calendar

S M T W T F S
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
2627282930  
<< November 2017 >>

categories

無料
無料
無料






archives

大山倍達マニアック検定

極真VSムエタイ 後編(1964年)

JUGEMテーマ:空手
 

さぁ、後編です。 チャッチャと行きましょう。

前編はコチラ

極真VSムエタイ2.jpg




 1964年2月9日、「キック・ボクシング」と名付けられたこの試合の記者会見が行われ、そこで対戦相手が急に変更になった事を知った。 中村は新しい対戦相手となる「グリーン・タイガー」なる異名を持つタン・サレンと握手をしようとした所、無視されてしまった。 中村はこの無礼な様子に激怒したが、怒りは当日ぶつける事を誓った。

極真VSムエタイ7.jpg
記者会見

 結局ルールは通常のムエタイルールに投げと頭突きを含む、変則ルールが適用された。 グローブは4オンス、1ラウンド3分に2分のインターバル、投げた場合は上になっていたらポイントとなる。 恐らくは黒崎の主張を受け入れた形だったのでは無かろうか。 そしてこの変則ルールは、後に野口が設立する日本キックボクシング協会のルールの原型となったと思われる。

 1964年2月12日、遂に運命の日がやって来た。 会場となるルンピニースタジアムには、多くの日本人が詰め掛けた。 第2戦を闘う予定となっている黒崎の相手こそ強豪、名選手として名を馳せたラウィー・デーチャチャイだったが、中村と藤平の相手は無名である。 しかし、異様な雰囲気の中、3人の口数が少なくなっていった。 タイのテレビ局の中継、ドイツ人カメラマンによる撮影、そして日系タイ人の新野が野口の要請でリング下から8ミリと、合計3つカメラが用意された。

極真VSムエタイ1.jpg
ムエタイ専門誌

 先鋒は中村、対戦相手は先日態度の悪かったタン・サレンだ。 後に黒崎が明かしたところでは、アメリカから帰国したばかりの学生だったそうだ。 しかし実力の分からない相手ーそれも未知の格闘技と対戦する中村にとっては警戒こそすれど何の慰めにもならないであろう。
 ゴングが鳴ると中村は一気に間合いを詰めて、中村によれば「回し蹴り気味の前蹴りで相手のみぞおち」を狙う作戦だったというから、所謂三日月蹴りを中心とした組み立てを考えていたのだと思われる。 先制の三日月蹴りが躱された中村は、サレンのローキックを軸足に食らい、スリップ。 立ち上がった中村が中段回し蹴りで返すと、サレンはダウンした。

極真VSムエタイ13.jpg
サレンのハイキック

 ここで中村はミスを犯した。 ダウンカウントは選手がコーナーに着いてから始まる。 中村はその事をすっかり忘れており、黒崎や藤平の「戻れ!」という絶叫にも気付かず、カウントを損してしまった。 気を取り直し、一気呵成に攻め立てる中村はボディストレートで2度目のダウンを奪うも、これはゴングに救われた。
 コーナーでは野口がこのラウンドで勝負を掛けろとアドバイスを送る。 プロの試合に慣れていない中村はペース配分も、そして灼熱のリング上で闘った経験も無い。 疲労感もかなりの物であった。
 第2ラウンドが始まると、ラッシュを掛けた中村の中段突きがサレンのボディを抉り再三のダウンを奪う。 辛うじて立ち上がったサレンだったが、既に限界だった。 次に中村の右ストレートがサレンの顎を捉えると、そのまま立ち上がって来なかった。 2ラウンド1分48秒、中村のKO勝ちである。

極真VSムエタイ4.jpg
中村の右ストレートを食らい崩れ落ちるサレン

 怒号に包まれた場内では勝ちを噛み締める中村の元に、野口、や極真勢が飛び出して抱き合って喜んだ。 しかしまだ初戦である。 勝ち越した訳でも無い。 1人だけ勝っても日本には帰れないだろうと、中村は不安に包まれた。

 2戦目は重量級の雄、当時23歳のラウィー・デーチャチャイ。 現在のムエタイでもパウンド・フォー・パウンドをオールタイムで決めるならば、確実に上位に名が上がるであろう思われるタイの伝説の英雄、アピデ・シッヒランとも好試合を演じた名選手であり、パンチや肘に長けた元ウェルター級のチャンピオンだった。

極真VSムエタイ10.jpg
ラウィー・デーチャチャイ

 対する黒崎は、極真会の四段で師範代、"鬼の黒崎"と称されるほどの過酷な稽古に挑む姿勢と、その実力の高さは折り紙付きであった。 しかし黒崎は当年34歳、プロとしての初陣を飾るにしてはあまりにも遅い年齢であった。 加えて、1月になってから参戦の話が出た為、急遽練習を始めた結果、足の親指を化膿する始末。 無論、不慣れなルールのある闘いというのも、黒崎にとっては不利だった事だろう。
 道着を着てリングに上がった黒崎は、これを脱いでトランクス姿になった。

極真VSムエタイ18.jpg
ラウィーの先制打

 ゴングが鳴り、互いに中央に進むと、ラウィーがジャブから右のローキックを黒崎に叩き込む。 何度か観戦したであろうムエタイの試合でもこのローキックは見ていただろうが、当時の空手に無かった蹴りである。 これに警戒したのか、黒崎は中々手を出さないが、左のミドルキックを受け止めると、すぐさま投げる。 そのまま上から構えるがここでブレイク。

極真VSムエタイ19.jpg
黒崎の投げ

 立ち上がったラウィーは右のローを連発するが、強引に中に入った黒崎がロープ際でラウィーを捉え、再び投げに入るも、これは相手がしゃがんでしまい、ならず。 ラウィーはローで、黒崎は投げでという展開になるかと思われたがここでラウィーの肘が黒崎にヒットするが意に介さず抱え投げ。 双方立ち上がって黒崎が突進、前蹴りでストッピングするラウィーだったが、またも肘。 これで黒崎は出血し、投げが潰れた後にドクターが診断する。
 試合が再開すると、ラウィーは肘に勝機を見出したか、更に肘打ち。 それに対して足を抱え執拗に投げを狙う黒崎。 足の負傷もあってか、黒崎にはこの戦法しか無かった。 肘を連発するラウィーはロープ際でも打ち下ろしの肘を繰り出す。 接近戦での肘を警戒したか、大振りのパンチで中に入ろうとする黒崎、ここで左の肘が黒崎の顎にヒット、現在見る事の出来る映像には映っていないが、抱き付く様に崩れる黒崎にラウィーが打ち下ろしの肘を後頭部に入れたと言われている。

極真VSムエタイ20.jpg
ラウィーの肘が顎を捉える瞬間

 さすがの黒崎もこの攻撃には耐えられず、遂にダウン。 セコンドからは必死に「立つんだ! 立つんだ!」と声援を送ったが、膝を屈した黒崎はそのままテンカウントを聞き、敗北を宣せられた。 1ラウンド2分35秒、黒崎、まさかのKO負けである。
 藤平と中村がリングに飛び込み、黒崎をタンカに乗せた。

極真VSムエタイ5.jpg
タンカに載せられる黒崎

 黒崎は控室に運ばれる中、無念のあまりか、タンカの上で暴れた。 あの黒崎が負けた…これで1勝1敗、もう後が無い。 藤平は自分の感情が抑えられなかった。 そしてまた興奮した中村が「黒崎先生の敵を討ってこい」と送り出すと、場内は殺気立っていた。 生きて帰れないかも知れないーそんな雰囲気の中、藤平は、自らを鼓舞するかの様に、「バカヤロー、バカヤロー」と怒鳴りながらリングに上がり、両手を挙げて歓声に応え、タイ人が行う様に、四方に合掌して礼をする。 意外に冷静な様だ。
 藤平の相手はハウファイ・ルークコンタイ、 長身で元軍人だという。 黒崎によれば「ブラック・コブラ」なる異名を持っていたそうだ。
 開始早々、先ほどのラウィーの様にジャブから右のローで入る藤平。 身長差はかなりあったが、間合いを潰す作戦だ。 そのまま果敢にパンチで攻め、組んで来たところで投げる。 立ち上がったハウファイは、藤平の首を抱え膝蹴りの連打。

極真VSムエタイ21.jpg
長身のハウファイの膝蹴りが強襲する

 再び藤平は投げで返す。 黒崎が進めたかった戦法だ。 時にはパンチで押し込む藤平だったが、首相撲からの膝蹴りを食らいながらも投げでダメージを与えて行き、どうやらこの辺りで1ラウンド目が終了した様だ。

極真VSムエタイ22.jpg
藤平の投げ

 決定打の無かった第1ラウンドだったが、2ラウンド目に入ると、カウンターで藤平の右ストレートが決まり、ハウファイはもんどり打ってダウン。 興奮していた藤平は「立ってくるな この野郎!」と怒鳴った。 しかしすくっと立ち上がり、ダメージはあまり見られないハウファイ、レフリーがダウンカウントを取ろうとしたところで、藤平が攻めに行こうとする一幕もあった。
 試合再開後はまたも藤平が投げに行く展開だが、この辺りで下から入る藤平の頭突きがハウファイに入ったと思われる。 投げられたハウファイに対し、ロングフックの打ち合いになったところで藤平の右フックがハウファイの顔面に炸裂、ダウンしたハウファイが立ち上がるも時既に遅し、2ラウンド1分40秒、藤平のKO勝ちとなった。

極真VSムエタイ23.jpg
勝負を決した藤平の右フック

 2-1で空手が勝った事に騒然とする場内。 怒号を浴びながら勝ち名乗りを受けた藤平は、リング上から何度も怒鳴った。

 「日本人をなめるんじゃねぇ!」
 「黒崎先生を倒しやがって」


 勝利したものの、極真会の師範代が敗れたのだ、勝利の味は複雑な物だった。 控室には在留日本人が殺到し、勝利を讃えたが一行の気分は晴れなかった。
 藤平と中村は、宿舎に戻りダメージが抜けず床に伏せっている黒崎の元に訪れ正座し、身を粉にして今回の遠征に尽力を尽くした黒崎へ礼を述べた。

 「先生のおかげで無事試合を終わることができました。 本当にありがとうございました」

 黒崎は2人の言葉を聞きながら涙を流し、「わかった、よくやった」と2人に告げた。 残りの心配事は帰国後である。 師範代が敗れたーこれをどう会長の大山に告げれば良いのか。 2-1で勝ちはしたものの、黒崎破れるーの報は恐らくは野口より大山の元に伝えられていた。 この時に黒崎を庇う為に野口が伝えたのか、それとも大山がそう思い込んだのか、大山道場ではこう伝えられていた様だ。

神村  あとで、黒崎先生が試合じゃなくてコーチで行ってたのが分かったんだ。(中略) 親指にバイ菌が入って練習もろくに出来なかったと。 それ以上に、コーチ役だからタイの酒を飲んでて練習もしてない。 でも2対2では対抗戦にならないからダメだって野口さんがもう一人、というんで仕方なくやったと。
 だけど急にやったら血尿は出るわ、親指に菌が入って膿んじゃってという状況で戦ったと。


 この話は後に中村を、そして黒崎を悩ます要因となる。

 一行が帰国すると、大山倍達と妻の置八子(後に智弥子と改名)や極真の門下生が羽田に出迎えた。 黒崎の敗北が信じられなかった者もいたが、包帯を巻いてタラップを降りる黒崎の姿を見て実感した。
 中村は黒崎がどれだけ2人の為に時間を割いて面倒を見、いかに勇敢に闘ったかを羽田からのタクシーの中で置八子に説いた。 しかし中村によれば、大山の黒崎に対する心証は悪かったのだという。 泰彦の記憶と重ねるならば、大山の怒りはこの2点にあったのでは無かろうか。 1つは試合をするなという命令を聞かなかった事、そしてもう1つは選手じゃなかったから酒を飲んで稽古をしてなかったという噂。 思うに、黒崎を気遣った事全てが裏目に出てしまった感がある。
 中村の著書「人間空手」によれば他流試合に対して大山のねぎらいの言葉も無かったというが、慰労会は開かれている。 黒崎がサングラスを掛けているのは、恐らく目に青タンが出来ていたからであろう。

極真VSムエタイ8.jpg
焼肉屋で慰労会

 2月23日、「日刊スポーツ」は黒崎の元を訪れ、話を聞いた。 黒崎は左目の下を3針縫い、右目を青タンで腫らしながら答えた。

極真VSムエタイ15.jpg
空手の勝利を伝える記事

 「私は負けました。 しかしふたりは勝ってくれました。 これで空手の面目だけは保つことができました。 言いわけめくが、私は目方が二貫目(7.50キロ)も減ってベスト・コンディションでなかった。 空手の面目、道場のメンツ、そして試合のことを考えると、ろくに寝ることもできなかった。 精神的にまいったんですね」
 「離れては勝負はつかない。 けりでは、まず致命的な打撃は与えられない。 組みついてなぐる以外には相手を倒す方法はない」
 「今後のことは、どうなるかわからない。 この試合を手がけたタイのボクシング・プロモーターのコール・ブンラット氏と、野口修氏(野口ジム代表)の両氏は、いろいろと計画を立てているようだが…。 私個人の考えだが、試合方法に合ったトレーニングをみっちり半年ぐらいやれば、六階級のチャンピオンを相手にして、半分は勝てると思う。 批判されることは知っているが、空手が国際的なスポーツとして生きるためにはこうした他流試合もやむを得ないんじゃないでしょうか。 この次は私はフランスに古来からある格闘術と他流試合をやりたい」


 その後の遠征組はこの様に過ごした。
 中村は野口にボクシングをやらないかと誘われたがこれを断り、大学卒業後は極真会の職員となった。 66年にはアメリカに指導員として旅立つ。

極真VSムエタイ9.jpg
中村のアメリカ派遣

 藤平はムエタイを知り、空手に対して自信を喪失する。 道場内の稽古だけでは本当の意味での倒し合いはやれない、その意味での実戦性はムエタイに劣るー。 半年近く道場に通わず悩んだ藤平は、ボクシングで倒し合いを学ぼうとヨネクラジムに入門。 プロボクサーとなり最終的には11戦10勝1敗という成果を残したところでオランダに行く黒崎に呼び出され、ボクシング生活に終止符を打つ。
 黒崎は従来通り大山の手となり足となり、そして成増道場の責任者として日々を過ごし、66年2月にオランダへの空手指導で後を藤平に託し、日本を離れる。
 そして極真にはそれまであまり使われる事の無かった背足による回し蹴りが増えた。 この蹴り方の浸透が当時最大の技術革命だったのでは無かろうか。 そして黒崎を仕留めた肘。 打ち下ろしの肘の方が使用される機会が多かったが、これを気に使い方の幅が広がった。 道場では度々、新野が撮影した8ミリの上映会が行われ、まだ拙劣ながらも、ムエタイ技術のフィードバックが行われた。

大山道場グローブ組手2.jpg
グローブ組手も研究された

 この前後する時期には、大山道場や新設された本部ビルの地下道場にタイ人を呼び、サンドバッグを蹴らせていたという。 しかしこの時はまだ臑で蹴る回し蹴りは理解されず、殆ど使われなかった。 また、ローキックが使われる様になったという説も聞くが、これはキックボクシングの中継が始まってからの話である。 これらフィードバックされた技術を行使していた芦原英幸は、この映像を熱心に見て自身の技術へと取り込んだのかも知れない。

 賛否両論あったこの他流試合、野口は新野の8ミリを日本に持ち帰っており、これをコピーして方々の空手道場やテレビ局に「タイ拳とはこういうものだ」と、配り「キック・ボクシング」という新競技を始める為に売り込んだ。 残念ながらこれに答えた道場もテレビ局も無かったが、元々交流のあった山田の日本拳法空手道と極真会は、野口の提案に乗り、「キック・ボクシング」を立ち上げ、早ければ同年5月中旬には東京、名古屋、大阪といった大都市での興行を企画していた。
 山田はこの計画について、

 「現代の空手は、全く仮想のものであって、一人でやるものにすぎないのです。 古武道の伝統といっても、座って修養するような武道は武道でも何でもありません。 現在の空手は、型の提示や徒手体操の変形にすぎません。 それはそれで、保健運動として広く青少年に普及されて行くことはよいのですが、それは武道というものとは自ら別の世界でなければなりません。 しかし、私は、真の空手とはそんなものでないということを大衆に理解してもらうためにこの道四十年も苦労して来たのですが、私の周りは四面楚歌。 結局、プロ化して人々の支持を掴む以外方法がないということで、今度の野口氏の相談に応じたわけです」

 と語り、大山はこう語った。

 「空手は、近代スポーツとして脱皮しなければなりません。 現在のようなものでは、いずれあきられるでしょう。 しかも大衆にアピールするスポーツにするため最も手っとり早い方法は、外人と試合すること。 そして必ず勝つことです。 プロボクシングの人気が下ったのは、外人に負けるからだし、プロレスがたとえショー的なものであってもこれだけ人気があるのは、外国の大男を日本人が投げとばすからです。 プロ・スポーツは、国際試合をしなければうそですよ」

 三者共に意欲を持っていたが、結局この協業は上手く行かなかった。 理由は不明だが、大山は同年10月に移転する予定の本部ビル着工に向けて資金面でも苦労していたのがあるかも知れないし、前述した通り、「日本キックファイト協会」なるものを設立した事から考えると、組織内での主導権問題があったのかも分からない。
 野口は諦めず、65年には後に"キックの鬼"として日本プロスポーツ界の大スターとなる沢村忠をスカウトし、66年1月に日本キックボクシング協会を設立、4月には最初の興行を行う。

極真VSムエタイ16.jpg
沢村忠

 大山も負けじと同年には日本キックファイト協会を設立、もしくは設立しようと、黒崎の成増道場を拠点とし、タイ式ボクシング専門家養成所と指定した。 黒崎と中村が帰国すれば66年の秋には立ち上げる予定だった様だ。 この為、成増道場に入門した門下生はグローブルールの組手を経験している。
 しかし、この計画は遅れに遅れ、68年に極真門下の神村栄一が協同ジムに就職し、日本テレビでもキックボクシングの試合が放送され、同じく極真門下の廬山初雄と岩見弘孝が同ジムよりキックデビュー、次々と極真門下生がキックに参戦し、藤平もまた離脱する。 極真門下の駆け込み寺の様になった協同ジムに赴いて交渉した黒崎は、門下生を引き留められなかった件に責任を取るかの様に69年初頭、極真会館を退会して目白ジムを設立する。 その後の黒崎の名伯楽振りは良く知られている。
 そして1978年、愛弟子の藤原敏男がモンサワン・ルークチェンマイにKO勝ちをし、ラジャダムナン・ライト級王座を獲得してムエタイ史上初の外国人王者となり、黒崎は10年来のリベンジを果たした。

極真VSムエタイ17.jpg
藤原敏男

 この遠征を企画した野口はこう当時を振り返る。

 実現まではいろいろ問題はあったけど、大山先生は約束を守られて対戦を実現したわけです。 特に黒崎師範は武道家らしく、いま思い出しても立派でしたよ。 選手をよくまとめてくれました。

(了)


 という事で…終わったー。
 実はこの記事を書き終えた今日は2月11日。 つまり50年前の明日が極真とムエタイの試合だったのです。 企画してたのが去年の春くらいで、来年書こうと思ってたのでヨカッタ、ヨカッタw
 殆どが既出の話の筈ですが…こうやって各関係者の話を時系列に並べる事で、見えて来る物もあったんじゃないでしょうか。 私も久々に時系列に並べる事の大切さを知りました。 やっぱり文章に起こした方が考えが纏まりますね。
 そして長々とあった事全てを詰め込みたいという私のスタンスから、自分でも気付かなかった事なんかも出て来て面白かったです。
 無論、今回解いてみた中村忠先生の大山倍達総裁に対する疑念の誤解は、私が状況から組み立てた推測に過ぎませんが、こうであったらな、という思いも当然含まれていますw
 それから…黒崎健時先生の「突然試合に出る事になった」、「ムエタイという格闘技を見せる為に先発を買って出た」は、書いた通り、全否定させて頂きました。 済みません。 ソースは忠先生の「人間空手」と当時の「日刊スポーツ」の新聞記事です。
 でも面白いのは、黒崎先生は今でも根に持たれている様で、こんな風に語ってます。

 …今まではあの野郎、負け惜しみ言いやがってと陰口をたたかれるのがシャクで黙ってたんだが、これだけの年月もたった事だし、もういいだろう。 (身を乗り出して) 本当に自分のスタイルで試合をやってたら、1分も相手を立たせちゃいなかったよ。 中に入って投げて絞めちゃえばおしまいだったんだから。

 まぁ、映像を見る限り、最初のテイクダウンで上を取って、拳を構えてましたから、確かに喧嘩なら勝てたかも知れませんね。 でも不利だろうと何だろうと、あのルールで受けちゃった以上は仕方無いですよね。
 前にも書きましたが、今出回っている映像の内、黒崎先生の試合はタイのテレビ局が撮影した物で、藤原敏男先生の特集?をタイで放送した時にその師という事で再放送された物だと思います。 それを「ゴング格闘技」の舟木昭太郎さんが入手したんでしょう。 その為、この映像だけ先発で市販されたのだと考えられます。 モノクロなのに青いテレビ局のロゴ?が入ってるのがその証拠w
 んで、藤平昭雄先生の映像は…大山道場の映像とセットで野口修さんがテレビ局に持ち込んだ映像じゃないかな、と思います。 こちらがリング下で撮影していた日系タイ人の新野さんの8ミリで、大山道場で見ていたのはこちらの映像。 なので大山道場生が黒崎先生の映像を見て「記憶と違う気がする」というのは、当然の事で、バージョンが違ったのでしょう。 忠先生の映像は未発掘で、大山家でもこの8ミリは見付かって無いと何年も前に聞きましたが、少なくともキックボクシングが始まった頃に杉並ジムにあったのは確認されています。 今後完全版が見付かる事を期待したいですね。

 後…凄い穿った見方をしますね。 この団体戦では○×○という形で極真側が勝利しています。 ご存じの通り、ムエタイには賭けがありますよね。 賭け事として見た場合、ムエタイ側が全員チャンピオンクラスを用意したら、これはもう賭け事なんか成立しない訳です。 タイ人からすれば横綱に幕下に入るかどうかも分からない外国人が挑むという構図ですから。 じゃあこれをどうやって賭け事として成立させるか、1つはメディアによる強者アピール。

極真VSムエタイ3.jpg
「日本人を墓場へ!」と書いてあるらしい

 実際試合前にムエタイ専門誌で表紙を飾ったりと、結構な扱いをされています。 そして、ナショナリズムを煽る「日本人を墓場へ!」と書かれていたらしいポスターで動員し、当のタイ人ですらよく知らない選手を当てる事で、賭けの倍率をコントロール。 しかし負けるとしても全敗は避けたい。 ならば確実に勝てるであろうラウィー・デーチャチャイを2戦目に出す事で、1戦目で勝ったら勝ったで仕方ないとして、負けたら3戦目は沸騰するーこんな考えがマッチメーカーにあったんじゃないかなぁと。
 無論、勝った忠先生と藤平先生の相手が弱かったとは言いませんし、負け越した以上は出したムエタイ側の責任な訳で、この事実が覆る事はありませんが、少なくともランカークラスの選手では無かったのは事実です。 が、賭けの対象として扱われるムエタイでは、勝負に関して少しフィルターが掛かる事があり、マッチメイクのアンバランス差には違和感を感じます。

 今回はここまで。 それでは、また。


参考文献:
日刊スポーツ 1/14、2/24 1964年
週刊現代 1964年4/23号 講談社 1964年
週刊大衆 1964年10/8号 双葉社 1964年
ゴング格闘技 1992年10月号 日本スポーツ出版社 1992年
月刊フルコンタクトKARATE 1992年11月号 福昌堂 1992年
月刊フルコンタクトKARATE 1996年4月号 福昌堂 1996年 
月刊フルコンタクトKARATE 1月号別冊 大山倍達と極真の強者たち 福昌堂 1999年
ゴング格闘技11月号増刊 空手に愛をこめて。 Karate & Karate 日本スポーツ出版社 1999年
NIPPON SPORTS MOOK 27 蘇る伝説「大山道場」読本 日本スポーツ出版社 2000年
月刊フルコンタクトKARATE 4月号別冊 空手バカ一代たちの伝説 青春大山道場 福昌堂 2000年
キックボクシング入門 〜平凡な日常にキック・ユア・アス!〜 ベースボール・マガジン社 2004年
必死の力・必死の心 黒崎健時著 スポーツライフ社 1979年
闘いの中で スポーツライフ社編 スポーツライフ社 1983年
小さな巨人ー大沢昇伝 松永倫直著 スポーツライフ社 1986年
人間空手 中村忠著 主婦の友社 1988年
わが師 大山倍達 高木薫著 徳間書店 1990年
"キックの鬼"沢村忠伝説 真空飛び膝蹴りの真実 加部究著 文春ネスコ 2001年
サムライへの伝言 黒崎健時著 文芸社 2004年
トップに立てるワル 下っ端で終わるサル 桂歌蔵編 東邦出版 2005年

参考映像:
「ムエタイ名勝負大全集第2巻 大いなる挑戦!」 日本スポーツ映像株式会社
「実録! 大山道場&黒崎健時」 UPPER

参考リンク:
国際大山空手連盟 エッセイ 汗馬の嘶き 第13話「ムエンタイ、キックボクシング」 (2/11/2014)

関連リンク:
【古記事】「タイ式拳法 日本に上陸」(1964年)
幻の極真ジム 1(1969年)
極真カラテのレア映像(表)







東京・池袋の武道具専門店 ブドウショップ



フレッツ光で最大106,000円キャッシュバック実施中!





コメント
極真会対ムエタイ、この対決がなければ、日本でキックボクシングは生まれてなかったのかな?と思います。
 
私が、空手バカ一代で極真空手を知った時には、既にローキックや背足廻し蹴りは大会等で使われてましたね。

伝統派空手では、廻し蹴りは中足で蹴れと五月蝿く指導してましたね。

蛇足ですが、昭和43年頃には私の親戚が伊豆でキックボクシングのジムをやっていました。

野口会長が主催する日本キックボクシング協会に所属していましたね。

親戚の経営するジムの選手が、岐阜(私の故郷)の興行で、沢村忠選手に負けた試合を父と一緒に観戦した記憶がありま。
  • tokibudo
  • 2014/02/12 4:34 PM
>tokibudoさん

キックボクシングが日の目を見たかどうかは何とも言えませんが、少なくとも設立が遅れるという事態にはなったんじゃないかと思います。
野口さんが自信を持ったのはこの対決かららしいので。

背足の回し蹴りは、どちらも怪我が少なくなるという点で、ムエタイとの対戦以降、流行ったようです。 ローキックは記事にある通り、キックが始まってからですね。 伝統系で良く言われていた様に、当時はさほど脅威に感じられなかったんじゃないでしょうか。

キックも団体の分裂が多く、プロしか無かったので、ブームが過ぎちゃうと経営は大変だったでしょうねぇ。
そういう点では、新空手の様に空手道場と併設しているのは、今見ても賢いやり方だなぁと思ってます。
  • Leo
  • 2014/02/12 9:56 PM
わたしの米国の親族が遊びに来た時に丁度沢村忠氏のキックボクシング放映がされてまして、当時釘付で観ておりました。親族曰く「あれ?なんで今日本のボクシングが蹴りOKなの、いつなったの?」としつこく尋ねられた記憶があります。

あの沢村忠氏の10カウント引退試合には涙しました。

今はメジロジムがオランダ発祥のように東洋人が勝てないようになったとは、残念ですが、その分、黒崎先生の貢献が偉大であった現代の証明でもあります。万一、今尚、ムエタイがタイ国から世に出ていなければ、そういう選手はおろか、K-1なども存在していなかったのでは? 黒崎先生はいろいろな意味で怖い方です。近づきたいとは思いません、秒殺されます。
  • 壮年部
  • 2014/02/12 11:51 PM
沢村忠のリングネームの由来、中村忠からとったとよく言われて
ますが、号数と具体的内容はすぐ見つからないですが
雑誌「フルコンタクト空手」の沢村忠特集では違うような事が
書かれていました。
中村忠引用説とは明言してないですが、「我田引水的」な説もあるが、違う
という表現でした。
まあー、どちら正しいかは当人だけしかわからないですが。
  • オールドキックファン
  • 2014/02/13 12:34 PM
>壮年部さん

アメリカでは途中からTBSキックの放送があったので、もう少し後なら親族の方もご覧になられたかも知れませんねぇ。
あぁでもローカル局っぽいから無理かも。

ムエタイがアメリカで興行を行う、という話も過去にはちょろちょろありましたけど、先陣を切ったのは日本ですからねぇ。
ちなみに私は黒崎先生のご近所で、歩いて5分掛かるか、というとこに住んでますw
偶にゴン格の舟木さんとか通らないかな、と思ったりしますが、多分私の出勤時間に噛み合う事は無いでしょうw

>オールドキックファンさん

白紙の対戦表を持った野口さんが「沢村忠」と読み上げたという話ですよね。
大抵のリングネームは本名をもじったのが多いので、全くかすりもしない名前なだけに、色々と説も出るでしょうけど、ゼロからの発想というのも難しいので、中村忠先生がひょっとしたら頭の片隅にあったのかな、という気もしますw

あやかって、というのとはちょっと違うんでしょうけど、ふと思い浮かんで、みたいなw
人間の行動には全て理由がある訳でも無いですし、ふと思い浮かんじゃったんだから本人でも説明出来ない、という説をむしろ推奨したくw
  • Leo
  • 2014/02/15 11:01 AM
返信ありがとうございました。
なるほどと思います。
ところでタイ遠征から日本でキック成立まで野口氏と大山総裁、黒崎
先生は三者共いろんな思惑、対抗意識etc.があったような気がします。
NET KICK発足時、添野氏がデビュー戦でカナンパイに判定負け
した時の日刊スポーツの記事だと野口氏は「NET KICKの選手、大した
奴いないね」「カナンパイが勝って当然」と言ったような
コメントしてましたね。
その後山崎氏がカナンパイ、サマンソーを一蹴した時は
大山総裁は意気軒昂の発言しているようで。
多分お互い対抗意識みたいなものがあった気がしますが。
その後、確かS48年頃日本系(TBS)と全日本系(12CH)が初の交流マッチした
時、日本系の圧勝に終わった時(藤原敏男以外の島光雄ら目白ジムの選手
がko負けetc)は黒崎氏は憮然としたあっけにとられたような
雰囲気だったとゴングに記載されたりしてました。
  • オールドキックファン
  • 2014/02/17 12:45 AM
>オールドキックファンさん

でもやっぱNET系発足時に野口さんが色々動いてる気がするんですよねぇ。
極真ジム参入の時には野口さんが同席していたそうですし、参加ジム選定はTBSが放映していた国際プロレスの道場、そしてTBSに上がってたタイ人の移籍。
今回記事を書いていて、あまり気にしてなかった事だったんですが、野口さんは元々NETのボクシング番組向けに外国人選手を探して来るプロモータだったというのを含むと、キックの放送が始まってからもNETと付き合いがあったのかなぁと思いました。
互いに対抗意識はあったと思いますが、自流の空手大会が出来てからは同じ土俵で競い合うという感じじゃ無くなったのかな、極真ブームの方がキックボクシングブームより後ですから、野口さんは思ったほど対抗意識は無かったかも知れませんね。

極真ジム時代、大山総裁は杉並ジムを意識してたみたいですが、目白ジムは城東ジムとライバル関係にあったと聞きました。
でも、一番の目標は目黒ジムだったでしょうから、対抗戦はさぞかしショックだった事でしょうw
  • Leo
  • 2014/02/17 11:26 PM
なんの関係もありませんが、いつか借力の力抜山のことも取り上げて下さい。
  • やいや 
  • 2014/02/18 4:54 AM
黒崎師範の試合映像タイのTV局からのコピーとの
ことですが、大沢、中村氏の試合映像はタイのTV局
にも無いのでしょうか。
大沢氏の試合映像も少しのシーンしか放映されてなく
残念です。
フィルムが劣化したのでしょうか
  • オールドキックファン
  • 2014/02/19 8:54 PM
>やいやさん

ネタにしかならないですけど、その内やろうかと思ってますw
大山総裁の帯コメントと「月刊パワー空手」の否定コメントをセットでw

>オールドキックファンさん

タイに残ってるかも知れませんし、残ってないかも知れません。
あくまでも藤原敏男特集の一環として、師のタイでの試合が流れた、というのが「大いなる挑戦!」収録の映像だと思われますので。

探せばあるんじゃないですかねぇ。
  • Leo
  • 2014/02/24 12:58 PM
何か極真の古いビデオを検索していたところ、ロシアかどこかの道場が芦原師のDVDからリッピングした(?)のがアップされてました。音声悪いけど、おもしろい。https://www.youtube.com/watch?v=m7d9SEGz6wA
  • 壮年部
  • 2014/02/26 11:05 PM
壮年部さま。貴重な映像ありがとうございます。
空手の口伝技術映像は
無形文化財ものと思います。
感謝です。
  • tama
  • 2014/02/27 8:49 PM
>壮年部さん、tamaさん

ありがとうございます。

80年代になると、ホームビデオが普及し始めるので、映像が残ってて良いですよねぇ。
極真でも総本部は少ないですが、早くから試合の研究をしていた城西だと、割と古い映像がありますし。
  • Leo
  • 2014/03/08 12:24 PM
極真対ムエタイ

 それぞれの運命が変えた出来事。


ムエタイとの闘いで空手の技術の限界感じ、黒崎、藤平(大沢)両氏は、空手を捨て、キックに、中村氏は、渡米後、人間空手形成のため、誠道塾空手を設立。 

 最悪なのは、泰彦、岡田両氏がキャンセルしたため、最高師範黒崎氏が出場することになった。
しかしこれが、「タイに着いたら黒崎氏の名前があった。」 
 「中村、藤平にムエタイの技術をみせるため、黒崎氏が先鋒にでた。」
 (藤平から観たらそれは、正しい)

「藤平は、正攻法でなく、頭突きでムエタイをたおした。」

 「中村氏の闘ったのは、引退したムエタイ選手」

という逸話ができてしまった。


泰彦、岡田両氏も試合日程を何回も延期され、ちやんと、理由を云ってじたいしたにもかかわらず、後に、「あの2人は、ムエタイから逃げた」と、臆病者のレッテルをはられ、引きずっていく。

しかも、日程をのばした張本人野口修から「あの2人は、怖くて、ムエタイから逃げた」といわれる始末。
 泰彦氏からみたら、「おまえが、日程を何回も延期するから試合を、辞退したんだろッ!」と、云いたかったかもしれない。

しかも、フルコンで野口氏は、「黒崎、中村、藤平、は、よくやってくれた」・・みたいな言葉で称えたつもりでも、泰彦、岡田両氏からみたら、「お前、何モンやねんッ!オレらのセンセイかいッ!!

   ・・とっ云ったかどうか定かでないが、

 「あの黒崎師範の前で呼び捨てで云ってみろッ!」 とっ思ったかもしれない。

 野口対黒崎は、キックの交流マッチにかわり、

黒崎の弟子 ムエタイ王者クラスを破った、島、大手が、KOでやぶれた。

 (この試合、投げ、頭突き、ありの日本系ルール、リング)

 自分の弟子が己が闘ったルールでKOで破れた。


 複雑なおもいであろう。

蛇足だが黒崎氏は、ラウィー?以外にムエタイと闘った説があるが、事実でしょうか?
  • プット・ローレックス
  • 2014/05/24 5:15 PM
>プット・ローレックスさん

黒崎先生のその説は知りませんが、いつ頃、どこで、が分からないので、何とも言えませんねぇ。
  • Leo
  • 2014/06/07 2:53 PM
田中清玄がムエタイVS空手を企画したという話に興味津々です。楽しみに待ってます!
  • すぱ
  • 2014/06/15 1:19 AM
>すぱさん

いや「田中清玄自伝」という対談しながら半生を語る本があるんですが、そこに載っている程度のネタですよw
大した事は載っていません。
  • Leo
  • 2014/06/22 8:14 PM
コメントする








   
この記事のトラックバックURL
トラックバック