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大山倍達マニアック検定

【レビュー?】二宮城光著「静かなる闘志」(1992年)

JUGEMテーマ:空手
 

 さて、今月は腰痛の事もあって、自宅ではあまり机に向かわずに自堕落してました。

 今回はですねぇ、結構昔からやらなきゃなーと思ってた、極真の第10回全日本王者で現在は円心会館館長の二宮城光先生の自伝「静かなる闘志」を紹介します。

静かなる闘志1.jpg

 本書は1991年にアメリカで出版された"My Journey in KARATE"(二宮城光/エド・ゾレンスキー共著)をベースに日本向けに翻訳して福昌堂から92年に出版された、という事になっています。 なので奥付にはちゃんとゾレンスキー氏の版権表記もあります。 確か今は新装版が出てるみたいですが、そっちは未確認なのですが、その後の活動とか増えた支部とか、何か追加されてるかも知れません。

静かなる闘志2.jpg
原著の英語版



 二宮先生と言えば、芦原英幸先生の愛弟子として、非常に有名な方ですね。 「空手バカ一代」に出て来た「二宮」というキャラクターの影響もあって、一番弟子と勘違いされている人もいるかも知れませんが、あちらは愛媛支部最初期の道場である野村支部に入門された二宮博昭先生(現・正道会館)だと言われています。 ですから、「空手バカ一代」本編に二宮城光が初登場した時は一番弟子の二宮と関係無い事を物語る様に、あっさりとした説明しかありません。

静かなる闘志14.jpg

 現役時代から人気のある選手でしたし、芦原先生との師弟関係はよく知られてます。 特に芦原先生がメディアに出なくなって以降はサバキを公開出来る数少ない空手家という事で、福昌堂の雑誌で引っ張りだこでした。 今は芦原会館がオープンになりましたので、それほどは出ませんけど。
さて、本書は芦原先生についても多くのエピソードを紹介しています。 それでは、まず目次から…。

静かなる闘志6.jpg

目次
        感謝の意を記して

        序――闘いの意味――

    1    空手との邂逅

    2    極限への挑戦

    3    新たなる旅立ち

    4    円心会館の理念

        あとがき


 原著の方の目次は…無いんですけど、章立てしてあるのでそれを書き出しますw

ACKNOWLEDGMENTS

PREFACE

1    The JOURNEY
    ONE
    TWO
    THREE
    FOUR
    FIVE

2    Enshin KARATE ThE Inner Circle
    SIX

静かなる闘志3.jpg

3    A MASTER'S REFLECTIONS
    SEVEN

GLOSSARY


 基本的には原著を翻訳し、写真を増やしたのがこの「静かなる闘志」ですが、大きな違いは英語版の2章が日本語版には無いというところですかね。 このパートは技術説明の章なので、自伝と円心会館の理念に絞り込んだのが日本語版と言えるでしょう。 他にもう1箇所、日本語版未収録の部分がありますが、これは後ほど書きます。

 さて、本書は二宮城光先生の本拠地であるデンバーに道場破りがやって来たところから始まります。 芦原英幸先生の教え通り、相手をきっちり倒すのですが、以降、随所に芦原先生の話が出ます。

静かなる闘志10.jpg
 
 二宮先生は1954年生まれ、中学に入ると尊敬する先生と出会い、柔道を始めます。 1年ほどで初段を允許されたそうなので、柔道家としても才能の片鱗を見せていたという事になるでしょうね。 全日本クラスにまでなれたかどうかは分かりませんが、高校時代には四国の新人戦で優勝したそうです。
 芦原先生と出会ったのは1969年頃、八幡浜道場設立の1年ほど前になります。 八幡浜の警察柔道場で運命の出会いを果たしますが、すぐには入門しませんでした。 しかし、ちょうどその頃に兄の徳長氏が買って来た大山倍達総裁の「100万人の空手」に目を通したところ、そこには柔道場にいたあの男――芦原英幸がモデルとして出演していたのです。 当時二宮家には金銭的余裕はありませんでしたが、弟の心境を察した兄が両親に頼み、晴れて入門。 こうして高校の間は空手と柔道の両方を学ぶ事になります。

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「100万人の空手」

 全体的に面白いので、引用するのが難しいですが、例えば「空手バカ一代」のジプシー空手のエピソードの原型になったと思われる、ニュージーランドの道場生で百人組手を達成したジャン・ジャービスが、かつて本部で指導を受けた芦原先生にもう一度学びたいと、70〜71年頃愛媛に訪れた時の話は印象的でしたね。 ちなみに漫画の方ではピート・マックレーンとなっていますが、これは大山道場時代に在籍していた南アフリカから来た門下生で、芦原先生と激しい殴り合いをしたという話があります。 この2つのエピソードを掛け合わせたのでしょう。
 と、さておき、この時二宮先生はジャービス先生に組手でボロボロにされ、空手に対する情熱すら失いかけてしまいます。

 …この時、私は生まれて初めて自分の力量を疑った。 自分の歩む空手の旅に疑問を持ち始めたのである。
 「ゴールにたどりつけるのだろうか?」
 どん底に落ちた気分であった。 そのしゅんかん、忍耐も夢も消えた。 ジャン・ジャービスとの組手をきっかけに、空手への情熱は冷めた気がした。 いつも通りに練習はしていたが、まだ心は乱れていた。 今まで通りの自分に戻れるのか? それすら分からなかった。


 そんな気持ちを知ってか、芦原先生はジャービス先生との組手を披露し、瞬時に顎を叩いて怯んだ所で岩石落としで頭から叩き落とし、KOしてしまいます。 この組手は二宮先生に立ち直る切っ掛けを与えました。

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 …私は、この長身のニュージーランド人を寸秒でKOしてのけた館長のスピードと力に改めて尊敬の念を抱いた。 その反面、悔しい気持ちでいっぱいだった。 どんなに先生が素晴らしくても、それはあくまで自分の力ではありえないからである。

 17歳で第3回全日本に初出場、続けて第4回、第5回と全日本に出場し続け、いつしか広大なアメリカの土地で己を試したい―そんな思いに捕らわれる様になり、本部で稽古しなければアメリカに行けないのでは無いかと不安になり、一度は芦原道場を脱走し、東京まで行きました。 そこで本部の郷田勇三先生と会い、四国で研鑽する様諭されます。 そして本部内弟子の若獅子寮に泊め、翌日二宮先生が目を覚すと、そこには芦原先生がいました。

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第10回全日本大会優勝、芦原英幸と大山茂に祝福される

 「おはよう、二宮」
 その声は芦原館長であった。 夢かと思って頭を振ると、そこにはまぎれもなく、芦原館長が立っていたのである。
 「東京に用事があって来たんだよ。 二宮がどうしているかと思って本部にも寄ってみたんだ」
 私の心を、不意に暖かいものが満たして行った。 私は改めて、師の深い思いを振り返らねばならなかった。 これまで芦原館長は私のために革靴をくれ、服をくれ、ある時は私のために飛行機代を与えてくれもした。 しかし今、目の前にもっと深い師の温情がある。 館長は、私が館長のもとを去り、渡米のために独り立ちしたがっていることを知っていた。 しかし館長は私が失敗に泣く姿を見たくはなかったのである。
 私は、館長が私の目覚めを待って、ベッドのそばにいてくれたその心に気がついた。 館長は私に、自分自身の渡米の夢が実現しなかったことを話してくれたじゃないか。 私に、二宮の渡米の夢を叶えてやる、と言ってくれたじゃないか。 どうして私はそれを待てなかったのか。 私は我慢出来ず道場を逃げるようにして東京へやって来たことが恥ずかしくてならなかった。


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芦原道場によるキックボクシングの興行にて

 こうして、二宮先生は自分を鍛え直し、大会で好成績を上げ、アメリカに行くに足る人間である事を証明する為、稽古を重ね、第5回全日本では6位入賞を果たし、74年のアメリカ遠征メンバーに選ばれました。 この時のメンバーは郷田勇三先生を団長とし、添野義二(埼玉支部長)、佐藤勝昭、西田幸夫、岸伸行、佐藤俊和と二宮先生というチームで、ここで後に先輩と呼び慕う岸先生と出会います。 そして現地で指導する大山茂先生に声を掛けられ、指導員としてアメリカに残るのでした。

静かなる闘志.jpg
尊敬する岸伸行と

 その成果を世界大会で披露するも、同大会優勝者の佐藤勝昭先生と当たり準決勝で敗北、翌年の第8回全日本では準優勝、演武の練習中に親指を負傷し、その間に自分を見つめ直し、新境地、コロラド州デンバーに極真空手を広めようと決心します。

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第8回全日本大会後と思われる手紙

 知らない土地で空手を広めようと、まずは師・芦原先生がやった様にサンドバッグを公園に吊してのデモンストレーション。 元々カリフォルニア、ユタ、コロラドといった西海岸方面は戦前からの日系移民が多く、その中の1人であるトニー浜田氏(大山総裁と牛が闘うの見たというハワイ生まれの日系人)の後押しもあって少しずつ指導の範囲を広げ、78年の第10回全日本大会で念願の優勝を遂げます。

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デンバーに道場を開く報告の手紙

 この時の決勝戦、芦原先生が副審でしたが、この時の芦原先生のリアクションが身内贔屓過ぎて、実に面白かったw 決着が着いた時の判定では旗上げながらガッツポーズ、そして規定本数に達したのを確認した後、旗を副審席に置いて拍手を始めるというw
 デンバーに戻ると、二宮先生は未成年の更正施設でも空手を指導する様になります。 1980年、芦原先生が極真会館を離れ、芦原会館を設立します。 二宮先生も師に従い極真を離れ芦原会館の米国本部長として組織に尽くしますが8年後の1988年5月30日、芦原先生に決別の手紙を書いて円心会館を設立。 実は英語版には英語で、ですが、この時の手紙が載っています。 日本語版では読めない箇所ですので、全文書き出してみましょう。

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アラバマの道場にて

Dear Kancho,
    Each day in Colorado now, it is growing warmer.  It is starting to feel like summertime.  I hope that you, your wife and family are healthy.
    The  days go be very quickly.  I have been your student for almost twenty years.  Until now, I have always thought only of Ashihara karate, and have tried to make it grow little by little.  I have always done this because i believe this style is very special.
    I remember the image of you twenty years ago, when you were training by yourself in the Yawatahama police dojo.  And fiteen years ago, when I left for the United States for the very first time, we were standing on the dock at Matsuyama.  I was about to get on the boat, and you told me I looked cold, so you took off your scarf and wrapped it around my neck.  I have carried that picture of Kancho with me for fifteen years.
    But now we have changed, and so has our way of thinking.  our hearts are in different places.  I don't want to be a burden to you any longer.  I don't want to have the feeling that we are always pulling in opposite directions.  And now I want to face the challenge of building my own ideas about karate-do in the United States.
    I would be honored if you would look at my leaving as a father might look upon a child who grows up and moves away from his parents into the world on his own.  Thank you for teaching and loving me like a father for all these years.  As of today, I am no longer a part of Ashihara karate.
    I wish you, your wife, and family good health and every happiness in the future.
Sincerely,
Jok Ninomiya
May 30, 1988


 二宮先生が独立した経緯についてはこれ以上触れるつもりはありませんが、手紙には芦原先生への思いが溢れている様に感じますね。 それでも独立せざるを得なかったのでしょう。
 今回は二宮先生の半生をメインに書いてますが、本書にも芦原先生への思慕の情が随所に見て取れます。 その数は多すぎて、本書を読んで下さいとしか言い様が無いw
 例えば先方にとっては不幸以外の何物でもありませんが、こんなエピソードも載っています。 二宮先生が道場破りでとある道場を潰した時、芦原先生も同じ道場にチャレンジしに行こうとしていました。 しかし一足先に二宮先生がやってしまい…。

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 「なぜこんなことを聞くか教えてやろう。 昨夜俺は隣町にある道場の先生にチャレンジしに行ったんだ。 そこで何て言われたか分かるか?」
 私はドキッとした。
 「教えてやろう。 一足遅かったですね、と言われたよ。 何でも二、三日前にジャイアント馬場みたいな男がやってきて、彼の道場生を目茶苦茶にして行ったそうだ。 もう相手をする道場生もいなくなったらしい。 おまけにそこの道場主はどうやって稽古生たちを道場に引き留めたらよいのか分からなくなったと言っている。 二宮、お前か?」
 私は少し黙ってから
 「押忍」
 と言った。
 館長は怒って指を突き出し、
 「二宮、いいか、次からは俺に断ってからやってくれ。 でないとダブるじゃないか。 おまえがぶちのめしたところへ俺が後から行って、いったい何の意味がある」
 館長は笑いながら首を振り、出て行ってしまった。


 本書は二宮先生の哲学書でありつつも芦原英幸語録でもあると思います。 「自分は芦原先生のお陰でここまで来られました、今でも先生の教えの通りに頑張ってやっております」とかつての師に向けた本じゃないかと思えるほどです。

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 日本語版の最後の章は円心会館の理念を説いていますが、結構心に残る話が多いですね。 例えば…。

 …サバキのコンビネーションや高等な技術を意識し過ぎて、基本を軽視する者がいる。 空手の命ともいうべき基本を殺してしまい、空手をつまらなくしてしまうのである。 基本はすべての礎となるものであり、言い換えれば一番大切で決して蔑ろにはできないものである。 基本をレベルの低い技だと勘違いしてもらっては困る。 サバキも基本の集大成なのだ。

 思ったけどやらなかった、というのは空手においては無意味である。 思ったけど行動に移すには時間がかかった、というのは未熟者である。 心と行動が同時に動くのが空手なのだ。

 …人生のあらゆる局面にあらわれるのが空手の修行れあるとすれば、他の人を口汚くののしるのはどういう修行の成果なのだろうか。 人間を豊かするはずの空手であるにもかかわらず、空手を始めたから心が狭くなって、空手を始めたから批判することを覚えたとしたら、寂し過ぎる話ではないか。

 最後に、この言葉で締めくくろうかと思います。 原著は「私の空手の旅路」という意味のタイトルでしたが、つまりは人生を旅に例えています。 であるなら、この文章で本書の異義を表せるんじゃないでしょうか。  

静かなる闘志8.jpg

 人生は勝負である。 行き詰まった時にはいろいろな方向から試して、根気と希望で乗り切って行くことが必要だ。 「絶望した」とよく聞かされることがあるが、絶望は与えられるものではなく、自分で口にする言葉に過ぎない。 絶望は愚か者の選択というが、ある意味では自分は最善を尽くしているはずだという自惚れでもある。
 二十数年に及ぶ私の空手道人生でつかんだこと、それは一度に大きな目標は達成できないが、小さな目標から始めれば永久に目標は続き、いつかは大きな目標も達成できる、ということである。 それが武道というものではないだろうか。


 本書を読まれた事無い方は是非。


 という事で、二宮城光著「静かなる闘志」でした。
 実は本書を読むのは…多分15年以上振りくらいですw 読み返して最初に思ったのは、こう言っては失礼かも知れませんが、正道会館の石井和義先生の「空手超バカ一代」 とは随分違うな―とw
 まぁ、二宮先生は直接芦原英幸先生の薫陶を受けたのは支部道場設立間も無い69年から74年までの約5年間です。 それ以降は手を離れ、大山茂先生の元で指導員をやり、デンバーで道場を開きました。 「空手バカ一代」以降の極真ブームは殆ど体感していないんじゃないかな。 そしてアメリカで岸伸行先生と親しくして仙人の様な岸先生の影響をかなり受けてるかと感じます。
 掲載した画像の内、手紙とアラバマの道場の前で撮った写真は、当ブログにお越し頂いている方に提供して頂いた物ですが、二宮先生がどれだけ芦原先生を慕っていたのかが分かりますね。

 ちなみに大山倍達総裁も二宮先生には大きな期待を掛けていた様で、第8回全日本の前に行われた喧嘩に関するインタビューの中で、こう答えています(ちなみに、大山総裁は冒頭で格闘技の強さとケンカの強さは別物と断言してるんですが…w)。

 極真空手は、世界最強の格闘技である。 これは事実に裏づけられた、私の信念だ。 あえて名前を出せば、二宮城光(四段)。 素手のケンカで日本で誰が一番強いか、そう聞かれたら、私は二宮だと断言してもいい。
 (中略)
 彼は七〇キロそこそこの体重しかないけど、今と同じスピード、タイミングを保ったまま八五キロまで増えれば、体の大きなプロレスラーと本当の真剣勝負で対戦しても敗けないでしょう。

 本書では大山総裁の話は殆ど無いんですけどね、二宮先生がアメリカを夢見た切っ掛けは大山総裁じゃないかなぁと。 八幡浜の道場開きで大山総裁が来られて、息吹を見せたら道場の窓ガラスが息吹でビリビリと振動したという凄い話の時なのですが、ここで稽古の後、こう話したそうです。

 稽古の後で大山総裁の武勇伝と「この大山茂君と中村忠君がニューヨークで今頑張っているけども、磯部清次君もブラジルで頑張っている。 磯部君は、君たち驚くなかれ、道場と道場の間をね、飛行機で通っているんだよ」という話を聞かされて、興奮して眠れなかったですよ。 「海外で空手」は自分の夢でしたから。


 ここで「磯部清次君」と出ますが、小倉正一郎先生の事じゃないかな。 八幡浜道場落成は70年、磯部先生が渡伯されたのが72年ですから、多分小倉先生でしょうね。
 まぁ、正確な意味では切っ掛けでは無いかも知れませんが、実際に海外に雄飛した先輩が目の前にいて、こんな話をされたらその気にもなるってもんですw
 今回はここまで、それでは、また。


参考文献:
Joko Ninomiya and Ed Zorensky, My Journey in KARATE, KNIGHTSBRIDGE PUBLISHING COMPANY, United States, 1991
100万人の空手 大山倍達著 東都書房 1969年
POCKETパンチ 1976年11月号 平凡出版 1976年
静かなる闘志 二宮城光著 福昌堂 1992年
最強最後の大山倍達読本 日本スポーツ出版社 1997年
講談社漫画文庫 空手バカ一代 第14巻 原作:梶原一騎、 作画:影丸譲也 講談社 2000年
講談社漫画文庫 空手バカ一代 第17巻 原作:梶原一騎、 作画:影丸譲也 講談社 2000年

関連リンク:
極真会館主催 第3回全日本大会プログラム (1971年)
極真会館主催 第4回全日本大会プログラム/年鑑 (1972年)
極真会館主催 第5回全日本大会プログラム (1973年)
極真会館主催 第1回世界大会プログラム(1975年)
極真会館主催 第8回全日本大会プログラム (1976年)
極真会館主催 第10回全日本大会プログラム (1978年)
ある日の極真会 11 (近代カラテ 1968年4月号)
ある日の極真会 19 (現代カラテ 1970年3月号)
ある日の極真会館 22(現代カラテマガジン 1974年3月号)
【レビュー?】「痛快無比! ケンカ十段 芦原英幸読本」(1998年)










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コメント
ジャービスの顔面をフルコンの振りしてなぐったから、ジャービスが激怒したんじゃなかったですか?
文章にある先生の力は自分になりえないというのはアシワラ氏を皮肉ってるんでしょう(笑
  • ヨンドンサリ
  • 2014/06/30 3:46 PM
二宮先生の手書き葉書は素晴らしいの一言。
何処からこのようなお宝が出てくるのか。
驚きです。
改めてこの書籍のダイジェストを読むと
含蓄が深い。
感謝・感謝。
  • tama
  • 2014/06/30 9:52 PM
大山倍達・芦原英幸⇒基礎体力を含め喧嘩の経験から空手を習得し、空手組織を立ち上げる。
大山倍達と芦原は共に「だれでにでもできる空手」ではない。二宮氏⇒柔道で基礎体力を習得し、喧嘩と空手を学びそれから極真・芦原から離れる。師弟関係では確執や憎しみはつきもの。あえて公表するかしないかだけ。空手のみならずあらゆる武道と称する団体も含め、極真・正道・新極真・芦原空手他が強いのでは無く、それらを稽古、運も含めて報われた人が現在心身ともに強い。極真系空手についても各道場の準備運動から異なる。皆その会派で寄る時はそれに合わせる形をとっているのではないか。写真の回し受けがそれを物語っている。見る人がみれば判ると期待したい。根っこの部分は同じ。これ以上述べるとしったかぶりに成るからやめる。
  • いつもの壮年部
  • 2014/07/01 2:02 PM
全日本10回大会で優勝した二宮選手は抜群に強かったな。しかし、ジャン・ジャービスはなぜ四国に行ったんだろ?負けてから仲間を芦原師範に紹介したジャン・ジャービスも偉いな。
  • やいや 
  • 2014/07/01 10:09 PM
>ヨンドンサリさん

フルコンルールで対戦したなんて事は原著にも日本語版にも書いてありませんけど。
本部指導員時代に教えを受けたんですから、顔面ありで組手をやる方が普通じゃないですかね。

>tamaさん

ホント、どこからこういうお宝が出て来るんでしょうねぇ。
提供して頂いた方には感謝です。

>やいやさん

ジャービス先生は、芦原先生が本部指導員時代に留学して来て教えを受けたので、四国に寄ったという話です。
  • Leo
  • 2014/07/02 11:42 PM
二宮さんとジャービスは顔面ありで組手したのですか?
  • 借力
  • 2014/07/04 7:06 PM
>借力さん

ルールとか一々書いて無いですよ。
まぁ、時代的に考えれば普通に顔面ありの可能性の方が高いかと思いますが。
  • Leo
  • 2014/07/06 5:47 PM
芦原さんの著書にも、名前こそ出ませんが、二宮ジャービスのことが書かれていますね、壁際まで追い詰められたとあるのでフルコンルールかもしれないと思った次第です。

LEOさん、補足をかたじけないです。
  • 借力
  • 2014/07/07 8:21 PM
極真会本部に通ってた人によると、顔面はふつうに殴る人がいてたみたいですね。三瓶氏は頭突きまでやったと自分で語ってますね。
  • やいや
  • 2014/07/08 1:16 PM
>借力さん

顔面ありの方がむしろ壁際まで追い詰め易いんじゃないですかね。 当てられなくても下がりますし。


>やいやさん

一応71〜72年頃までは本部でも顔叩いていた様ですが、それ以降はあまり無かったみたいです。
ただ、大会がメインになる以前に学んだ先生の道場だと、顔面ありを視野に入れる傾向にある様に思います。
  • Leo
  • 2014/07/12 8:56 AM
・当時の二宮城光・岸両師 vs 香港カンフー選手陣はあえて香港側に弱い選手を当て対戦させた感有り。ムエタイ選手陣しかり。あの当時から二宮師は岸師を尊敬していたようですね。それにしても、大山総裁の顔面無しルール決断は当時としても画期的です。顔面有りだったらどうなっていることやら。ちなみに虎退治の養秀会館長はこのルール決定に異議があり、大山総裁と疎遠になったとか。
・しかし、二宮師のあの長身でありながら、大型選手中ではむしろ軽量での技の切れと強さがあれば、顔面有りの道場破りであっても勝てると現極真派の当時の選手も断言しております。
・今は道場によっては「スーパーセーフ」付きですが、顔面攻撃を黒帯連中が稽古しているようですね。
  • いつもの壮年部
  • 2014/07/26 9:34 PM
>いつもの壮年部さん

山元先生は第8回全日本までは副審判長として会場に来られていました。
顔面ありのルール決定に異義があって疎遠になったのなら、8年間も大会に協力しないと思うのですが。
  • Leo
  • 2014/07/27 10:39 PM
虎殺し山本勝王…虎を大きなナイフで刺してる写真を見ましたが、写真の中にはかなり疑問をもつものがたくさん写ってました。この方は大塚剛の先輩ですね。
  • やいや
  • 2014/08/01 11:13 PM
久しぶりに読ませていただきました。
手紙の写真、使っていただき、ありがとうございます。
その手紙は、芦原会館の技術本二冊をヤフオクで入手した際、出品者の方が中元先生の道場の方で、しばらくやり取りさせていただいた後、譲っていただいたものです。
  • 一門下生
  • 2014/08/28 3:35 PM
>一門下生さん

掲載が遅れましたが、その節はありがとうございました。
  • Leo
  • 2014/08/31 3:34 PM
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