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大山倍達マニアック検定

【古記事】香取神道流・杉野嘉男インタビュー(1961年)

JUGEMテーマ:格闘技全般


 さて、当ブログで地味に需要のあるらしい、武道家を紹介するコーナーですが、今回はお馴染み森川哲郎先生による香取神道流の杉野嘉男先生との対談記事、「逆抜きの太刀を訪ねて」を紹介します。
 
香取神道流1.jpg

 杉野先生と言えば、剣技指導を映画で行ったりしており、当時は古流剣術界の第一人者という感じだったんじゃないですかね。
 ちなみに正式名称は天真正伝香取神道流、兵法三大源流の1つとされ、約600年の歴史を誇り、日本でも最古の流派の1つです。
  それではどうぞ。

 逆抜きの太刀といえば、黒沢明監督の製作した映画「用心棒」における三船敏郎が、抜き討ちの際に使った鮮やかな構えを思い出すであろう。
 あの構えは、香取神道流の杉野嘉男師範が、剣技指導して使ったものであった。
 他の流派と全く違った香取神道流の居合剣を用いたので、あの立合は、異様な鬼気迫る大殺陣となって成功したのであった。
 杉野師範は、いまは、ほとんど黒沢明、稲垣浩などの巨匠の時代劇には、よく選ばれて剣技指導をされる人物だが、現在事実上香取神道流では師範として、活躍している方である。
 香取神道流といえば、飯篠長威斎が五百五十年前にはじめ、その門下に、上泉伊勢守、諸岡一羽など多くの剣聖を生んだので有名な、いわゆる日本剣道史の源流のように称される流派である。
 それから分れた剣道流派も、神影流、卜伝流、弘雲流など無数におよぶ。
 子息の杉野茂男氏も、五才の時から剣、棒、槍、薙刀などを持って、きたえられ、早くからやはり出色といってよい天稟の才を発揮していた。
 いまでは、この名門を後世に伝えて恥しからぬ一流の腕を備えているという。
 川崎の道場に氏を訪ねて、両氏の剣技を真剣を用いて、息づまる気合の中に、数時間、披露していただいた。

香取神道流2.jpg

逆抜き


     逆抜きの太刀

 森川 いろいろと剣技を見せていただきましたが、逆抜きの太刀をはじめ、縦一文字、鳥居の構え、小がすみ、大がすみ、心の構えなど、他流と全く違った独特のものですね。
 打ちこんでくる剣を払って、斬り返すという二つの段階を省略して、受けると見せて、そのまま相手を突き、斬っている。 非常な、大胆な省略があって、電光のように素速いですね。
 杉野(嘉) そうです。 それが香取神道流の特色というか、極意なのですね。 受けると見せて受けの太刀が、そのまま攻撃の太刀に転じている。 それだけ、実戦で、速く敵を制せるし消耗が少ないのですね。
 森川 剣、槍、小太刀、棒、手裏剣と多数のものを使っていただきましたが、みな香取神道流のうちのものですか。
 杉野(茂) そうです。 みな神道流で、基本は一つ、それが得物によって、変ってくるだけです。
 森川 前に警視庁の清水師範にお会いしましたが、清水しはんは、杖、鎖鎌、捕縄術などいろいろのものをされましたがみな流派が違うのですね。
 杉野(嘉) そうです、清水さんは。 私は、すでに三十年も前からの知り合いですが、各流を修めておられますね。 私の場合は、違うのは、柔道と合気道、鎖鎌ぐらいのものですね。
 柔道は講道館ですし、合気道は、やはり植芝師範について、まだ大東流合気術といわれたころ修めました。
 森川 驚きました。 実に多数のものを一時に修得されている。 私たちでは、恐らく一生かかっても、達成できないものでしょうね。
 先生のお家は、代々香取神道流の剣客のお家柄ですか。
 杉野(嘉) いや、剣の方は、私一代で築いたものです。 何代か前に、剣の達人がいたということは、ききましたが、私の家は、代々の百姓で、千葉県山武郡成東町にかなり大きな家屋敷をもち苗字帯刀を許されて、代代杉野家を名のっていました。

(中略/柔道歴)

香取神道流3.jpg

鳥居の構え


    日本の剣道の流祖飯篠長威斎

 森川 香取神道流では、どのような師範につかれたのですか。
 杉野(嘉) みな、有名な一流の剣客ばかりで、椎名市蔵、玉井済道、伊藤、久保惚左衛門という四人の師範について、きたえられました。
 千葉の道場へ自分が行き、また家へきてもらい、講道館でも、神道流棒術を習い、川崎へ柔道道場を開いてからもきてもらって真剣に修めました。
 宗家は、代々飯篠修理亮を名のるのですが、そのころの当主修理亮金次郎氏は、若年で亡くなられたものですから、他の師範についてならったのです。
 現在は、その金次郎氏の御子息が後をつがれていますが、まだ二十代の若さです。
 しかしやはり御血筋ですから、いまに名人と呼ばれる一流剣客になると思っています。
 森川 飯篠長威斎というと、文字通り日本剣道の祖といってもよいほどの、大きな功績を日本剣道界に残した人ですが、やはりすぐれた大剣客だったのでしょうね。
 杉野(嘉) それはそうです。 どの史家も日本剣道の祖としてあげていますね。 正しくは、飯篠伊賀守家直、長威斎は、山にこもり入道してからの号ですね。 下総香取郡飯篠村の出身ですね。
 初め、足利将軍義政に仕えていたが、意見が用いられないので、辞して関東に下った。
 ここで千葉家に仕えたが、千葉家が滅びたので、世を厭って、山にこもり、仏道修行に志したのですね。
 この千葉県に仕えている時に、香取に小さな城を構えて、その城主になったのですね。 家来も百人あまり、わずかながら城主だったわけです。
 だが、この時、家来に田地田畑、財産、金銀すべてを分け与えて、分散させ、自分は全く無一文になって、無縁で、修業を思い立ったわけですね。
 この時すでに六十才をすぎていた。 それから千日千夜約三年香取に参籠して、剣の道を究めたのです。

香取神道流8.jpg

香取神宮

  この時、夢に、霊験があり、神のお告げがあった。
 『汝、必ず剣客の宇、日本剣道中興の祖とならん』
 というのです。
 そこで、剣の奥義に開眼し、以来長享二年百二才で没するまで、多数の門下生を育てたわけです。 その中に、松本備前守、塚原土佐守(卜伝の父)、上泉伊勢守、諸岡一羽斎、伊庭是水軒、井鳥巨雲など多数の剣聖を輩出したのです。
 それが、みなそれぞれ一流の祖になったわけですから、文字通り剣道中興の祖になったわけですね。
 居を香取神宮の境内梅木山不断所に移し、ひたすら明神の神護を祈り、日夜木剣をとり、庭前の梅の立木を相手に、掛声勇ましく、錬磨に余念がなかったといいます。
 正しくは、天真正伝神道流ですね。 香取でひらいたから、俗に香取神道流というのです。
 森川 長威斎の師は、鹿伏刑部少輔といい、そのまた師は、天真正として海中に住む河童なりという説がありますが、これは一種の伝説でしょうが、それだけ長威斎が強かったという証拠なのでしょうね。
 杉野(茂) とにかく、この神道流から出た流派が、ほとんど関東一円を支配し、世に関東一羽と呼ばれたのですね。 関西は中条流などがあり、別に一派を形成していた訳です。
 森川 なるほど、弟子の顔ぶれを見ると、塚原土佐守から子卜伝につがれて卜伝流を海、上泉伊勢守は、神影流を開き、松本備前守尚時は、心影流を、諸岡一羽斎は、やはり神道流をつぎ、その門人に岩間小熊、土子泥之助、根岸兎角など、有名な剣客を生んでいます。
 とにかく、世に中条、飯篠、松本を三流祖として、足利中葉以後に起った諸流は、この影響を受けぬものはないといわれているくらいですからね。

 (中略/香取神道流の武勇伝について)

香取神道流9.jpg



    杉野小天狗

 森川 御子息は、先ほどの太刀筋を見ていますと、やはり杉野先生に劣らない鋭さですが、幼時の頃から相当な修業をなさったのでしょうね。
 現在おいくつでしょうか?
 杉野(茂) 私は、昭和六年生れです。 剣は、四、五才の頃からとりました。 父について修業したのです。
 たしかに大変きびしい猛稽古で、毎日朝暗い中から起されて、冬は水をかぶり、剣、棒、長刀、小太刀、柔術、居合、手裏剣、鎖鎌と、何でも一通り激しい鍛錬をさせられたのです。
 そのために、小学校へ入学前、すでに梨本宮様の前で、剣をふるい、後に奈良県知事の前で香取神道流の披露も行いました。
 ヒトラーユーゲントがきた時、ナチスの映画班が、私が公開する神道流の型を詳細に写しとって、本国にもって帰ったなどということもありました。
 それも、まだ十才にならぬ時分のことです。 この香取神道流の教本に乗っている写真が、その時のものです。
 森川 なるほど、本当に美しい、見ごとな型です。 武道の型というものは、実に美しいものですね。

香取神道流4.jpg


  杉野(嘉) それはそうです。 昔の柔術では、
 『乱取三年、型三月』
 ということをいいます。 何も知らない素人が乱取りを三年やって、なるほど強くなるでしょう。 しかし、それはやはり素人の中で、強いにすぎない。
 それよりも、型を三月みっちりやった人の方が、はるかに強いということをいったものです。
 それは碁や将棋の場合を考えて見れば分かることで、ズブの素人が、定石も何も研究しないで、いくらざる碁で勝ったところで、少し定石を研究した人の方が、見るまにどんどん強くなってしまう。
 それほど先人の研究しぬいた定石というか型というものは、絶対的強さをもっているものなのです。
 礼儀作法、花、茶、みなこれはすぐれた天才的先人が、修業の結果悟り得て、編みだした、最も芸術の極致にかなった型から生まれているものです。
 人生すべてがそうです。 この型を修めないで、何事も成り立つはずがない。 野球でも、庭球でも、ゴルフでもそうでしょう。 極意というものは、やはり一つの基本の型に集約されるのです。
 だから、武道の型だけを軽蔑し、あれは古い、意味ないという人は、武道を語る資格がない。
 それどころか、芸術も、スポーツも、詩も、文学も一切を語る資格がないのではないでしょうか?
 この型を修め切って、なお型にとらわれず、自在に動いて、しかもそのすべてが型になっている。 これが極致ですね。
 森川 孔子のいう『心の慾するところに従いて、法をこえず』というのも、それに通じるのかも知れませんね。
 孔子も、激しい人生修業を経て、その境地に到達したのでしょうが、剣法家もその流動美の極致、無礙の剣に到達するまでにはやはり型をはじめとして、激しい猛訓練を経なければならないのでしょうね。
 杉野(茂) それはそうでしょう。 剣に対してと同ように人生に対して、真剣さをもたなければ、到底この生死を超えた極意というものは、修められませんからね。

香取神道流7.jpg


  杉野(嘉) 定石、型というのは、いいかえれば、極意に達するための最短距離なのですね。 この妙法というか、神秘な手段というものを、学び、体得するために、昔は、大変な修業をしたものです。
 剣道というのは、このように精神的なものですから、昔の剣聖といわれるほどの人は塚原卜伝にしろ、磯畑伴蔵にしろ、伊東一刀斎にしろ、昔はみな山にこもった。
 ところが、それを習おうとする剣客は、みなそれを追って山に入り、まず水をくみ、薪を割り、真剣に師に仕え、心身を純一無雑に浄化した後、その奥義というものを悟り、受けつぎ、後世に型として残したのです。
 この型というのは、それだけ奥深いものを中に持ったもので、決しておろそかにしてはならない。
 絶対、大切にして、後世に伝うべきものなのですね。
 次に大事なのは、いかにしてその型を自分の中に修得して行くか、つまり自分の中に消化して、自分のものにすることです。
 森川 自分という存在は、やはり個性がありますから、基本を自分の個性に消化させるというか、基本に立って、自分の個性を現わし伸ばすか? ということですね。

香取神道流5.jpg


    現代の武道はスポーツだ

 森川 その生命をかけた武道の修行ということですが、昔の武道といまの武道では、まるで、そうした気魄というか、考え方というか、要素がまるで違うのではないですか。
 杉野(嘉) 私のいいたいのはそれですね。 私にいわせれば、今の柔道、剣道というのは、武道ではありません。
 これは、スポーツです。 第一武道の精神からはるかに、遠ざかっている。
 段位だの、試合だの、優勝だのという言葉は、あるのがおかしい。 これは、明らかなスポーツである証拠です。
 昔は、入門する時は、試合は厳禁、それを犯すと直ちに破門であった。
 また、その法というものは、兄弟、同門に至るまで、極秘にしていた。
 同門の中で、あるのは、先輩、後輩の順序で、先輩を立て、後輩に親切にするという、仁義と礼で結ばれていた。
 ところが、現在はどうです。 ×××七段とか、八段とか、名刺まで書くでしょう。
 そして、推薦で段が一段上っても、その日から胸をそらして、他の者に先生顔をする。
 そのようなことでは、武道ではありません。 根本から考えると、試合をするのは、生命に少しも危険がないように、ルールが定めてあるからです。
 剣道なら防具をつける。 面、小手、胴、突きと定められた手以外、つまり防具のない所は、いくら叩いても、一本にはならない。
 だから安心して、生命の危険などさらに感じないで、自由自在に殴り合えるのですね。
 柔道なら、柔道着というものをつけて、一つの型に制約した組み方をする。 裸であっても、武器ヲもっていてもいけないのです。
 ルールの制約のあるものは、すでにスポーツです。 逆をとっても、拳をかためてもいけない。
 やはり生命の危険が全くないから、どんなに臆病者でも、のびのびと安心して投げあえる。 ところが、武道の本質というものは違います。
 これは、真剣と真剣と渡りあうことを念頭におき、それを基本の立場として生れたものですから、元々生命の危険をかけている。
 だから、生死とつねに対決して、その間に精神を完全に一点に集中するという飛躍した心境も生れ得るわけです。
 また生死解脱という宗教的心境に到達し、そこで無礙の剣もふるえるというようになるのです。
 そのために、試合は事実奨励すべきものでもなく、またできなかった。 もしすると、相手の命を奪うか、自分が死ぬか以外にはなかった。
 最もよい場合で、どちらか不具になるのが落ちです。 文字通りこの時代の真剣勝負は、格段の差がある場合は別として、ほとんど呼吸一つできまった。決して映画や、舞台に見るようなはでなものではなかったでしょう。
 地味な、動きの少ないものだったに違いない。
 杉野(茂) それはそうでしょうね。 たとえ、いまの剣道のように、面小手の防具をつけていても、こちらが木刀で構えれば、相手はぴたりと動けなくなるでしょう。
 生命の危険を感じますからね。 それに神道流の最後の決め手は、けさがけなのです。
 ところが、けさがけは、剣道のルールでは一本にとらない。 という不合理があります。
 そこで、みな面をねらう、それも鉢金を狙おうとして、カカトが上る。 これでは、とても腰が座らないで、実戦には戦えません。
 つまり、ルールに制約されて、それにとらわれ、一本にこだわって、武道の根本技さえこわしている。
 実際には、鉢金をねらうより、面金をねらった法が、はるかにききめがあるのですが。
 杉野(嘉) 先ほどいった、神道流が、受け太刀を行わないで、受ける瞬間を省いて、そのまま斬りこむというのも、実戦の真剣の立ち合いを考えて見なければ、とても理解できないでしょう。
 実際に、真剣を抜いて、眼前に突きつけられれば、その刃先が恐くなります。 そこに真剣にそれを凌ぐ工夫が生れてくるのです。
 実戦では、受けている暇はありません。 相手が、次にどのような変化わざでくるかも分らない。
 そこで、受けの構えそのまま相手を斬るのです。
 これは、私が『用心棒』で、そのまま指導したのです。
 初めに、三船敏郎が、ジェリー藤尾を斬ったときの剣の閃きを見ていただけば分ります。 受けないで斬ったから、あの迫力、真実の立ち合いの味が出たのだと思います。


香取神道流6.jpg


    名優と剣聖

 森川 用心棒で思いだしましたが、先生は、もうかなり、映画や舞台で、剣技を指導されたとききましたが。
 杉野(嘉) ええ初めは戦前、前進座で、幡随院長兵衛をやった時、翫右衛門の十郎左衛門が長兵衛を風呂場で突き殺すシーンで、構えの指導をした。 それが初めでした。
 つぎは、やはり前進座で、高田の馬場の仇討の場面でしたが、中山安兵衛を翫右衛門がやった。
 ところが、その剣技が、初代団十郎や、菊五郎が、舞台でやった通りで、少しも実際の剣にかなっていない。
 それに、初代団十郎の当時には、時代感覚もそれでよかったのでしょうし、それに発明した団十郎の精神がこもっていた。
 ところが、精神がなくて、見よう見まねの古い型だけが残っている。
 これでは駄目だというので、実際の型を教えました。
 そしたら、それで自分流のファイトが出たのでしょう。 剣の型だけでなく、独自な精神もりっぱに入ったということがありました。 さすがに名優だと感心したのですが、この時中津川祐範の使う長刀も、坂東調右衛門さんに教えました。 最近では、やはり前進座に、坂本龍馬の斬られる場面などの剣技を指導しました。
 森川 映画の方では、苦心したのは?
 杉野(嘉) 「七人の侍」の時ですね。 この時は、殺陣師が一人もいなくて、黒沢監督自身が、一人でどうだ、こうだと振りつけているので、これは大変だと思いました。 特に宮口精二さんは、時代劇は初めてで竹刀のもち方も、知らないのだと一人で私の道場に訪ねてきた。
 特別に教えてあげたのですけれど、宮口さんの剣技が一番よかったと大変な評判になりました。
 「隠し砦の三悪人」では、藤田進さんも、わざわざ私を訪ねて、ここに見えられるほどの熱心さでした。
 森川 黒沢組が多いようですが。
 杉野(嘉) ええ、そのほかに稲垣先生の、「巌流島」「一乗寺決闘」「柳生武芸帳」などもみなそうです。
 森川 それでは、お忙しい所を、いろいろとどうも有がとうございました。


 という事で、香取神道流、杉野嘉男先生との対談「逆抜きの太刀を訪ねて」でした。
 現在では兵法三大源流とか、剣術三大源流と呼ばれる、念流、香取神道流、陰流の三流が一つ、という由緒正しい流派ですが、流派成立から約600年もの間、伝統を継いでいるは凄い話です。 まぁ、株式会社金剛組という世界最古の会社(578年創業)があるくらいですし…w
 ウチは基本、極真空手を取り扱いますが、古流にも興味を持って頂けるといいなぁと思いますw
 今回はここまで。 それでは、また。


参考文献:
剣豪列伝集 67号 双葉社 1961年
武道日本(中) 森川哲郎著 プレス東京 1969年
別冊宝島2209 完全保存版 剣豪の流派 宝島社 2014年


 






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