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大山倍達マニアック検定

森川哲郎著「武道日本」より「秘剣馬庭念流」

JUGEMテーマ:格闘技全般
 

 さて、たまにやってる森川哲郎先生の対談ネタ、これをやろうかなと。
 今回は「武道日本」(中)に掲載された「秘剣馬庭念流」を紹介します。 多分1964年の「剣豪列伝集」に掲載された記事でしょうね。
 馬庭念流と言えば、司馬遼太郎の千葉周作の生涯を描いた「北斗の人」に登場したのが一番有名な気がするんですが、同書を読んだのも随分昔なので、ちょっと曖昧ですw 個人的には北辰一刀流にとって最大のライバル的なイメージがあるのですが、多分に過去に読んだ本の傾向ゆえに、ですw 詳しくは本編を。
 それでは、どうぞ。

念流1.jpg

出席者:
馬庭念流二十四世    樋口昇
馬庭念流保存会会長    宮沢二郎
師範代            松本五郎
師範代            春山力
師範代            樋口滝蔵
師範代            松本正男




寛永御前試合

 馬庭念流といえばすぐ思い出すことは、寛永御前試合であろう。
 千代田城吹上で行われた、剣道史上特筆すべき行事、将軍家御前試合!
 その中で、後世まで最も語り伝えられる花形になったのは、樋口十郎左衛門であった。
 甲州の住人中条五兵衛と立ちあって、みごと、その極意を打ち破った名剣は、後に講談や、小説になって、現代にまで語り伝えられている。
 それほど、馬庭念流の剣道史上における地位は大きい。
 樋口家は、木曾義仲の四天王樋口次郎兼光の直系である。
 樋口次郎といえば、巴御前の兄で木曾源氏の中で、最も武勇絶倫を謳われ、平家をおびやかした猛将であった。
 その剛勇の血を引き、念和尚の創始した念流を受けつぎ、上州馬庭に土着して後、世に馬庭念流と呼びならわされるようになったのである。
 馬庭といえば、都会とは遠く隔った全くのへき村であった。
 樋口家は、奢侈になれ、技を売るのでは、真の剣は磨かれないという鉄則のもとに、代々自ら鋤鍬をとって、汗しながら、その剣を磨きつづけたのである。
 だからその城郭のような屋敷、道場を中心に、近郷在住の百姓は争って入門し、また名声を慕って、各藩の子弟がおしかけたので、江戸時代の盛時は、実に門弟の数万をこえたという。
 赤穂義士で有名な堀部安兵衛も、中山姓の時代、この門で修業をはげんでいる。
 いまも、そのままその屋敷に住み、道場の位置も昔と変っていない。
 最近、各流の中に、偽の系図を作り、直系を詐称する者があると聞くが、樋口家だけでは、正真正銘の直系であることを自他ともに誇っている。
 そのために、その屋敷や門などは、県の文化財に指定され、史料保存のための策も講ぜられている。

(中略)

念流の無構え

    森川    樋口十郎左衛門の里、念流の本拠にきて、感慨無量なのですが…。

 (中略)
 一度どうしてもこの里にきて、この名流の史実を探求し、秘剣を詳しく調べて見たいと思っていたのです。
 念流といえば、すぐ有名な無構えを思いだすのです。
 敵の刃に刃を合せないで、瞬時に相手を斬る秘剣、また矢を切り払う矢留めの極意などが頭に浮かんでくるのですが、
 念流の無構えというのは、さっきも拝見しましたが、刀の先を右斜め下に引いて、体をあけ放しにしておく。
 その上、体をぐっと前にかがめている。
 これは、普通にみるとまるで、剣の原理に外れた無謀の構えのように見えますが、この剣の極意は、どういうところにあるのでしょう。

念流2.jpg
二十四世樋口定広

    松本    これは、念流のいわゆる肉を切らせて骨を斬る剣法の秘訣なのですね。
 念流の根本は、足の構えにあります。 この構えの時も、足を充分前に踏み開いている。
 そして上体をぐっと前にかがめるのです。
 その上、剣を右斜め下に引く。
 こうなると、体はあけ放しのようですが、当然相手の太刀は、こちらの面を狙ってくる。
 それ以外にありません。 胴はかがめてあるから狙えない。 小手を狙えばすぐ切り返されます。 必ず面にくる。 それを待ってから変るのです。
 それも相手の剣が六分まできた時、あと四分の刹那に変らなければならない。
 これが、念流の秘剣です。
 かがめていた頭をうしろにそらす。 もちろん同時に前に踏み出していた足も後方に引く。 その間三尺の間隙は充分あります。
 相手の切尖は、こちらの頭上寸前で流れる。 その瞬間を、こちらが、上段に変わって、打ち下すのです。 相手は一太刀で、唐竹割りです。
 念流の剣は、決してこちらから仕かけない。 殺人剣ではありませんから、相手に斬らせて変り、斬る。 ただの一太刀で、相手の命をしとめる。
 決して、二太刀を用いない。 一刀で斬り殺していなければならない。 それが、また残酷でないとされる所以です。
    樋口昇    伝書の念流兵法心得に、「無構は左にあらず、無刀の位なり。 無刀にても気に絶間なければ、敵を打つ時、必ず間に合うものなり。 考へて修行あるべし」とあります。
 無刀の位、それが本当の無構えの意味なのですね。
    森川    念流という言葉は、どこから生まれたものでしょう。
    樋口昇    奥州相馬の住人で、相馬四郎義元という人が苦心して修行の結果、剣の一流を編み出したのです。
 慶安元年のことでした。 後に相馬義元は信州伊那群波合にきて、一寺建立して、自分がそこの和尚になったのですね。
 僧名を念和尚と呼んだわけです。 後世それに大をつけて念大和尚と呼びならわすようになりましたが、念和尚が創始した剣道であるからというので、世にこれを念流と称したのです。
    森川    なるほど、念流の語源は分かりました。 しかし、念和尚の創始した剣道が、どうして樋口家に伝わったのですか?
    樋口昇    相馬義元には、坂東八人、京に六人、合計十四人の傑出した弟子がいたのです。 この中の一人が、樋口兼重といって、樋口家の祖先の一人だったわけです。
 しかし正確に樋口家が、念流の系統をついだのは、八世からです。
    森川    八世というと、樋口又七郎定次ですね。
    樋口    そうです。 彼が世に念流中興の祖といわれていますが、前にその比を見ない天才だったのです。 樋口次郎兼光を初代の樋口家の祖として、八世ですね。
    森川    寛永御前試合の十郎兵衛、一般に十郎右衛門などといわれていますが、樋口家の系図では十郎兵衛になっていますね。 どちらが正しいのですか?
    樋口昇    通称十郎右衛門、代々これを名のっていますが、十郎兵衛が、正しいのです。 寛永十一年九月二十一日、三代将軍徳川家光が全国の剣士を集め、吹上にて御前試合を行った。
 この時召されて、甲州の郷士中条五兵衛と手を合わせたわけです。
 この試合は鎧を着て、それを貫かせたので、鎧勝負と呼ばれたのです。
 これは、後に俗説であって、信ずるに足りないという史家もいますが、樋口家の伝書にはちゃんと残っているのです。

(中略)

念流のはじめ

    森川    念流の始祖念和尚というのは、新田義貞の家臣だったと聞きましたが、そうでしょうか。

念流5.jpg

    春山    いや、念和尚の父の四郎左衛門忠実が、新田義貞の家臣だったのです。
 奥羽相馬出で、無類の強弓の名人でした。
 義貞とともに転戦し、多くの功労も立てましたが、友人に計られて殺害されたのです。
 この時念和尚相馬義元は、五才でした。 乳母のふところにいだかれて、難を武州に避け、潜伏すること二年。
 七才の時、乳母が、亡父追善供養のため、相州藤沢に連れて行き、遊行上人の弟子として、念阿弥という名をつけられたのです。
 この時、念阿弥は決心した。
 『亡父の冥福追善は、仇を討ち、修羅の妄執を晴すこと以外にない』
 そこで、ひそかに兵法、剣術の修行に精魂打ち込んだのです。
 十才の時、洛外鞍馬寺におもむいて、異人にあい、剣の妙技を授かったといいますが、外国人でも亡命してきていたのでしょうか?
 十六才になって、鎌倉寿福禅寺で、僧から兵法の秘伝を受け、十八才の時、筑紫安楽寺で、夢中に剣術兵法の奥旨を感得したといいます。
 全国を剣の修行をしながら、行脚していたわけですね。
 時に、慶安元年五月上旬のことだったといいます。 いまを去る六百年近い昔のことですね。
 その後ひそかに奥州相馬に帰り、自ら元服して相馬四郎義元と称したのです。
 亡父の復讐をとげ、その首級を霊前に供し、喪に入ること三年、家は弟に譲り、再び禅門に入って、名を慈恩と改め、諸国を行脚しながら、その奥技を伝授したのです。
 晩年は、信州伊那にこもり、波合に一浄舎を建立して、長福寺と命名、摩利支尊天を安置して、本尊とし、自ら念和尚と称したのですね。
 後世の人は念大和尚と呼んでいます。
 応永十五年五月中旬、五十八才の若さで死にました。
    樋口滝蔵    念流という名称も、種々変転してそこに落ちついたのです。
 相馬義元が、はじめ鞍馬で剣を修めたので、奥山念流、または判官流ともいい、また鎌倉で修業したので、鎌倉念流ともいったのです。
 この二流が後世に伝わって、分流した形になったものを、飯篠長威斎が、合せて、神道流をとなえたともいいます。

村上天流との果しあい!

    森川    念流中興の祖樋口又七郎定次も天才として、有名な剣客ですが、少し又七郎の話を聞かせて下さい。

念流3.jpg
馬庭念流の防具

    宮沢    又七郎で有名な話は、天道流の達人村上天流との果しあいでしょう。
 慶長年間のことでした。
 高崎城下で、天道流と称する剣を指南する剣客がいました。 常陸の人です。
 なるほどなかなかの名剣士で、その門人の数も多く、大変盛んであった。
 ある時、その門人が、定次の門人と師の長短を論じて、争った。
 つかみあいそうな形勢になったので、定次は、門人をいましめた。
 『決して、身をつつしんで、軽挙妄動してはならない』
 だが、いきり立った門人たちは、ひそかに相談して、一同そろって破門を申し入れた。
 その胸中は、打ちそろって天流の道場に斬り込み、師の恥をそそごうというものだった。
 定次は、事を好まなかったが、
 『いまは、これまで』
 と決心して、天道流の挑戦に応じたのです。
 場所は、鳥川の畔でした。
 果しあいの場所は、青竹で、垣を作り、門人といえども入ることを禁じた。
 高崎城主は、役人を派遣して、その四方をものものしく警固して、取しまったのです。
 又七郎と天流は悠々として、悪びれず、場内に入って、黙礼をした。
 互いに剣を正眼に構えた。 しかし、両方ともウノ毛で突いたほどの隙も見いだせない。
 そのまま大地から根が生えたように動かないのです。
 村上天流は、しだいに汗をびっしょりふきだし、又七郎は蒼白になってきた。
 一瞬、天流は、どのような隙を見いだしたのか、裂帛の気合いをかけて、おどりこんだ。
 あっと門人が顔を掩った時、とび交して定次の袖が、三、四寸斬り裂かれた。
 『仕損じたり』
 天流、歯をかみ鳴らして、剣を引いた。
 それから激しく斬り結んだが、容易に勝負が決しなかった。
 が、定次は、相手の肺腑にひびく気合をかけて、村上天流を真向微塵に打ち込んだが、天流あやうく受けたが、又七郎の打ち込む一刀は、千引の岩も打ち割ったほどの妙手ですかrあ、これを支えることができなかった。
 ついにそのまま斬り落とされて、空しく鳥川の露と消えたのです。
 慶長五年三月十五日のことで、いまから三百六十四年前のことです。
 この時用いた木刀は、代々伝えて、現在ももっております。
    森川    定次が、千引の岩を割った妙手というのは、どういう故事ですか?
    宮沢    村上天流との果し合いに望む前のことです。
 村上天流も音に聞こえた名剣士ですから、又七郎定次も、心中ひそかに決するところがあった。
 『天流が平素の挙動から考えると、その手なみのほどは怖るるに足らず。 だが、高崎には多数の門弟がある。 いかなる奸謀あるやもはかり難い。 まず神明の加護を祈ろう』
 と平素信仰していた隣村の山名八幡宮に参詣し、三日三晩斎戒沐浴して、祈願をこめたのです。
 『村上天流の剣、真に自分に優って敗れるならば、やむを得ないが、万一彼詭計をもって我に勝とうとする企てあれば、何とぞ神明の加護をたれたまえ』
 一心不乱、一念をこめて祈りつづけ、
 『この木剣をもって念流の武名を天下にあげさせたまえ、念流の浮沈この試合にかかれり、ねがわくば霊験ありて、村上天流を打ち破らせたまえ』
 ついに満願の日が訪れたのです。 定次は、再び祈りました。
 『神明の加護により、もしも本望を達し得られますならば、この柚杷の木刀をもって、神前にそびゆる大石を打ち割ることができるように、奇瑞を示したまえ』
 大石のもとに立ち、裂帛の気合もろとも、木刀でその大石に切りつけたのです。
 ところが、真に又七郎の祈りが、天に届いたのか、又七郎の剣が優れていたのか、その見上げるばかりの大石が、みごと真二つに割れたのですね。
 この大石は、いまもなお八幡宮大鳥居の前に残っています。 後世これを太刀割り石と呼んだのです。

(中略/「中山安兵衛と念流」、「本間仙五郎との対決」)

掲額騒動

    森川    念流一門が、千葉周作一門と争った有名な騒動がありますね。
    樋口昇    額論のことですね。 こいつは有名な話で、小説や映画では、誤り伝えられたことがありますから、訂正して覚えていて下さい。
 十七世定輝の時でした。 千葉周作が、上州にやってきて、道場を開いたのです。
 当時有名な剣豪のことですから、各地の武道家が発奮し、上州の剣風は活況を呈した。 剣豪が、ぞくぞくと輩出するさまを呈したのです。
 この時、群馬郡にいた千葉周作門下が、伊香保神社に額を奉納しようとした。
 それを聞いて、樋口一門が激昂した。
 『専横の至りである』
 念流代々免許の本間仙五郎、その他門弟一党が、これを阻止しようと、多数走せ集って、伊香保に勢ぞろいし、ついに有名な額論となるのです。
 これは、滝沢馬琴の随筆"兎園双子"の中に、くわしく書かれていますが、これが後に歪曲されて、念流が千葉周作に敗れたような形で映画化された。
 日活でした。
    春山    昭和四年のことでしたね。 私たちはその映画を見て、念流の名誉を傷つけるものだと激昂しました。
 この時の勝負は、決してまけていない。 勝負なしで別れているのです。
 そこで、道場の高弟一同集って日活に抗議申し入れに行ったのです。
 日活では驚愕して、当時としては、大変有名な大騒動になったのですね。 ついにその仲裁役に、黒竜会の頭山満が、登場するという波紋でした。
 ついに手打ちとなって、フイルムは全部回収、これを私たちの眼の前で焼却し、日活からわび証文をとって、ケリがつきました。
 この時、ここにいる高弟たちは、みなおしかけたのですよ。(笑声)
    森川    幕末の掲額騒動が、昭和までもち込まれたわけですね。(笑声)

(中略/「矢留めの術の創造」)

念流4.jpg
矢留

竹刀剣術は剣道ではない

    森川    維新後、多くの剣道古流は、廃れて、その直系が、剣の伝統をこうして伝えているという現象は、全くないほどなのですが、樋口家だけは、堂々と現在も馬庭に剣風を維持している。 驚くべきことですね。
 よほど明治以後の人たちが偉かったのでしょうか?
    樋口昇    それは確かにそうでした。 維新後諸事一新で、武士には廃刀令が出た。
 もう剣術修行どころではない。 主君の扶持をはなれた武士たちは、にわかに生活の道を講じなければならない。
 こうした上体では、いずれ道場もさびれる。
 東京に出て、樋口の剣風を知らせようと、二十世定広が、道場と老母を高弟に托して、東京にとびだしたのです。
 ところが、時の警視庁は、武技の発揚に力を入れてはいたが、これがいわゆる撃剣で、竹刀剣道であった。
 定広の主張する剣術は、採用されなかったのです。
 ところが、明治十四年ごろから、上毛地方一帯に剣道復興の兆があった。
 そのため定広の高弟たちが、しきりに帰郷を促したのです。
 中には、上京してきてまで懇願する者があり、定広は、ついに十五年帰郷したのです。
 この時、新旧門人が集り、出迎えし者四百八十余名におよんだといいます。
 それからわずか百日の間に、千五百名の入門者が殺到したというのです。
 その時、東京を去るに当って、定広は警視総監に一書を呈しているのです。
 『剣術は、心胆を鍛錬するをもって、最大眼目となし、ただ功妙に竹刀を振り廻すも、実地の用をなさず。
 然るに撃剣者流は、竹刀の扱いにのみ応じ、実用に適せざる稽古に、憂き身を寠すは、斯道のため慨嘆の至りなり。
 実用に適せざる撃剣を廃し、これに適する剣術を練習すべし』
 と。
    森川    痛快ですね。 最近このことに気がついて、盛んに主張する人々がふえましたが、さすが樋口家の二十世だけあって、先見の明があったというべきでしょうか?


(中略/「明治以後の剣聖」、「念流の異端児」)

念流の基本


    森川    念流の基本は、どのようなものでしょうか?
    樋口昇    初心者は、まず表五本、裏五本を二、三年徹底的に叩きこみます。
 これで、足の構え、腰のそなえを作るのです。
 表五本というのは、上略、中略、下略、無構、合掌ということになります。
 これは、体の基本をつくるだけの修行ですが、裏五本には、やや技らしきものが入ってきます。
 それから附太刀、長刀、手之裡之事などという風に、しだいに複雑なものに移って行くのです。
 しかし、初の表五本の基本型ができていない以上、何年たっても技は進歩することはありません。
    森川    お忙しい中を、皆様お集まりいただき、面白い話をいろいろ長いこと有がとうございましあ。
 話はなかなかつきませんが、一まず、この辺で、有がとうございました。



 という事で、森川哲郎先生によるインタビュー「秘剣馬庭念流」でした。
 歴史ある流派なだけに、色々と面白い話が出て来ますね。 武勇伝は結構省略して、伝系についての話をメインとしました。
 話にあった太刀割りの石ですが、これは群馬県高崎市の山名八幡宮に現在でも残っている様です。 この辺りに行かれる機会があったら見てみたい史跡ですね。 そう言えば本文中には特に触れてませんでしたが、「南総里見八犬伝」の著者、滝沢馬琴も馬庭念流の門下なんですよね。
 馬庭念流は現在、群馬県高崎市の指定文化財となっており、 600年以上の歴史ある流派として確固たる地位を確立しています。
 今回はここまで。 それでは、また。


参考文献:
武道日本(中) 森川哲郎著 プレス東京 1969年

参考リンク:
念流(通称馬庭念流)  (2014/05/18)








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