健時著 文芸社 2004年
トップに立てるワル 下っ端で終わるサル 桂歌蔵編 東邦出版 2005年

参考映像:
「ムエタイ名勝負大全集第2巻 大いなる挑戦!」 日本スポーツ映像株式会社
「実録! 大山道場&黒崎健時」 UPPER

参考リンク:
国際大山空手連盟 エッセイ 汗馬の嘶き 第13話「ムエンタイ、キックボクシング」 (2/11/2014)

関連リンク:
【古記事】「タイ式拳法 日本に上陸」(1964年)
幻の極真ジム 1(1969年)
極真カラテのレア映像(表)








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