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大山倍達マニアック検定

【古記事】渡辺勇次郎「拳闘術常識」(1922年)&etc…

JUGEMテーマ:格闘技全般
 


 さて、今回は"日本ボクシングの父"と言われる渡辺勇次郎の記事と、アメリカ時代の渡辺やその他のボクサーについて色々書いてみようかと思います。
 本記事は1922年の「野球界」3月号に掲載されたものです。 時期的に言えば、1920年1月に渡辺が帰国、同年12月25日に日本拳闘倶楽部の道場が竣工していますので、ジムを作間もなく約1年ほど後の記事となりますね。
 肩書きは「拳術師範」、旧字体で「渡邊勇次郎」となっていますが、現在では「渡辺勇次郎」と記すのが一般的ですので、本記事以外はこの表記で行きます。 あ、後ウチのポリシーとしてなるべく原文表記で、というのがありますので、環境によっては文字化けするかも知れません。

渡辺勇次郎2.jpg

 それと、後半当時日本で活躍した日本人ボクサーの話を書くので、本来は「古記事」ですが、今回は「武道家列伝」のカテゴリに入れます。

 それでは、どうぞ。
 



「米國に於いて十數年間拳闘術を當地に研究したる渡邊勇次郎氏は、府下下目黒八十六番地へ、日本拳闘倶楽部を組織し、當地に之を指導せらるゝことになつた。 確實なる保証人一名以上の推※(以下、※は判別不可)を以て申込めば倶楽部の普通會員となることが出來る。(入會金五圓會費月三圓)
 一ヶ年にして卒業することができる。 成績優秀なる時は、プロフユセヨナル拳闘の免状を授興せられる。 記者は、一日倶楽部に渡邊師範を聞ひ、拳闘術に就いて、親しく其講話をきくを得た。 氏の許しを得て、左に、拳闘術の大要を掲載することにした。

    ▲體育としての拳闘▼

 従来ボキシングなるものは日本人には手先のみの運動であるかの如く誤解されて居ましたが、拳闘の真髄は、第一が足の運動、第二が上身の運動、第三が頭部の運動、卽ち頭腦の繊細な働きに依り全身を悉く常に動かす最もサイエンテイフイツクなるもの狭隘な場所にても只一人で稽古が出來る特點があり又、ポンチグバツグの如きは、趣味多く老若男女殊に青年には最も適當な理想的體育方であります。

渡辺勇次郎3.jpg
渡辺勇次郎

    ▲護身用としての拳闘▼

 拳闘術は其の總てが當身術で、敵に接近せずして敵を防ぐ尤も實用的の武術であります。 現に歐州戦争の折にも塹壕内の最後の決戰に於てボキシングの高価が非常なものなりし爲め、聯合軍側では軍人に此れを骸した例があります、で日本でも古來の柔道の如く専門家は勿論、何人も擧つてボキシングの眞價を切實に研究されん事を望んで止みません。

    ▲國際競技としての拳闘▼

 ボキシングは歐米に共通な國技であり、加ふるに相互に親しみを持たしむる上に多大の効果のあるは事實にして絶えず此國際的競技が※、※、※※等に於對外親善策として用ひられて居りますが今假に日本軍艦が彼の地へ行つたとしても、前述の如く歐米間に國交親善策として行はれて居る此の拳闘試合を日本或は外國船甲板上に於て行ひ、以て日、外國人相互に親密なる關係を結ぶと云ふ機會がありません。 故に海陸軍何も體育と云ふ意味のみならず、彼我親善策として將又國家事業として大いに奨励されん事を熱望して居ります。

    ▲日本人に最も適當な拳闘▼

 日本人は負嫌ひ、又動作の敏捷なる事其上、體量により拳闘家の階級が八種に區別されて居て、卽ち其の體量によつて定つた同階級の者と試合ふと云ふ點等に於て日本人には至極適當、否拳闘以外に日本人が世界人を相手にし勝算の十分ある國際競技は絕対無いと云うても敢て過言でないと信じます。

渡辺勇次郎4.jpg
渡辺勇次郎

    ▲八種の階級▼

ペーペーウエイト〔但し一斤※百廿匁〕一〇八斤以下
バンタム        間    一一五    間
フエザー        間    一二三    間
ライト        間    一三三    間
ウエルター        間    一四五    間
ミツドル        間    一五八    間
ライトヘビー    間    一七五斤以下
ヘビー        間    一七五    以上

    ▲ウエルターウエィト以下の世界選手は日本人▼

 拳闘試合は以上陳べた如く、階級の等しき者同志により行はれる最も公平な方法ですから、體軀小なる日本人と雖も其の階級の世界選手権を獲得し得られるであります。 故にウエルターウエイト以下(ミドルウエイト以上の體量を有する人は日本人には特殊の者を除いては得難い故)の世界選手権は将來必ず日本人により支配される様になる事は疑ふ餘地がありません。 現に此の階級の試合が最も多く歓迎されて居るのですから、此の時に當り日本人を世界に廣く紹介するには此の上もない好機會であります。

    ▲國家選手と世界選手▼

 拳闘の隆盛な國に於て公認された選手が各階級を通じて一名宛、都合八名あります。 機を見て一國の選手と他國選手との試合が行はれ其の勝者が卽ち其の階級を通じての世界選手で他國に其の選手に打ち勝つ者の現はれる迄、其の國が名譽ある其の階級の世界選手権を掌握して居るのです。 勿論國家選手、地方選手は試合の結果變更されます。

渡辺勇次郎5.jpg
日本拳闘倶楽部前

    ▲拳闘家の處世法▼

 拳闘家として獨立出來る迄は體育、精丹蕕箸靴銅己の職業の傍を研究史、拳闘家として生活出來る自信あれば其の人の希望により實地舞※にて試合爲す事が出來る、其の都度幾干の報酬を入場料の一部より、得られる事になつて居ます又其の人が拳闘社會より實力を認められ人氣がつけば其の人の試合には見物人多く従つて入場料之に準じ報酬は増加する理です。 國際競技には一囘のみにて優に十數萬弗を得、一躍百萬長者になりたる者も少なくありません。 又軍隊、倶楽部、學校等の指南としても立派に生活して行ける様になつて居ます。

    ▲拳闘の規則▼

    リングは十六尺より二十四尺までの正四角のものにして、三本の繩を張り闘士のリング外に出るを防ぎ、闘士は靴を穿き、猿股をつけ、手にはグローブを嵌め、腰より植えを突き合ふのであります。 一囘をラウンドと稱し、三分間づゝ一分間の休を置いて規定の囘數まで試合ふのであります。 若し試合中一方が倒されたる場合は、ノツクダウンと稱し、若し其人が十秒以内に起き上がらざればノツクアウトと稱して負となります。 規定の囘數まで戰ふもノツクアウトなき時は、術の上手な者を勝とし、互角の時は引き別けとなります。 試合の囘數は四囘より四十二囘までありますが主として十囘内外の試合が歓迎されて居ます。 其の他フユニツシファイトと云うて囘數を定めずナツクアウトする迄戰ふものもありますが、現今餘り流行しません。

    ◎封じ手

 頭突、肘突、投、逆、一方が倒れた時に突く事、上身以下を突く事、蹴る事。

    ◎拳闘競技の眞随

 今や時代は進化して總ての競技は趣味實嵯鵑未襪鉾鵑困鵑仗癖發擦誑¬韻鰤狢せしむる能はず、殊に日本國民の體質は文化と共に倍々衰頽す、此れ國家的一大不鳥にして、國民も傾刻も忽せにす可らざる大問題なり、不肖玆に見る所あり、此時代の要求たる、體質改善。
 人格向上、士氣旺盛、興味津々たる拳闘術を推奨して従來の競技に見ざる、尤も文明的にして雄健なる國民思想の涵養に資せん殊を期す敢て宣す。
 有爲の士よ來れ我が道場へ



 こう、記事があるのを見ると、一見繁盛していた様に見えますが、1922年12月末までに入門したのは僅か14名だそうですw

 ボクシングが日本史に登場するのは、ペリー来航が初だとされています。 しかしボクシングのエキジビションマッチが披露されたのは翌1855年、初期は水兵のボクサー乃至ボクサー崩れが来日していた事になります。 初の日本人ボクサーは浜田庄吉という相撲上がりの人物で、1887年にボクサーとレスラーを伴い帰国し、興行を打ちます。 当時の錦絵は番付表が残っていますが、興行は失敗。 この時はボクシングは根付きませんでした。
 ボクシングの技術書は1888年出版の"Art of Boxing and Science of Self Defence Together with a Manual of Training"同年上野図書館が購入。
 日本初のボクシングジムは1896年、横浜市に出来た「メリケン練習所」で、斉藤虎之助とジェムス北条(北条利夫)が開設しましたが、その後の日本ボクシングには何の影響も与えていないと云われています。
 ボクシングを拳闘と呼んだのいつか? これは1887年の常総体育雑誌にて「海外スポーツ拳闘」と書かれているのが一番古いとされています。 1900年、本邦初の技術書「防撃自在西洋拳闘術」(桜田孝治著)が初ですかね。

渡辺勇次郎6.jpg
日本拳闘倶楽部の練習風景

 さて、渡辺勇次郎ですが、渡辺は16歳の時に中学を退学して1906年、渡米。 本人によればこうです。

 「僕が郷里真岡中学の五年半ばで家を飛出し、アメリカに走つたが、明治三十九年十一月三日の晩だつた。 サンフランシスコの大震災の跡を見て歩いて居ると、地廻りのメリケンボーイに喧嘩を売られ、ストレート、パンチを食はされて、完全にのされて仕舞った。 世界の語学者を志した僕も、心機一転、寧ろボクサーとなつて、奴等をたゝきのめしてやらうと、黒人拳闘家ルーフ・ターナーの門に入り、その後、アマ拳闘大会に、十六戦十六勝の成績を得るまでになり、桑港(サンフランシスコ)の英字新聞には、〈世界唯一の日本人、拳闘家出づ〉なんて書き立てられ、丁度其頃、郷里の友人から、近頃は、日本にも拳闘がはやるといふ通信があつたので、大正十年の春、十幾年ぶりかで帰つた来た」

 このアマボクシングのキャリアはともかく、現在までに喧伝されている渡辺の試合記録は、16戦無敗で、当時4回戦までしか無かったカリフォルニア州にて"四回戦王"なる称号が与えられた事、その後カリフォルニア州のライト級王者ウィリー・ホッピーと2度に渡り対戦、1913年の初戦は負けた物の、同年7月のリターンマッチで勝利、タイトルを獲得した、という事になっています。
 しかし海外のボクシングデータベース"BoxRec"によれば、渡辺の生涯戦績は11勝(5KO)10敗(2KO)2分で、件のウィリー・ホッピーは実は1階級下のフェザー級で、初戦が1912年4/12、この時は判定でホッピーの勝利、2戦目は翌月5/11で、3ラウンドTKOと再び渡辺の負けでした。
 ただ、"BoxRec"は完璧なデータベースという訳でも無く、例えば今回の渡辺について、試合前の記事はあっても勝敗が不明な試合は、試合そのものが載っていなかったりします。 よって、生涯戦績は大体の試合結果という、参考程度に留めておいて頂ければ幸いです。
 少し話を遡ります。 渡辺のプロデビュー戦は1911年3/22、マーグイダというフィリピン人で、新聞によれば「アトラクション」だったそうで、実は同門対決です。 この時、渡辺は4ラウンドでKO負けを喫しており、新聞では酷評されていました。

渡辺勇次郎1.jpg
プロデビュー戦?

 日系移民の排斥運動がカリフォルニアで盛り上がったのは僅か5年ほど前の話ですから、その影響もあってか、帝国陸海軍と渡辺を絡めた悪意ある文章になっています。
 しかし、同年8/25に対戦したキッド・ウェインとの試合前の記事を見ると、「ワタナベは日本のチャンピオンで、まだ無敗」とあるので、最初のは公式戦じゃないかも知れませんね。 ウェインとの試合では判定負けを喫しましたが、この試合までの戦績(初戦を除く)と、6勝1分1無効試合で上々と言えるでしょう。

渡辺勇次郎7.jpg
日本チャンピオンとある

 こうしてサンフランシスコでキャリアを積んでいた渡辺ですが、翌年の2/26、世界ライト級王者のバットリング・ネルソンとヤング・トーゴーという無名の日本人ボクサーの試合が行われます。 しかしこの試合、トーゴーが大健闘し、時の世界王者を相手に判定ドローとまさかの大金星。 ネルソンは国内で相当数の批判を浴び、3週間ほど後に「実は骨折していて…」と声明文を出すほどの騒ぎとなります。 ネルソンは59勝の内、40KOという選手ですから、パンチが無い訳じゃありません。

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バットリング・ネルソン骨折の記事

 ここでヤング・トーゴーは日系人のヒーローとなるのですが、同年4月の試合以降、目の不調を訴えており、その後全敗でキャリアを終え1勝10敗3分と、大した戦績は残せていません。

渡辺勇次郎10.jpg
ヤング・トーゴーの目の不調を訴える記事

 「世界チャンピオンと引き分けた男」という看板でかませ犬にされちゃったんですかねぇ…。 しかし今の所私が発掘した新聞記事の中で、唯一写真が載っている日本人ボクサーです。

渡辺勇次郎9.jpg
左がヤング・トーゴー

 余談ですが、日本で最初に上映されたボクシングの活動写真はこのネルソンの試合で、多分1905年のジミー・ブリット戦みたいです。
 また、この頃にデビューしたのが、…"BoxRec"には記録がありませんが、コウリヤマ・トーゴーこと、郡山幸吉です。 後に帰国して渡辺の日本拳闘倶楽部(日倶)を手伝います。

渡辺勇次郎11.jpg
郡山幸吉と思われる日本人ボクサー

 話を戻しますが、渡辺はホッピーとの2連戦以降、殆どの試合を落としている様です。 "BoxRec"によれば最後の試合は1916年12/29のヤング・ジョー・ガンズ戦、判定に散りました。
 そして1921年、日本に帰国して日倶を創設、次第にボクシングを日本に定着させて行きます。
 最後に少しだけ、その後の日本ボクシング界を書きましょうか。
 渡辺が帰国する少し前になると、日本でもボクシング映画が輸入され、ジム・コーベットやジョルジュ・カルパンチェといった世界チャンピオンが登場する映画が上映される様になります。 そして、外国人クラブで手ほどきを受けた中学生が1920年にYMCAで「拳闘アマチュアの夕べ」を開催。 これが渡辺が聞いた「拳闘がはやる」かな?
 郡山が1922年に帰国し、同年6月に「国際純拳闘試合」を開催、秋には日倶認定チャンピオンを創設、1924年4月に初の王者決定戦を行います。
 こうして、日本にボクシングを定着させた渡辺勇次郎は、"日本ボクシングの父"と呼ばれる様になるのでした。


 という事で、渡辺勇次郎の「拳闘術常識」でした。
 日本ボクシング界では最大のキーパーソンでありながら、まともな評伝が1つも無いという渡辺ですが、まぁ、理由として言えるのはアレですね、ほぼ全ての日本ボクシングの源流が渡辺の日本拳闘倶楽部に行き着くのに、殆どの元弟子が独立、離反したのが原因なんでしょうかね。
 ボクシング界初期の歩みについては、郡司信夫先生の「拳闘五十年」を紹介する時にもっと詳しく紹介したいなぁと思いますが、今回はヤング・トーゴーを紹介出来たので満足っすw
 誰かきちっと渡辺勇次郎の歩み、功績を本として残して欲しいなぁという期待を込めて、今回はここまで。
 それでは、また。


参考文献:
Oakland Tribune, 3/23, 8/22, 1911
Oakland Tribune, 3/12, 4/17, 5/12, 1912
Oakland Tribune, 2/17, 1913
野球界 1922年3月号 野球界社 1922年
ゴング一月号増刊 本名ボクサー新100人 日本スポーツ出版社 1983年
拳闘五十年 郡司信夫著 時事通信社 1955年
明治事物起源7 石井研堂著 筑摩書房 1997年

参考リンク:
Battling Nelson (9/15/2014)
Yujiro Watanabe (9/15/2014)
Young Togo (9/15/2014)
Togo Koriyama (9/15/2014)

関連リンク:
【古書】「アメリカ海軍航空隊のボクシング講座」(1952年) 
【レビュー】近代ボクシングの父、ジェームズ・コーベットの技術書(1912年)
【レビュー?】小島貞二著「ザ・格闘技」(1976年)









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コメント
『拳神』ですねw。このマンガでは、どうしても「黒羽根無双」を思い浮かべてしまいますが。黒人に拳闘を習ったところや日本人は移籍に苦しめられるところなどは、けっこう史実を反映させているのですね。
今まで「渡辺勇次郎」と「日本拳闘倶楽部」の名はいろいろなところで目にしていましたが、これだけ詳しい彼のプロフィールは初めて読ませていただきました。ありがとうございます。日本拳闘倶楽部からどのような派生があって現在に至っているのかも、がぜん、興味が湧いてきました。
  • 通りすがりのマニア
  • 2014/09/17 9:48 AM
>通りすがりのマニアさん

日倶から他のボクシングジムへの派生は、「拳闘五十年」と、「拳に賭けた男たち」辺りが詳しいかと思います。
特に「拳闘五十年」はボクシング界の生き字引だった郡司信夫さんが手掛けており、1955年辺りまで細かく書いてますので、読物としてはやや冗長過ぎるかも知れませんが、ベース資料としては一級品でしょう。
一方の「拳に賭けた男たち」は、ボクサー単位でまとめていますので、読みやすいですが、触れられていない箇所も多いです。
  • Leo
  • 2014/09/18 12:25 AM
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