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大山倍達マニアック検定

【古記事】 「二天一流の剣客をたずねて」(1963年)

JUGEMテーマ:格闘技全般
 

 はい、ウチとしては珍しいですが、極真以外で3連発です。
 今回は、またしても森川哲郎先生による対談ですが、これは書籍化されてませんので、結構貴重じゃないですかね。
 二天一流と言えば宮本武蔵。 その宮本武蔵は大山倍達、そして極真にも多大な影響を与えている訳で、道場訓も吉川英治先生監修ですね。

二天一流1.jpg

 そんな宮本武蔵ですが、その道統を継いだ秋満柴光先生を訪ねたのが今記事となります。
 それでは、どうぞ。




まえがき

 二天一流といえば、いうまでもなく剣聖宮本武蔵の発明した剣法の名称である。
 宮本武蔵が、その一生を賭して完成したもので、それ以後もついに、他の追随を見なかったものである。
 だが、昭和の現在その型を正しく伝える者は、きわめて少ない。
 ここに紹介する秋満柴光氏と、女流剣客岩田レナ嬢は、その数少ない人物の中の一人である。
 秋満氏は、熊本で早くから二天一流の免許をとり、さらに東京に出て、荒木又右衛門の流派を学び、荒木流の居合の奥義も究めた。
 さらに、それから流れた本心一刀流においては、現在最高の人である。
 その愛弟子の岩田レナさんは、二十歳。 目を奪うばかり鮮やかな美女だが、その剣においても、出色の人として注目されている。
 レナさんは、最近まで日活の女優をしていたが、いまは思うところあってフリーになり、専ら剣の道にいそしんでいるという異色の女性である。
 その二刀流、一刀流の剣尖は、優美華麗、法にかない、流れるようにみごとである。
 道場は、芸能界の剣人として噂の高い柳家小さん師匠の自宅の道場をお借りした。
 特にその稽古相手として、海老一染太郎、柳家さん吉さんに、お力をかしていただいたことを紙面を借りて、心から謝意を表する。

二天一流2.jpg

    ピアノと剣

 森川 いままでこの剣豪座談会に、宮本武蔵は、必ずといってよいほど引きあいに出される。
 日本の剣豪話には、武蔵は、絶対切りはなせない存在になっているのですが、武蔵の発明した二天一流は、ほとんどその継承者が少なくなっている。
 そのために、いままでこの欄に、ついにとり上げにくかったのですが、幸い秋満先生と岩田さんを得て大変幸せだと思っています。
 秋満 武蔵野二天一流を正確に伝える人は現在小倉にも少ない。
 武蔵が晩年、円熟した境地でふるった二刀流の型というものは、大変ゆるやかな、またそれだけ神韻渺々たるものだったのです。
 武蔵は、二天一流を若い養子の伊織に伝えたのですから、それ以後は、伊織が残した型が、二天一流の正統の型として伝えられているのです。
 これは、かなりスピーディな勇壮なものなのですが。
 森川 岩田さんも、若い女性の身で、このように古い剣道に志したということは、一見実にふしぎなことだと、読者のみなさんも考えることでしょう。
 いったいその動機は、どういうところにあったのでしょう。
 岩田 いまジャズ・スイングのピアノで有名な秋満義孝先生て、いらっしゃいますね。
 森川 ハァハハァ、若手のピアニストとして売り出している。
 岩田 ええ、あの方が、この秋満先生の息子さんなのですのよ。
 森川 ホウ? それはまた全然そぐわない(笑声)
 二刀流とピアノというのは、ふしぎな組み合せですね。

二天一流8.jpg

 秋満 ところが、そうではないのです。 ジャズ・スイングなどというと、柔弱なように聞えますが、私は、義孝には、六歳の時から竹刀をもたせました。
 だから、義孝は、二刀流、一刀流、柔道と一通りこなします。
 妻がピアノをやります関係上、自然そちらに進みましたが、やはり武道をやっているせいか、タッチが鋭いということを最初からいわれました。
 森川 レナさんは、その義孝さんのピアノのお弟子さんだったわけですね。
 岩田 そうです。 それで、義孝先生から、こちらの先生のお噂をきいたのですね。
 それから私剣道に憧れまして、ぜひ真剣にやってみたいという気持になったのですね。
 森川 で、いまは、ピアノよりも、二刀流の方に打ちこんでしまった(笑声)
 でも、美女の二刀流というものはいいものですね。 岩田さんは、さしづめ秋満道場の小天狗というところですね(笑声)

二天一流3.jpg

    武蔵の真価

 森川 秋満先生は、宮本武蔵のことについては、おくわしいと思うのですが、昔直木三十五が、武蔵を非人格者だ。 大した実力はないという風に罵倒したことがある。
 それについて、どうお考えですか?
 秋満 実は、当時私そのことで、直木氏に対して、反ばくの論文を書いたことがあるのです。
 とにかく、武蔵のような巨大な存在になると、いろいろなことをいう人も、後世出てくるものですよ。
 直木さんは、上泉伊勢守にウエイトをおきすぎるために、武蔵を抑えようとする傾向があった。
 森川 今日は、それを一つ一つうかがわせていただきましょうか?
 秋満 武蔵は若い時は、たしかに非情な闘いを数多くやってきています。
 吉岡一門を破った真剣勝負などは、その最高のものだったでしょう。
 しかし、佐々木厳流との試合を最後としてそれからほとんど、試合らしい試合をしていない。
 このころ武蔵は、深く真の剣法について考えるところがあったと思うのです。
 刀法の技の錬磨や修行だけではだめだ。
 それから彼は、絵を海北友雲に師事したとも、天野吉重に学んだとも伝えられていますね。
 とにかく、高い心境を現わすかなりの画境に到達している。
 また彫刻も非凡の技を示しています。
 岩戸山に残っている彼が彫んだ不動像、鞍、鎧、鍔、目貫などは、芸術的にも価値あるものとされている。
 ことに禅の上では、肥後の奉勝寺の名僧春山和尚に師事して、心の錬磨を怠っていない。
 武蔵自身、その間の心境を述懐していますね。
 岩田 "五輪の書"でしょう。
 森川 おや、レナさんも"五輪の書"に通じているのですから、驚きましたね。 武道の専門家ですね。

二天一流4.jpg

    直木三十五の武蔵攻撃

 秋満 武蔵は、五輪の書に、自分の若い日の姿を述懐して、悔悟と慚愧のことばをもらしています。
 『三十をこえて、跡を思い見るに、兵法至極にて、勝つにはあらず。 自ら道の器用ありて、天理を離れざるが故か、または他流の兵法不足なるところにや。 その後なおも深き道理を得んと、朝鍛夕錬してみれば、おのづから兵法の道にあうこと、我五十歳のころなり』
 心の円満ならざる者に、剣の円満はない。 剣の冴に叶うには、まず心が和かでなくてはならぬ。
 武蔵は、このときやっと覚醒したのですね。
 武蔵がなみ大ていの人間ではなかった。 非凡な剣客であったことは、その到達した心境を見ても分ります。
 非人格者どころではないでしょう。 至高の域をきわめていますよ。 彼は。
 森川 直木氏は、徹底的に武蔵攻撃をやっていますね。
 これは、吉川先生の"宮本武蔵"が出る以前ですが、とにかく二刀を使うなどということは、剣の邪道であると、きびしくきめつけている。
 これに対して、秋満さんは、どう考えられますか?
 秋満 それは、直木さんの主張点もいろいろあるでしょうけど、また今後、剣を語る場合に必らず出てくる問題ですから、私もここで明らかにしておきたいと思います。
 森川 そうですね。 剣豪ファンも、その点に、深い疑問をもつ人も多いので、ぜひどうぞ。
 それに、レナさんのような美人でさえ、二刀流に志するのですからね。
 二刀流支持説をこの辺で(笑声)

二天一流5.jpg

    二刀流と一刀流の間

 秋満 二刀流だからといって、必らずしも剣を抜くごとに、二刀を用いなくてはならないという道理はないのです。
 二刀流というものは、そういうものではない。
 決して二刀にこだわらないものなのです。
 武蔵も、
 『つねに当流のものは、試合に二刀を用いよ』
 などということを決して、いっていない。
 機に応じて、小刀を添えて使い、相手を制する。
 それも自然に、間髪の差に動くようにならなければ、二刀は使えない。
 それが二刀流の極意なのです。
 二刀を創案しながら二刀に偏しない。
 筑波山端山繁山しげけれど
    打ち込む太刀は真の一刀
 これが、武蔵の教えです。
 二刀流、二刀流いうから、いつでも最初から二刀を用いていなくてはならないと考えることが、ばかげていて、真の剣法も知らないものです。
 とっさの間、必要なときに、腰の小刀も抜いて制するのです。
 二刀を用いながら打ちこむ太刀は一刀と教えている。
 これは、上泉伊勢守の"精妙剣"柳生流の"神妙剣"塚原卜伝の"一の太刀"伊藤一刀斎の"夢想剣"などと変らない。
 おなじ心技から出た秘剣、極意剣ですね。
 森川 私が思うのは、二刀にとらわれなかった武蔵の心もりっぱですが、真の剣客というのは、その一刀に執してもならないと思うのです。
 それは、沢庵禅師が、柳生但馬守を指導する手紙の中にも現われていますね。
 相手を斬ろうとする太刀に心を奪われると、自分の動きが、自由でなくなる。
 そこを一刀で斬られるということです。
 『鞍上鞍下人なく馬なし』
 という言葉がありますが、真実の極意に達した剣客というものは、剣も、敵も忘れるということでなくては嘘だと思うのです。
 たとえば、剣をもっていなくても、臨機、変に処して、自分を守り得るという。
 秋満 その通りですね。
 実は、武蔵が、その通りだったのです。
 晩年、武蔵が悟入の境地に達してからですが、正式の礼をとらなければならない旅の道中のほかは、みな無腰であったということです。
 剣に信頼するからこそ、油断の心もでるのですね。
 森川 なるほど、その通りですね。
 秋満 なお進んで、無心放心の状態にならなければ、本物ではないと思うのです。
 これが、殺人剣と活人剣の差ではないでしょうか?
 実際には、この間には、大変な開きがありますね。
 森川 やはり、剣聖といわれたほどの人は、こうした境地を示す多くのエピソードを残している。
 たとえば、上泉伊勢守が、一人の浪人者を捕えるため、わざわざ旅僧に粧うて、剣を用いないで捕えたという有名な話。
 塚原卜伝が船の中で喧嘩を売った侍を、奇策を用いて島におきざりにしてきた話。
 これなどは刀を用いず、闘わずして相手を制する境地、をよく示しています。

二天一流6.jpg

    音なしの構えと活人剣

 秋満 高柳又四郎、有名な音なしのかまえを工夫した幕末の剣聖ですね。
 当時、又四郎の難剣は、関東の剣客を慄え上らせたほどの使い手だった。
 これと、松浦常静氏が、街ですれ違ったことがある。
 ところが、常静子は、すでに白髪の老人、思わず又四郎の体からにじみ出す殺気に、ぴたりと足を止めた。
 『近ごろ、"音なしの構え"とやらいう一手を考え出し、処在の道場を荒しまわる高柳又四郎という男がいると聞いた。 その方、高柳だな!』
 又四郎は、いいあてられて、ぎくりと立止まった。
 『いかにも、そうだが』
 といいながら、ぎらりと抜き放った。
 すると、常静子は、重藤の弓しかもっていない。
 それを心形刀流の竜尾の構えにそなえ、高柳の抜き放った太刀先に正眼をじっとそそいだ。
 『なるほど、これはききしにまさる刀法だが、撃剣というよりは、悪剣に近い。 俺ときさまでは、終日、終夜戦っても勝負は決すまい。 剣を引け、俺も引こう』
 常静子は、いって静かに重藤の弓を引いた。
 又四郎も、にやりと笑って剣を引いた。
 すると常静子は嘆じて、
 『好漢惜むらくは、書を読まず、今宵初対面の引出物として、これをつかわそう』
 と、木如意を投げあたえた。
 赤漆の落葉形乾漆まがいに塗り上げたものです。
 このときの心境をのちに又四郎が、友人たちに語っている。
 『それまで、説法されながら、俺は何度も、一刀のもとに斬り伏せてやろうと牙をかんだが、どうしても動けなかった。
 斬りこむどころか、いつ重藤の弓はずが、俺の身体に見まいそうで、ふせぐ気ではないが、どうしても防ぐ構えになってしまう。 大したやつだった』
 『ほほう。 貴公ほどのものがなあ』
 『そうだ。 腕の差は、あまりに歴然としている。 くやしかったがしかたがない。 別れようとするとき、その老人はこういった。 貴公は、殺人剣は修めて、すでにこれを得ている。 今後は活人剣の士風が簡要、自省一番することだぞ』
 『うーむ。 ふり返って一太刀に斬るということは?』
 『ふり返るどころか、脚の奴が第一臆病風に吹かれて、慄えて役に立たなかったよ』
 とにかく秋水三尺の殺人剣と、重藤の弓の活人剣の対決で、老人の松浦常静子の方が勝ったという微妙な勝負ですね。

二天一流7.jpg

    鉄扇と真剣

 森川 秋満先生は、先ほどの稽古でも分りますが、しごく敏捷、柔軟なからだのこなしで、若い人たちをびしびしと打ちすえられている。
 まるで青年のような水々しさだったのですが、おいくつなのですか?
 岩田 先生は、六十四歳なのですよ。
 森川 ほう十歳、あるいはそれ以上若く見える。
 岩田 本当ですわね。
 森川 新免十字の構えなどはよかったな。
 秋満 あれは心形刀流の構えですね。
 森川 先生は、何才のときから二刀流を学ばれたのですか?
 秋満 十六歳の六月一日からです。 以来六月一日をそのまま何でもはじめる日に用いています。
 現在、書道の教師もしていますが、書道をはじめたのも、六月一日です。
 十六歳のときには、米二俵を一時に、軽々ともち上げる腕力をもっていた。
 しかし剣には力を使わないものなのです。
 力を入れてもつから、刀が動かないのです。
 森川 そういえば、先ほど鉄扇をもたれて稽古したときも力を入れずに、実に柔軟に使っておられる。
 さすが美しいものだと感心したのですが。
 岩田 そうですね。 私舞踊をやっていますが、そちらも名取りになっていますが、先生の足さばきを見ていますと、まるで舞踊を見ているように、バランスがとれてきれいなのですね。
 やはり極意に達した人は違うと、ほれぼれするくらいなんですよ。
 秋満 二十三歳で、上京して、東洋大学でインド哲学などを学んだのですが、牛込柳町に道場があった。
 荒木楽山という先生で、荒木又右衛門の一派をついでいる。
 この人は、隠れた本当の名人で、中山博道先生も、到底かなわぬといっておられたほど強かった。
 私は、そこでみっちり剣を学び、ついにその代稽古をするまでになったのです。
 この先生が発明されたのが、本心一刀流という一派です。
 それもわたしはきわめて、免許、門弟最高の位をいただいた。
 これは、二刀、柳生、心形刀流を三つ合せて完成したもので、実にみごとなものです。
 私は、これが本当の剣道ではないかと思っています。
 森川 楽山先生というのは、そのような達人だったのですか?
 その剣さばきを見たかったですね。
 秋満 ええ、立ちあっていても、大変静かで、ふあっと柔らかい。
 猫のような足で、動くが、まるで音がしないのです。
 気がつかないうちに、打ちすえられているというありさまで、だれも手も足も出なかったですね。


(後略/武蔵流スーパーレディ、武勇伝について)


 という事で、森川哲郎先生の連載より「二天一流の剣客をたずねて」でした。
 宮本武蔵は、言わば剣術界のベンチマークです。 達人を語る上で誰それより上か下か、こういう主張の時に必ず出される人物ですね。
 前も書いた気がしますが、空手界だとここに該当するのが大山倍達と本部朝基でしょうw 実際にそれ以上に強いか弱いか、やってもいない事を想像したって、これは実際にやらない限り誰にも分からないです。 でも世に認められた強いとされる人物と比較する事で達人なんだよ、と簡潔に説明する事が出来ます。
 直木三十五先生の宮本武蔵批判というのは、戦前に菊池寛先生と大論争になった批判の事で、武蔵研究には欠かせない論争だと思います。 この論争が切っ掛けで吉川英治先生の「宮本武蔵」が誕生したとされてますね。 興味のある方はこの辺りを調べても面白いかもです。
 今回はここまで。 それでは、また。



参考文献:
剣豪列伝集 82号 双葉社 1963年









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