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大山倍達マニアック検定

【レビュー?】加部究著「"キックの鬼"沢村忠伝説 真空飛び膝蹴りの真実」(2001年)

JUGEMテーマ:格闘技全般
 


 はい、今回は、キックボクシング界最大の貢献者にして英雄、沢村忠の評伝「"キックの鬼"沢村忠伝説 真空飛び膝蹴りの真実」を紹介したいと思います。
 
沢村忠1.jpg

 日本キックボクシング協会の誕生自体は1966年1月ですが、原点となった極真とムエタイの対戦は1964年ですから、今年で50年となりますね。
 それでは、この英雄の足取りを追ってみましょう。 ひょっとしたら、誰も書かなかった沢村忠が紹介出来るかも…w




 まずは目次から。

もくじ

第1章    いつもの光景

第2章    転身
    挑発する男
    緊急事態
    ボクシングからキックボクシングへ
    孤軍奮闘
    運命のサマン戦

第3章    真空飛び膝蹴りの誕生
    剃り落とした片眉
    破天荒なトレーニング
    未知の強敵
    TBSを揺るがす大反響
    高まる注目度
    キック対ムエタイ、敵地での死闘
    穿けなくなったGパン

沢村忠23.jpg
最高視聴率30%を記録したTBSの中継番組

第4章    沢村狂騒曲
    変貌
    ONをも凌いだ人気
    ストップした快進撃
    復調
    モンコントンとの再戦
    予期せぬ大ケガ
    最大の難敵
    レフェリー李昌坤
    必殺技解禁
    かすめた銃弾

第5章    かすかな変調
    茶の間のヒーロー
    転機
    衝撃のKOシーン
    雲の上の存在
    消えた宝刀
    日本プロスポーツ大賞
    生涯最後の敗戦

第6章    消えたチャンピオン
    飛び交う憶測
    引退式
    最高の勲章



 本書は沢村忠の評伝ですが、キックボクシング創始者である野口修がもう1人の主人公として登場します。
 初期のキックボクシングはこの野口のバイタリティと沢村の英雄性が支えて来ました。 どちらが欠けてもキックボクシングはあの時点では成立しなかったでしょう。
 では本書の説明をしつつ、歴史を追ってみましょう。 尚、書き辛いので、文中敬称略w

沢村忠12.jpg
野口修と沢村忠

 沢村忠―本名白羽秀樹は1943年1月に満州の入植者の子として誕生。 本人の記憶には無いでしょうが、敗戦後は1年ほど捕虜収容所に家族と共に入り帰国。 5歳になると中国や満州で唐手(中国拳法だと思われる)を50年学んだという祖父・吉田秀之助より唐手の手解きを受けます。 何の拳法を学んだのか気になりますね。
 50年という事は…日清戦争で従軍された方なんですかね。 1894年7月から1895年11月までが日清戦争ですので、ピッタリ。 退役後に満州が気に入って入植されたのかもです。

 そういう事で家族揃って帰国した沢村は、青山の小中学校に通います。 後に日本空手道剛柔会会長となる山口剛史と同級生なんですね。 ちなみに兄は剛史の兄である山口剛仙と同級生という奇縁。 残念ながら、この頃は一緒に練習した事が無いとの事でした。
 中3になると、新東宝映画養成所の試験に合格し、城哲也という芸名で銀幕デビュー。 しかし悪役ばかりで中々良い役が与えられませんでした。 ドラマ「黒いパトカー」(フジテレビ/1961年)ではロケ中に本物の犯人と間違えられタックルされたそうで、演技力はあったんじゃないでしょうか。 大学時代にはドラマ「人間の条件」(TBS/1962年)に出演したりもしましたが、日大芸術学部映画学科ではシナリオを専攻しています。 結局8本の映画(ドラマ)に出演したそうです。 …ここまで書いて気付いたんですけど、俳優やってたのはあまり知られて無いんすかね? 本書には載ってませんw

沢村忠3.jpg
俳優時代の沢村忠

 しかし、どうも昔の対談を見ると、高校卒業と同時に大映に入社したみたいなんですね。 以下、1970年の対談より。

 生島 昔はあなたは、日大芸術学部でしょう。 シナリオライターになるとかいっていたんだろう。
 沢村 そうです
 生島 どうしてそんなふうに思ったのかね。
 沢村 けっきょく映画関係の仕事でしたから。 照明助手や撮影助手、ぜんぶやっていたんですよ。 で、その元を作りたくなったんですね、映画のスタッフでやってるうちに。
 生島 それはそうだろうね。
 沢村 たまたま、ぼくのついてる作品に、いい監督がいなかったからかもしれないけれども。(笑)で、台本見てああ、このていどの台本なら、あの監督はこんなものだろうと思うと、ぴったりそのとおりなんです。 だからがっかりしちゃって、いっそ自分で元を作ろうという気になったんです。
 生島 小説は書かなかったの。
 沢村 いや、幾つか書いたの持っていますけれどもね。
 生島 日大へ入ったのは、要するにスポーツのほうをやりたかったの。
 沢村 いや、映画です。 映画学科というの、日大しかないから。 大映からいかされたんです。 ぼく、大映の社員だったんですよ。
 生島 ああそう。
 沢村 テレビのほうで、給料もらってたんです。 それで派遣みたいな形で日大へ入ったわけです。 それが卒業する一ヵ月前に野口社長に会って、コロッと変っちゃった。(笑) 大映には申し訳ないと思っているんです。


 ちなみに在学時代には脚本を5本書き、1本は大映が採用して商業作品で使われたそうです。
 さて、良く知られてる通り、この頃の沢村は日大芸術学部の剛柔流空手道部に在籍します。
 この空手部は大山道場と縁深く、1954年に第8代主将となった石橋雅史(本名・石橋雅美/第9代主将も歴任)が大山道場で師範代を務めています。 また第11代主将の南本一郎も…1957年に主将だから、3年の時かな? 独立前の大山道場にて指導員を務めており、大坪健などの日大メンバーが出向いて大山門下を鍛え上げました。

 閑話休題。 色々調べたんですけど、沢村忠は1965年に卒業したと思われます。 同空手道部の部史から在学期間中の関連部分を抜き出してしてみましょう。 名前がイニシャルなのは、OB会でそう記載されているからですので、あしからず。

昭和36年
S 剛柔会関東選手権大会(組手の部)第一位
昭和37年
Y 剛柔会関東選手権大会 第三位
昭和38年
A 剛柔会関東選手権大会 第一位
昭和39年

(※特に記載なし)

 沢村忠の空手時代に欠かせない"蹴りの白羽"という異名があります。 本書でも、また良く知られた経歴として空手時代に約60戦して無敗、いくつもの空手大会で優勝したという話がありますね。 しかし同空手部には入学した年にSという人物が優勝した事が書いてあるのみ。 学生空手道連盟に同部が参加していたかも良く分からないので、断言は避けますが、参加していないのであれば、大学選手権には部として参加してないという事になります。 つまりは、剛柔会の大会のみの参加ですね。
 そしてこのSという人物が沢村…白羽秀樹という可能性があります。 また、1969年に寺内大吉が書いた記事では60戦では無く、26戦26勝となっており、随分と現実味のある数字になっています。 まぁ、あくまでも可能性ですけどねw
 ちなみに在学時にこの空手部に居たのは事実で、前述した南本が代々木公園で沢村に挨拶されたという話をされていますね。

 さて、一方の雄、野口修は1964年に行なった極真VSムエタイ以降、極真会館の大山倍達、日本拳法空手道の山田辰雄といった関東空手界の武闘派と組んでキックボクシングの旗上げを進めます。
 しかしプロモーターとして活躍してきた野口には、海外ルートは持っていても日本人選手を開拓する手段はありません。 そんな時、白羽という大学空手で活躍する選手の名を聞きます。 通説では66年のキックボクシング第1回興行の直前にスカウトしたと言われていますが、実際にはその前年に知り合っています。

沢村忠2.jpg
目黒ジムにあった急所図

 この齟齬はどこで発生しているのか? 恐らくは野口談と沢村談で発生していると思われます。 沢村が語ったと思われる話を準拠にすると、野口にスカウトされてから対ムエタイの特訓をしたというエピソードが出て来るんですね。 具体的な期間は載っていませんでしたが、例えば1971年発表の「"雷鳴の男"沢村忠」では1965年に野口が沢村を知り…先の生島との対談にあった通り大学卒業1ヵ月前(65年2月頃)にスカウトされ以降はトレーニングを積んだという事になります。  更に具体的には96年の東洋ミドル級チャンピオンにもなった事のある後輩の藤本勲との対談に書いてありました。 以下少し長いですが対談より。

――お二人の最初の出会いというのはいつごろですか?
沢村 昭和41年かな。
藤本勲(以下・藤本) そうです。 5月じゃないかな。
――ということは空手の道場ですか。
沢村 いえいえそうじゃないです。 ボクはもう40年の春からキックボクシングを始めてますからそのちょうど一年後、試合の少し前ですね。

(中略)
沢村 彼はそうでした。 僕は40年の春からやってますから、練習もしてたし、野口社長が持ってきたタイ式の試合のビデオを先生にして、毎日見ちゃジムへいって練習していましたからね。 それでいよいよ日本で試合というときに、剛柔流の本部と僕の日大の同級生とか、みんな声をかけて集まって、試合会場へ行くバスに乗ったんです。
(中略)
沢村 ああ、そういうことじゃない。 要はね、野口修会長と前から会ってましたし、それでタイ式がものすごく強いと、日本のあらゆる格闘技はおよそかなわない、という話を聞いたんです。 「そんなのがあるんですか」いうことがきっかけですから。 試合はいきなりやってきたわけじゃないですよ。 一年後です。
 僕は一人で野口社長が買ってきたビデオを見て、目黒ジムっていうか、当時の野口拳でね、ボクシングの練習が終わった後、8時ちょっと過ぎくらいから一人で練習。 もちろん野口社長もきて、もっとああだ、こうだということはあったけれど。
 で、ボクシングのサンドバッグっていうのは、ボクサーのほうは手だけでしょ。 それを彼らがいるのにバァーッと蹴ると嫌な気もするんじゃないですか。 そういうんで随分、遠慮もありましたよ。
――だから、ボクサーが帰ってから……
沢村 そうですね。 それまでは縄跳び、柔軟体操が長くて、だいたい(ボクサーの練習が)終わったらはじめて……。
――生でムエタイを見るよりビデオで先にみたんですね。 生でムエタイ選手を見たのはいつですか。
沢村 大阪の試合(昭和41年4月11日・大阪府立体育館)の前に来たな。 それで初めて見たんだから。 3月か4月頃かな。 ラクレイね。


沢村忠6.jpg
目黒ジムが出来るまではここで練習していた

 だから、現在市販の映像で確認出来る沢村の第2戦では割とキックっぽい動きをしてた、という事ですね。 最初から準備してたんです。 このデビュー前の練習については本書でも語られているんですが、筆者がデビュー後の事と一緒にして混同している気がします。
 この時期の野口は66年のキック旗上げに向けて活動していたのは前述の通りですが、その際に宣材として極真の映像を持って行っていた可能性があります。 かつて「ゴング格闘技」で出版した大山道場の練習風景や藤平昭雄戦の収録されたビデオ「実録! 大山道場」(DVD版はUPPERSより「実録! 大山道場&黒崎健時」)がそれじゃないかな。
 1966年1月30日、野口は遂に日本キックボクシング協会の旗上げを宣言します。 この時の副会長が大山倍達だったそうなので、約2年掛かって結実したんでしょうね。 本来の予定では64年の5月頃に旗上げでした。この時期に旗上げ出来ていたら日本初のキックボクサーは別の人間が、そしてあそこまでのブームとはならなかったかも知れません。

沢村忠5.jpg

 しかし、恐らくは野口は情熱だけで突っ走る男では無かったのでしょう。 NET(現・テレビ朝日)では「ワールドボクシング」向けにプロモーターとして外国人選手を用意して来た実績があります。 テレビメディアが必要だと最初から理解していたのでしょう。 66年にはその見通しが立ったという事か、もしくは協力体制にあった大山と山田と野口の関係が限界に来ていたのかもです。 結論から言えば、大山はキック第1回興行前にこの体制から脱退し、「日本キックファイト協会」という別の組織で空手のプロ化を目指します。 山田については不明な点も多いので、ここでは触れません。
 66年4月11日、大阪には沢村を始め、…先のインタビューを信ずるなら、剛柔会本部や空手部のメンバーがバスに乗って来阪し、恐らくはこの興行に参加した、という事になるでしょうね。 野口も沢村が人を連れて来たと語っています。
 この時にかつてタイでムエタイ選手をKOし、野口が熱心にスカウトしたという極真の中村忠にあやかって沢村忠と名付けられた、と言われていますが実際には不明。96年の「フルコンタクトKARATE」によれば、信頼の置ける人物から聞いた話として以下の事が書かれています。

 キックボクシングの興行の記者会見を野口が行った時、実は関係者しか知らない"勧進帳"のようなエピソードがあった。
 その席上、野口は何も書いていない白紙を手に、記者たちを前に会見。 メインエベンターの名前もその場で沢村忠と発表した。
 結果、メインエベントをつとめた選手が、沢村忠というリングネームで登場することになった。


 中村の事が野口の念頭にあったのかも知れないし、無かったのかも知れないですが、あやかって、というほど考え込まれた名前では無かったかもですw 同誌のインタビューでも野口はこう答えています。

 リングネームは私の考えで、今までのスポーツ界に出てきていない名前で、覚えやすくて、すがすがしいイメージということで、沢村忠とつけたんだよ。

 記念すべき第1回興行、沢村の相手はラクレー・シーハヌマンでした。 三流とか五流とか、日本における通説では大した事の無い選手として描かれています。 しかし本書にもある通り、ムエタイでチャンピオンになった実績もある実力者です。 試合そのものは沢村が、当時の新聞によれば3回50秒で喉元を飛び蹴りで蹴ってKOしたとあります。 本書においても大した事が無い選手の様に書いてありますが、実際の当事者はどう思ったのでしょうか。 30年後の野口はこう語りました。 「沢村がどうにか勝った。 俺に言わせりゃ、どうにかだけども」
 そして沢村はこう語ります。

沢村忠14.jpg
初興行

――沢村さん、1戦目はKOできたんですよね。
沢村 ああ、もうラッキーでしょ。 単純な。
――本によると、相手は余裕でノーガードできて……。
沢村 それは、なめてきたんですよ。


 いずれにせよ、この時の沢村はまだ真のムエタイの実力を知らなかったんですね。 身を持って知るのは第2戦目、リキ・スポーツパレスで行なわれた第2戦目、サマン・ソーアジソンとの対戦でした。 この試合は映像が残っており、後に野口の営業でTBSの「東急サンデースポーツ」(以下「サンデースポーツ」)で放映されたらしいのですが…正史では初放送はこの試合じゃないんですよね。 しかし、空手着を着た沢村が4回2分53秒でKOされ、キックボクシングに開眼したという点から、最も有名な試合だと言えるでしょう。

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 沢村は16度のダウン、37箇所の打撲と奥歯が数本折られるという、文字通り完膚無きまでに伸ばされてしまいます。 この試合まではまだ旗上げして間も無い競技であり、ゴールも分からない世界だった事から、沢村も選手としての意識もプライドも薄かったのでは無いでしょうか。 この試合を契機に空手着というギミックを棄て、本格的にキックボクサーとしてやっていく事になります。 また後に明かした所では、この試合後に空手に戻ろうと考えていたと言います。
 また、サマン戦の同日にデビューし日本人選手にKOされた藤本もまた、この道でやっていこうと思い、共に合宿生活に入ります。
 野口ジムには日本ライト級チャンピオンの染谷彰久が居た事から、スパーリングをしてボクシング技術の習得に励み、タイで修業する為に野口の知人で極真の遠征時にも世話をした歯科医のマノロン新野を通じてユール・ブンラット(ブンラートとも)の元で修業に励みます。 国内では野口と共にテレビ局を廻りキックの営業。 借金取りが来て難儀した事もあったと言います。 しかし苦しい時期ではあったものの、この辺りで後の代名詞となる「真空飛び膝蹴り」を完成させたみたいですね。

 転機は67年2月16日、東洋王者決定戦でした。 モンコントン・スイートクンとの試合です。 この試合はTBSでの放送が決まっており、解説として呼ばれた寺内大吉はその後長い間TBSの中継で解説者として君臨します。 結果は沢村のKO勝ちでしたが、これが運命を変えました。

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 TBSの「サンデースポーツ」は日曜日午後4時半の1時間枠。 平均視聴率が3%を超えない同枠で、この試合は倍の6%を叩き出しました。 しかし、この時話題になったのは沢村のKO決着の試合だけで無く、藤本勲と木下尊義の試合だったと言います。鮮血飛び散る強烈な印象を与える試合だった様で、TBS社内では下品だと否定的な意見が、そして視聴者からは賞賛の問い合わせが殺到します。 また、同局ディレクターの松岡はこう語っています。

 「藤本さんの試合を見て、これはいけるとなったんです。 だからブームを作るきっかけになった試合と言っていい」

 正式に放送が始まるのは良く68年9月、毎週月曜のゴールデンからになりますが、この反響は最初のブームの兆しでした。 その後も度々「サンデースポーツ」ではキックの試合を放送します。 そして、解説者の寺内は67年10月の浅草公会堂での興行をこう回想します。

 ぼくは列に添って歩き続けた。 何と浅草公会堂の入口へ呑みこまれているではないか。 みんなキック見物のファンだったのだ。
(中略)
 様相が一変した。 ファンは嘘みたいに熱狂した。 沢村の一挙手一投足に酔いしれた。 新種のスポーツがファンに浸透するまでには、これだけの時間と手順が必要なんだな、とあらためて思い知った。

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 しかしこの時期、まだキックボクサーで食う事は不可能でした、そこで沢村は日本橋の穀物取引関係の会社に就職します。 後援会が出来るのが68年、未だ日本キックボクシング協会は成功への細い道を進んでいる最中だった訳ですね。
 68年、キックボクシングはブレイクします。 同年5月の「サンデースポーツ」では、遂に15%の視聴率(22%かも)を叩き出し、9月の番組改編時にレギュラー放送となる事が決定。 新しいスポーツの成功を見た協同プロは、独自にキックボクシングの興行を始め、翌69年1月にはNTV(日本テレビ)でレギュラー放送が始まります。
 雑誌メディアで紹介される回数が増えたのもこの時期です。 「週刊少年マガジン」では梶原一騎が67年より目を付けていた様で、2回ほど記事を書いていますね。

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1967年の梶原一騎の記事

 9月には沢村がタイ遠征でポンチャイ・チャイスリアと対戦、大激戦を繰り広げてドローに終り帰国すると、一気に爆発しました。 無名のスポーツの無名のチャンピオンが、本場タイの強豪と引き分けての凱旋帰国。 実力は本物だという証明がなされたのです。

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本場タイでの大激戦

 凱旋試合初のレギュラー中継、相手はアメリカのジミー・ゲッツ。 この試合は視聴率20%を突破、その後も常に高視聴率を叩き出す優良コンテンツとなりました。
 10月には野口ジムをようやく出て目黒ジムが完成。 やがて千人近い選手や練習生が殺到し、ガラス張りのジムには多くのファンが一目沢村を見ようと押し掛けます。 ジムのあった権之助坂では渋滞が発生し、警官が交通整理をしたとも伝えられています。

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一世を風靡した真空飛び膝蹴り

 1969年、沢村に1万5千通の年賀状が届くほどの人気を得ると、爆発的人気のコンテンツを他局は放っておけませんでした。 1月にはNTVが、4月にはNETが、8月になると東京12チャンネル(現・テレビ東京)が放送を開始し、4局が争うという異常事態。 しかし梶原が沢村をモデルとした「キックの鬼」の漫画を連載し、後にアニメ化と、他を引き離す人気を獲得。 この年にキックボクシングの本が2冊出ていますが、この2冊しか出なかった事を考えると、この時期がまさしくピークだったのでしょう。 特撮番組へのゲスト出演や他局であるNETのドラマにゲスト出演したりと、大活躍しています。

沢村忠15.jpg

 ハードスケジュールだった沢村限界説が言われ始めたのはこの時期です。

沢村忠9.jpg

 同年1月16日から5月31日までに沢村がこなした試合数は実に28。 5月には沖縄2連戦を含め、10試合です。 6月には日本武道館へ初進出。 1万2千人の観客を集めますが、疲労は限界にまで達していました。
 流石の沢村も、8月にはダメージが累積した事もあって入院し、9月は予定されていた8試合の内、6試合をキャンセル、2試合のみの興行と、休養を取ります。

沢村忠27.jpg
28連勝の内訳

 そして同一コンテンツ乱立によりキック界は低迷しつつありました。 TBSの平均視聴率だけは15%近くありましたが、他局は落ちています。
 ポスト沢村の期待が寄せられデビューした大型新人、アニマル富安の2戦目が、観客のトラブルにより放送中止になったり、協同ジムのマネジャーがマリファナ密輸事件で逮捕、八百長疑惑などキックボクシング界に暗雲が立ち込めます。 しかし、69年の沢村は休養を挟みながら1月のカンナンパイ・ソンポーン以降、67連勝と大いに気を吐きます。 レコードデビューして4万枚売ったのも69年でした。
 70年、まずNETの「ワールドキックボクシング」が脱落。 NTVの看板選手の1人、大沢昇が目黒ジム 目白ジムに移籍し、東京12チャンネルに映る様になります。 やがて、協同プロと岡村プロが組んで、大体2つの流れになり、離合集散を繰り返しますが、今回は触れませんw

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 そんな中、沢村は100勝目を達成し、「キックの鬼」として確固たる地位を築き上げます。 本書ではタイに建設された目黒ジムとそれに関するいざこざについても書いてありますね。
 同年8月、ビサヌチャイ・スワンミサカワンを4ラウンドKOで下す100連続KOの偉業を達成、10月には「キックの鬼」がアニメ化と再び低迷していたキック界を盛り上げます。

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 71年は1月から視聴率30%を記録し、日本キックボクシング協会の興行がアメリカで行なわれ、また憧れの美空ひばりと面会、プライベートでは熱愛報道と、ゴシップ系のネタになるほど絶大な人気を誇り、順風満帆でしたが、72年4月、パナナン・ルークパンチャマと対戦して4ラウンドでKOされます。 実に134連勝中の出来事でした。

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憧れの美空ひばりと

 72年という年は、沢村が年間収入で推定3千万円と、プロスポーツ選手部門で5位に入るという話題を残してはいますが、飛び技が出なくなり、堅実なスタイルに変貌し、メディアでは酷評されていた時期です。 30を前にして、沢村の肉体も限界を迎えようとしていました。
 73年、身体に鞭打ちながら激戦を闘い抜く沢村は10月、実に2年4ヵ月振りに真空飛び膝蹴りでKO。 沢村未だ健在、をアピールし、遂には日本プロスポーツ大賞で内閣総理大臣賞を受賞します。 野口プロ所属の五木ひろしもレコード大賞を獲得したので、ダブル受賞で目黒ジムは沸き立ちました。

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 74年、沢村はハードスケジュールをこなしつつ連勝を重ね、翌75年1月、最後の飛び膝蹴りKOを観客に披露します。 この頃になると業界ではキック統一チャンピオンの機運が高まり、台頭して来た目白ジムの藤原敏男との統一戦が取り沙汰されます。

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 そんな中、7月のチューチャイ・ルークパンチャマ戦で衝撃的なKO負けに喫します。 もう沢村は限界でした。 翌76年1月の、野口ジム25周年記念大会に参戦し、7月2日、デビュー戦の地である大阪府立体育館でダビチャイ・ルットチョンをKOで仕留めると、希代の英雄はそっとリングを去ります。

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チューチャイ・ルークパンチャマ戦

 しかし、沢村は引退を広言しておらず、目黒ジムもまた休養中と告知したのみ。 この間、沢村廃人説を始め、多くの噂が飛び交います。

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引退式

 沢村はケジメだけは付けようと思い、77年10月10日、後楽園ホールで引退式をする事になります。 沢村は感謝の意をファンに伝え、また活躍中の選手をリングに呼び彼らへの声援を頼み、10カウントを聞きました。

 その後の沢村は、知人のツテを頼み自動車修理工場で人生を一からスタートさせます。 車は現役時代から趣味だったので、趣味を生かした人生を歩むつもりだったのかな。 この間も沢村廃人説や死亡しただのと、色々な噂が流れました。 79年にはルポライターが沢村の足跡を追ってみましたが、野口との確執など、周辺事情を書いただけで、結局本人は捕まらず。
 こうして淡雪のように消えた沢村は、1989年の「Number」でインタビューを受けるまで実に12年もの間、あれだけの英雄が市井に埋もれ、誰も気付かなかった訳です。

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1989年の沢村忠

 沢村を失った後のキック界は、それ以降も名選手、名勝負が繰り広げられ、藤原敏男が初の外国人ムエタイ王者になったりと、多くの話題があったにもかかわらず、あの輝きは取り戻せませんでした。 70を超えた沢村は、今のキック界をどう見ているのかは不明ですが、今も尚、キックボクサーとして闘う選手達の流す汗の一つ一つが、沢村忠という希代の英雄の勲章では無いでしょうか。

沢村忠26.jpg

 そんな思いに馳せる事が出来る本書を是非オススメします。


 という事で、加部究著「"キックの鬼"沢村忠伝説 真空飛び膝蹴りの真実」でした。
 …いや、今回は割とレビューになってないっすね…。
 ごめんなさい、最後に一文取って付けましたw
 まぁ、これがウチのブログだっつー事で、詳しくは本書を読もう!
 
 公称241戦232勝5敗4分(228KO)――実際にはそれ以上試合をこなしたという化け物じみた戦績を残した英雄、沢村忠の事をちょっと書いて見たかったんですよね。 八百長だとか、色々言う人もいますけど、一選手としてこれだけの影響を世間に与えた選手はそういないと思います。 近年で言えばイチロー以上の扱いだったんじゃないですかね。 でも評伝が1冊しか無いというのは、ちょっと納得行かない。 キック創世記は団体別で本を出して欲しいほど、様々な名選手がいました。 キック史の本を希望します。 誰か書いて下さいw
 今回改めて資料を読み返して、興味深いなぁと思ったのは1970年の時点で終身成績を250戦だと発言している事ですね。 実際には公称241戦でしたので、ほぼ本人の予定通りだったと言う事になります。

 今回は敢て、誰も書かなかった沢村忠をピックアップしてます。 残りは本書にお任せするとして、その辺りが補完出来てたならいいなぁ。
 ちょうど先日高倉健が亡くなったので付け足しますが、多分キックボクサーになって最初に出演した映画は68年10月公開の高倉健主演映画「ごろつき」で、キックを教える役だったそうです。
 また、本文では書きませんでしたが、自動車工場を営みながら、空手道場で指導をするなど、沢村忠は武道家としてその後を過ごしています。

 今回はここまで。 それでは、また。

※追記(2012/12/4):大沢昇の移籍先を修正しました。


参考文献:
週刊現代 1964年4/23号 講談社 1964年
週刊少年マガジン 1967年35号 講談社 1967年
週刊少年マガジン 1967年38号 講談社 1967年
月刊ゴング 1968年12月号 日本スポーツ出版 1968年
月刊明星 1969年1月号 集英社 1969年
高一時代 1969年1月号 旺文社 1969年
朝日ジャーナル 1969年14号 朝日新聞社 1969年
月刊ゴング 1969年2月号 日本スポーツ出版 1969年
週刊平凡 1969年32号 平凡出版 1969年
週刊ファイト 1969年4/25号 新大阪新聞社 1969年
週刊ファイト 1969年6/25号 新大阪新聞社 1969年
週刊ファイト 1970年1/15号 新大阪新聞社 1970年
月刊ゴング 7月号増刊 キックボクシング特集号 日本スポーツ出版 1970年
週刊明星 1971年5/17号 集英社 1971年
月刊ゴング 12月号増刊 キックボクシング大特集号 日本スポーツ出版 1971年
月刊ゴング 1972年11月号 日本スポーツ出版 1972年
月刊ゴング 1974年3月号 日本スポーツ出版 1974年
月刊ゴング 1974年5月号 日本スポーツ出版 1974年
月刊宝石 1979年12月号 光文社 1979年
ゴング格闘技 1988年5月号 日本スポーツ出版 1988年
スポーツ・グラフィック・ナンバー 1989年5/20号 文藝春秋 1989年
月刊フルコンタクトKARATE 1996年4月号 福昌堂 1996年
ジュニア入門百科 キックボクシング 宇津球道著 ひばり書房 1969年
カラー版ジュニア入門百科 キックボクシング入門 北川衛著 沢村忠監修 秋田書店 1969年
フルコンタクトKARATE別冊 格闘王6 ムエタイの本 福昌堂 1996年
蘇る伝説「大山道場」読本 日本スポーツ出版 2000年
"キックの鬼"沢村忠伝説 真空飛び膝蹴りの真実 加部究著 文春ネスコ 2001年
キックボクシング入門 ベースボール・マガジン社 2003年

参考映像:
キックボクシング TBS 1969年〜1977年
驚きももの木20世紀 テレビ朝日 1999年
キックの鬼 沢村 忠 UPPER 2003年

参考リンク:
黒いパトカー (2014/12/03)
人間の條件 (2014/12/03)
日本大学藝術学部剛柔流空手道部 OB会 (2014/12/03)
KICKBOXING ARCHIVES (2014/12/03)
『亀谷長保 Choho Kameya 最強説を唱える人間のmuaythai & kickboxing history』 (2014/12/03)


関連リンク
沢村忠監修「キックボクシング入門」(1969年)
【レビュー】「ジュニア入門百科 キックボクシング」(1969年)
【古記事】「タイ式拳法 日本に上陸」(1964年)









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コメント
キックのテレビ放映でヤンチャ少年たちのケンカの仕方もかわりましたね。
相手の首根っこを抱えてチャランボとかw。
ハイキックをやろうとして軸足が滑って背中から落ちたり。
空手バカ一代、ブルース・リーよりも前に影響受けていたんだなぁ。
あ、ヤンチャ少年は自分ではないです(笑)

読みごたえ有りました。ありがとうございます。
  • サミ
  • 2014/12/04 7:38 PM
>サミさん

そうか、最初に回し蹴りを見て知ったのはキックボクシングになる人が多いんですねw
喧嘩にも影響を与えたというのは面白い話です。
最近聞いた話だと、街の喧嘩でタックルする若い子がいるらしいという事なので、時代によってやっぱり技術の変遷があるんだろうな…w
  • Leo
  • 2014/12/04 9:04 PM
沢村さんのレビュー、ありがとうございます。特に日大時代の戦績など、大変勉強になりました。

自分は「沢村忠」の直撃世代ではないのですが、過日、お会いすることができた氏の、物静かながらハツラツとされた雰囲気に、年を取られても、さすが一流のスポーツ選手の風格を備えられている人だと、まざまざと感じさせていただきました(現役当時は王・長島と並ぶ人だったわけですから)。一緒に撮らせていただいた写真と握手をした温もりの思い出は、今も大切な宝物となっています。
お会いした当時は、子供たちを相手に空手を指導されていると聞きました。やはり、氏の原点として「空手」への思いは、強かったのだろうと思います。
  • 通りすがりのマニア
  • 2014/12/05 5:00 PM
昔、自分の学校の生徒と話していたら「その人ならウチの自動車工場にいますよ」と、特別のことでも無いように言われて驚いたことがありましたw
  • 天下泰平
  • 2014/12/05 8:35 PM
試合の内容には?なのがありますが、スパーリングした人達は皆“沢村忠は強かった”と、おっしゃいますね。
  • やいや
  • 2014/12/06 12:40 PM
ちょっととりとめない話かもしれませんが
沢村忠氏と山崎照朝氏、よく比較されますね。
沢村氏が勝てなかったカナンパイ、サマンソーに山崎氏が
勝っているかから山崎氏のが強いという説もありますが(主に梶原
漫画、極真系)、一部のキック通、関係者からすると沢村対戦時から
カナンパイ、サマンソーもブランクがあり落ち目の時の話だから参考にはならないという意見もあるようです。
まー、勝負の三段論法は論じあうと際限ないですが、月並みな言い方では「やってみるまでわからない」言ったところでしょうか。
  • オールドキックファン
  • 2014/12/06 3:37 PM
アニマル富安、実は、私の親戚が当時伊豆でキックジムを主宰していた時に在籍していた選手でした。
ジムは平田ジムでした。
当時私は7歳でしたが、そこで初めてサンドバッグを叩きました。
それから、45年今もサンドバッグを蹴り叩いています。
  • tokibudo
  • 2014/12/07 8:45 AM
>通りすがりのマニアさん

そうですね、確かご本人も武道家にまた戻る事が出来たのを誇りにされていたかと思います。

>天下泰平さん

うわ、思わぬ所で凄い話を聞いてますねw

>やいやさん

まぁ、試合内容の疑義はともかく、弱いという話は聞いた事無いですね。

>オールドキックファンさん

69年当時から比較はあったみたいですね。 新聞記事にもなってたし。
ただ、勝負はやってみないと分からないでしょう。 ましてや、山崎先生の試合は極真での試合しか見た事無いので、グローブマッチでどんなものか分からないです。

>tokibudoさん

確かに平田ジムとありました。
継続は力なり、ですね。
  • Leo
  • 2014/12/07 6:42 PM
追記
>オールドキックファンさん

当時の記事では、NTV、東京12チャンネルのキック関係者や選手30人ほどに聞いて廻った所、3分の2が「山崎の方がやや強い」という結果だったそうです。
レフェリーをやっていたウクリッド・サラサス氏が言うには、タイ人は「山崎が一番強い」との事。
しかし、山崎先生本人もやってみないと分からないと言ってますからねw
  • Leo
  • 2014/12/07 6:48 PM
確か平成7年頃のゴング格闘技でサマンソー・アジソンのインタビューで山崎は優れた選手だと述懐してましたね。
沢村との比較論法的には語ってなかったと思います。
  • オールドキックファン
  • 2014/12/07 9:25 PM
>オールドキックファンさん

あ、言葉足らずでした。
サラサス氏は去年「東京中日スポーツ」でやってた「空手バカ一代記」で、「タイ人選手が言うには」と言う発言をしていました。
具体的に誰と比較したとか、誰が発言したとはありませんでした。
  • Leo
  • 2014/12/09 10:50 AM
これもであればの話ですが
山崎vs沢村戦は沢村vs藤原戦と同じように、話が持ち上がっても実現には至らなかったと思います。
大山館長と野口氏との当時の関係からして
双方の看板選手だから
  • オールドキックファン
  • 2014/12/09 2:32 PM
ロッキー藤丸と藤原敏雄と試合する話があったそうですが、ロッキー藤丸はそんなに強かったのてすか?
  • やいや
  • 2014/12/09 7:29 PM
第一戦の写真をみたことがありますが、猫足立ちで構えてしびれますね、御輿にかつがれて入場したとか。
(・ω・)紛れもなく英雄です、真剣勝負師だと思います。

ちなみに武道通信テレビのトークにこういうのが
風間健さん
『私が当時キックに上がり始めたころ沢村忠に挑戦するという話題になりたくさんの企業が協賛してくれました当時のファイトマネーはいまでいえば数十億ですよ』
  • ぬこやなぎ
  • 2014/12/10 12:27 AM
風間氏の発言はかなり虚言的な部分も多いと思いま。
大山館長の対ディックリール戦もアメリカに行き調べたところ、証拠は見つからなかったと言っていたし。
他人の過去を中傷する気ではないですが、風間氏のキック時代の戦績はそれほどではなかったと思います。
デビュー当時は少林寺拳法3段、東海の麒麟児ということで鳴り物入りでキック界にデビューしたがタイ人相手に3連敗。山田ジムの増沢潔にはKO負けしているし
当時のキック界では対沢村戦の話が持ち上がったのは藤原敏男だけだったと思います。
山崎照朝の場合、関係者、ファンが沢村より強いのではないかと言われた位で。

  • オールドキックファン
  • 2014/12/10 11:13 AM

沢村 vs 風間のファイトマネーが10億円。

タイソンもびっくり ( ̄O ̄;)

  • 通りすがりの厳つい男
  • 2014/12/11 7:38 AM
ソースは?
当時の沢村の1試合あたりのファイトマネーは
100万無かったと思うけど。
  • 通りすがりの野次馬
  • 2014/12/11 11:58 AM
カザマさんは色んなところで?なことをおっしゃってトラブったりされてますが、70年代くらいまでの武道家はだいたい大きなことを言われるので、その辺は割り引いて聞いたほうがいいと思われます。
  • やいや
  • 2014/12/11 4:24 PM
そんなところでしょうね
  • 通りすがりの野次馬
  • 2014/12/11 8:12 PM
>やいやさん

ロッキー藤丸は日本ライト級のタイトルを取ってますね。 それ以上は知りませんw

>その他まとめてw

厳つい男さんのは風間健に対するキツイ皮肉ですねw

では、70年代の日本キックボクシング協会のファイトマネーを見てみましょう。

沢村忠の義父によれば、1試合辺りのギャラは30万円。 一番稼いだ年でも年収3000万くらいです。
他の選手はと言いますと…。
チャンピオン(挑戦者も):15万
1〜3位:8万
4〜5位:7万
6〜7位:5万
8〜9位:4万
10位:3.5万
4回戦:2.5〜3万
激励賞:平均4〜5万
この内33%をジムに持って行かれます。
ちなみにTBSからの放映権料が年間で1.3億。

で、風間健の生涯戦績は36勝18敗4分(31KO)で、無冠に終わっているらしいので、どれだけビッグマウスを持っていたとしても、沢村忠との対戦の機運が盛り上がる訳も無いですし、何十億円ものファイトマネーが出るとは考えられません。
PPVも無い時代、全世界衛星中継を打ち出しても海外は買わない試合ですし、アントニオ猪木VSモハメッド・アリ戦ですらそこまでのファイトマネーにはなりませんでしたw
  • Leo
  • 2014/12/11 9:56 PM
s45年8月号ゴング 風間氏特集
沢村選手?1,000万出すからやってみろという後援者がいるんですよ。
やらしてくれと書いてください。やるならライトリミット迄落としますよ

本人の自己申告インタビューのみで後援者の名前も出さない
当時から虚言癖があったみたい
  • オールドキックファン
  • 2014/12/11 10:26 PM
皆さまにすこし誤解させてしまいました。
風間氏によると沢村さんとの対戦話においてたくさんスポンサーが名乗り出てファイトマネーが4000万だったようです。
(゜o゜)ラーメン15円の時代ですから、現代換算するとの説明が足りませんでした☆☆☆
  • ぬこやなぎ
  • 2014/12/12 12:25 AM
>オールドキックファンさん

確認しましたw 錦が20万のファイトマネーで、それ以下のファイトマネーを貰っていた頃に1000万って言ってたんですねw

>ぬこやなぎさん

1970年頃はラーメン1杯、160円強だと思いますw
15円と言うと…終戦直後になるんじゃないかな。 1958年に出た即席麺のチキンラーメンが発売当初35円でしたから、それ以下になる事はまず無いでしょう。

通貨価値で大体今の2分の1くらいですので、仮に4000万だとしても1億行かないくらいだと思います。
  • Leo
  • 2014/12/13 3:17 PM
(∩゚Д゚)かけそばの間違いだったかな笑……
いや小生が間違いました、お騒がせしましたです。

数十億はないですね☆
  • ぬこやなぎ
  • 2014/12/14 2:29 AM
しかし沢村忠八百長説ってのは、一体どこから出てきたんですかね?

確かにウィキにそれらしき記述はありますが、それだけを以て全部まとめて判断するのも何ですし……
だから出所はなるべく詳細に記載してくださいって話で。
  • 葬流者-SOULDIER-
  • 2016/09/08 8:46 PM
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