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大山倍達マニアック検定

【古記事】 三船久蔵十段インタビュー(1964年)

JUGEMテーマ:格闘技全般
 


 はい、今回は講道館が生んだ天才、三船久蔵十段の記事を紹介したいと思います。
 出演者は以下の通り、三船久蔵十段、高田徳重五段、金子宏三段。 インタビュアーはお馴染み、森川哲郎先生です。

三船久蔵1.jpg

 それではどうぞ。




 剣聖という言葉がある。
 剣の世界で、文字通り最高峯に達し、強者の域を通りこし、達人よりさらに高い。
 剣を用うる聖人という意味である。
 現在、そう呼ぶ名にふさわしい人がいるであろうか?
 もし躊躇なく、そういう言葉を用いて惜しみない人がいるとすれば、柔道界の三船十段ぐらいであろうといわれている。
 (中略)
 事実、三船十段は、創始者嘉納治五郎先生とともに、力をあわせ、苦心研鑽の末、現在の講道館柔道をつくり上げた名人である。
 十段は、今後永遠に廃位になったので、最後の十段でもあろう。
 いずれにし、講道館の歴史が残る以上、永遠に忘れられない柔道界の巨星である。
 (中略)

    鬼横山と三船十段!

 森川  お忙しいところを、特に時間をさいていただき、三船先生の御一生の歴史的価値あるお話しをきくことができて、望外のしあわせです。
 先生は、満八十二才といわれると、明治十六年のお生れになりますね。
 柔道生活何年になりますか?
 三船  ちょうど六十五年になります。
 明治三十一年、仙台中学に入って以来五年間、さらに上京して、講道館に入ったのが、明治三十六年のことですから、それから六十一年間ですね。
 その間、私は、ただの一日も、柔道の稽古を行なわない日はありませんでした。
 つまり休んだ日は、事実一日もなく、六十五年間皆勤ということです。
 (中略)
 三船  私は、こうしようと思うことは、必ず実行した。
 私の考えでは、武道ということは、まず己に勝つことである。
 人に勝つということは、決してただの一度も考えたことはありません。
 人の力は分らない。 どんな強い奴がでてきて、あるいは勝てないことがあるかも知れない。
 しかし、自分さえまけなければ、人に決して敗れることもない。
 そこで、絶えず、自分に勝ちつづけることだけを目標として、修業してきたのです。
 そして、事実私の過去にただの一度も人に敗れたことのなかったことは、その修業方法の結果であると考えています。

三船久蔵2.jpg

 高田  武道哲学ですね。 柔道とは自分に勝つことである。
 事実、先生は、その生涯を通して、ただの一度も、おくれをとったことはない。
 敗れた記録はまったくないのですから、これは大変な記録です。
 講道館の歴史を通じて、あるいはこの記録は一人もいないのではないでしょうか?
 今後も、恐らくこの実績を破る人が現われるとは、到底思われません。
 やはり、それだけ、歴史的な実績を残された方です。
 森川  先生は、鬼横山、往年の講道館四天王、西郷四郎、富田常次郎、山下義韻、横山作治といわれた、その鬼才鬼横山の愛弟子だとききましたが。
 三船  よく、そういうことを聞かれますが、実際は、とくにそういうことではないのです。
 私は講道館の直弟子で嘉納門下です。
 ただ、横山さんには、とくに目をかけていただいた。
 ただ、あの人の指導をいつも、うけたというわけではありません。
 横山さんとの因縁は、こういうことです。
 中学を終えて、講道館の名声にあこがれていましたから、上京して、柔道家になろうと考えていました。
 そこで、実力随一と評判の高い鬼横山の噂を聞き、頼ろうと思ったのです。
 そこで上京して、真直ぐに、横山先生の道場を訪ねて行ったわけです。
 (中略)
 とにかく、私は、田舎からとびだした書生姿で、一本の紹介状もなしに、先生の道場へとびこんで行ったのです。
 『先生におあいしたい』
 (中略)
 すると、横山先生が、恐い顔をしてでてきました。
 『君は何だ。 何の用があってきた』
 『講道館に入門して柔道家になりたいのです。 先生の御指導をうけたくてまいりました』
 『柔道家になるということは、到底生やさしいことではない。 お前は、だれかの紹介状でももってきたのか』
 『そんなものはありません』
 『ばか者! 一人で訪ねてくる奴があるか? 帰れ!』
 私は、むっとしました。
 『失敬します』
 と思わず帰りかけて、引き返した。
 『すると先生、だれかの紹介状があれば、必ず入門させていただけるのですね』
 『そうだ』
 『では、その紹介状をとってまいります』
 そういって外にとびだすと、歩きながら考えた。 紹介状をとるといっても全然心当たりがない。
 そしてすぐ引き返したのです。 また道場の玄関に、ずかずかと入って行った。(笑声)
 『御免下さい』
 横山先生は、驚いた。
 『なんだ。 また、きさまか何しにきた?』
 『紹介状をもってまいりました』
 『ばかに早いな! だれの紹介状だ?』
 『これです』
 私は、手にもっていた一冊の雑誌を、鬼横山の鼻先に突きだした。
 "作興"とその表紙に書いてある。 これは当時、講道館で発行していた雑誌なのです。
 『なんだ。 これは、講道館の雑誌ではないか?』
 『そうです。 これは私たち地方の青年が、講道館柔道というものを教えられた雑誌です。 私は、これを見て、講道館に学びたくてまいりました。 だから、この雑誌が紹介者です』
 『うーむ』
 それを聞いて、鬼横山は、眼を白黒させて唸った。
 『こいつ。 面白い奴だ。 上れ!』(笑声)
 そこで、私は道場にあげられたのです。 こうして横山先生の紹介で講道館に弟子入りすることができたわけです。

三船久蔵7.jpg

 それから、横山先生とは、講道館でよくあったが、特に稽古をつけられたわけではない。
 横山先生と直接稽古をうけたのは、数えるばかりしかありません。
 それも三回目には、それも何年もたった後ですが、
 『もう稽古をつけることは何もない。 俺もおよばない』
 といわれたほどです。 ただ、私を非常に可愛がられて、講道館の稽古が終わると、よく待っていて、
 『おい三船、夕飯を食べに行こう』
 というわけです。 ところが、先生もまだ血気盛んです。
 私も、意気当たるべからざるころで、一杯のんでいると、つい一乱闘はじまる。
 当時の社会情勢は、いまとだいぶ違って、そのようなことは、ごく当り前でした。
 壮士気質というのでしょうか? そういうものが、社会にみなぎっていたので、別にとがめられることではなかった。
 そこで、よく私も喧嘩しました。
 先生は悠々として、自分で手を出さない。
 『おい、三船、あしらってやれ』(笑声)
 というわけです。
 そこで、待っていたというわけです。
 三十人のやくざを相手にして、乱闘をしたこともある。
 だが、最初強そうな奴を五、六人投げとばすと、いつのまにか相手は気がついて、
 『講道館の横山だ。 三船だ!』
 『しまった! かなうわけはない』
 さっとみな、逃げてしまう。(笑声)
 (中略、他の武勇伝)

    生活の中の武道

 (中略)
 高田  そのときですね。 先生が帰途、追剥にあわれて、これをとっさの機転で、退治されたという話は?
 三船  そうです。 帰りは、夜中になった。 山中だから、真暗です。 ちょうど山奥にさしかかると、四十前ぐらいのたくましい男が現われた。
 『おい。 書生!』
 凄い顔で呼ぶ。
 『何ですか?』
 ときくと、
 『金をおいて行け!』
 というわけです。
 『そんなものは、一銭もない』
 というと、
 『そんなことはないだろう。 夏休みだから、帰省用の金がふところに沢山あるわけだ』
 そこで、私は考えた。
 『よしやろう』
 というので、ふところから財布をだした。
 『そうか? すまねえな』
 と手を出すところを、下に落した。 それを相手は拾おうと身をかがめた。刹那、私は、それをうしろから力一ぱい突き落としたのでえす。
 賊は、ころころと、まりのように崖を顚落して行った。 私は悠々と、金を拾って帰りました。
 高田  中学三年というと、いまの年で、十四か、五でしょう。 そんな年令で、それだけのとっさの機転と度胸、とても常人ではありませんね。 やはり、子供のころから優れた、抜群のところがあったのですね。
 先生とは、もうかなり長いおつきあいですが、非常に打たれるところは、常住坐臥、起居の動作すべてに、技を創意工夫され、独特の意を払っておられる。
 たとえば、寝ること一つがそうです。
 寝るときに、畳の上とベットの上にねるのと、どちらが正しく理にかなうか、技の研究に役立つかと考えられるというのです。
 そこで、いつもベットに寝られるそうです。
 森川  それは、どういう原理なのでしょう?

三船久蔵3.jpg

 三船  空気というものは、少しでも高い方が澄んでいるのです。 下は一番濁っている。 この理からいえば、ベットの方が、健康にいいわけでしょう。
 それともう一つは、畳の上に床を敷くと、そのまま横になってしまうが、ベットだと足を上げて上らなければならない。 下る時も足が動かす。 足を動かす量が多い。
 また、足の働きも、ベットの方が自由なのです。
 それだけ、変化があり、技の研究に対するヒントも与えられるのですね。
 また、曲り角を曲がるときもそうです。 ふつうの人は、曲がる方向にそって、内側の足を先にだして、そのまま廻ってしまう。
 だから、出あいがしらにぶつかったり、交通事故にあう。
 待ち伏せしている者に気がつかないで、やられてしまう。
 私は、必ず外側の足を先にだし、それから曲る。 すると相手に正面を向くわけで、とっさに襲いかかられても、体のバランスが崩れず、対処できる。
 方向もはっきり見え、突き当ることもないわけです。

三船久蔵5.jpg

 森川  なるほど、そういう心得は、社会全体に徹底させるべきですね。 むしろ常識にさせると事故も少なくなる。
 武道国日本の民衆は、そのくらい高い術と原理を知識としてもつといいと思います。
 しかし、昔の剣聖が、常住坐臥工夫をつんだといいますが、やはり達人になるには、いつも工夫がいるのですね。
 三船  いや武道というものは、試合を士、勝敗を争うだけが武道ではない。 生活の中に一つ一つ生きてこなければならない。
 それの出ない人は、本当の武道家ということはできない。
 大正五年のことでしたが、仙台駅の近くで列車の大衝突が起り、乗客全部、負傷を追った大事故がありました。
 その時、乗客の中で、二人だけ、かすり傷一つ負わない者がいた。
 私と、当時"だるま"と異名をとった政治家の高橋是清(のちの蔵相)さんでした。
 このとき、つめかけた新聞記者に、私はこう答えたものです。
 『生れてまもない赤ん坊は、高いところから落ちても、割にけがをしないものだ。
 "あっ、あぶない" と思うほどの私心もないので、ぜんぜん抵抗の姿勢をとらない。 自然の姿のままである。
 自然のままの人間の身体は、まるで、ゴム毬のような弾力性をもってころがり、弾力性をもって衝突する。
 だから、ケガも少ない。 これは自然の原理です。 こんな時、はっと思って、身体を硬直させると、かえってケガがするものです。』
 金子  なるほど、それが柔道なのですね。 しかし、現代の"だるま大師"といわれた高橋さんも、その柔和な顔で、国民に大変人気がありましたが、やはり大人物だったのですね。
 二・二六事件で、それだけの人を殺したのは、やはり国民的損害だったわけですね。

    講道館はやはり不敗!

 森川  私は、神永、重松という日本の代表選手にもあって話を聞きましたが、その神永選手は、思いがけなくも、膝の負傷もありましたが、ヘイシングに敗れた。
 これは、大変残念なことなのですが、世間では、判定に問題があった。
 神永はまけていなかった。 膝の負傷がなければ、はるかに実力は上だと、いろいろの議論があるのですが。
 私たちも、そう思いたいのですが、この点はどうでしょう?

三船久蔵4.jpg

 三船  いや、そんなことよりも、私としては、オランダのヘイシングにまけた。 まけたといって騒ぐことが、まったく考え方が狂っている。 おかしいと思うのです。
 ヘイシングは、講道館の弟子ですよ。 外国で発生した柔道を習ったわけではないんだ。
 私も、ヘイシングには、ずい分稽古をつけました。 つまり私たちの弟子の一人が優勝したわけで、それに日本人だの外国人だのと差別つけるのは、日本人の肝っ玉の小ささだ。 そんなことでは、柔道は世界の柔道になれない。 日本人も世界の日本人にはなれませんよ。
 ついに、日本柔道も、ここまできた。 世界の柔道になったと悦ぶのが本当で、そのような排他心は、戦争を起した軍閥の独善性思いださせる。
 だが、こういうことはいえる。 日本はやはり世界の柔道修業者の中心地であり、目標なのだから、大きな道の発展のために、人一倍の工夫と、さらに一段の真剣な努力が必要だということです。
 森川  なるほど、それだけ、大きな心をもてば、問題はないわけですね。 しかし、よくこういうことがいわれます。 昔の柔道は、小さな者が、大きな者をなげた。 西郷四郎も、先生も、わりに小柄な方です。 つまり技が中心であったが、いまはみな体が大きく、体力が中心になっている。 力の勝負だというのですが。
 三船  そういう傾向は、たしかに見える。 それは本来の柔道ではありません。 私なら外人のように、体の大きい者は、かえって投げやすい。
 というのは、相手の重心が、上にあるからです。 しかし、何ごとでも、発展の過程に波があるもので、やがて、天才的な者がでてきて、日本柔道界も、またふたたび全盛の時期がくる。 こう思っています。
 いまの柔道は、まだまだ練習が足りないといえるでしょう。 私たちの時代の柔道の修行はこんなものではなく、非常に激しかった。
 もっと技に重点をおいて、根本的に稽古しなおさなければならないでしょう。

    球の原理!

 高田  先生は、嘉納館長とともに、現代柔道の型をいろいろ創りだされた人です。
 その中で"婦人用護身術"の考案がある。 これを創りだすときの工夫というのは、昔の剣聖そのままの姿を思わせるものがありますよ。
 三船  婦人の護身術というのは、日常生活、行動の中に身につけるものですから、その時における女性の自然の姿を研究しなければならない。
 そこで私は、新橋駅から山手線にのって、連日、女性の姿、歩き方、ハンドバックのもち方、カサのさし方など、あらゆる女性の動作を研究するために没頭した。
 そして、一つ一つそれにかなった技をつくりだして行ったのです。
 技というのは、すべて合理的であるべきで、なる通りになるよりほかはない。 少しもふしぎなものはないのですよ。
 この自然の最も平凡な原理に則した技を行うのが柔道です。 そのために、
 『柔よく剛を制す』
 と、かつて柔道はいったのだが、私は、それを違うといった。
 制すということばはいけない。
 『柔よく剛を和す』
 というのが、柔道の究極の原理です。
 『おさば引け、引かばおせ』
 と昔の柔道はいった。 しかし私は、これも間違いだといった。
 これは、日本の敗戦後、ふと考えだした原理ですが、この時私は考えた。
 敗戦、無条件降伏という状態は、最悪の状態である。
 このとき、日本の有識者たちは、
 『日本を再建しなければならぬ』
 ということをいった。
 『柔道によって、日本を再建しよう』
 というものもいた。
 しかし、これは間違いである。 再建ということは、もとに戻るということである。
 元に戻るということは、戦争に敗北する状態の日本に帰ることである。
 それではいけない。 二度と敗れない、健全な、不敗の日本を創りだすことが、これからの日本の、そして柔道の使命である。
 そこで、私は、球の原理を考えだした。
 『おさば引け』
 では、だめだ。 最悪の状態、つまり嶮ヶ峰、絶壁で、もう後がないというときに、引いたのでは、顚落して命を失ってしまう。
 『おさば、廻れ』
 が本当だと発見したわけです。 また、
 『引かば、おせ!』
 も正しくない。 それでは、一直線上をどこまでも、行ってしまう。
 相手の体勢を崩すには、
 『引かば、ななめに!』
 である。 それで初めて、相手の重心も崩れるわけです。
 これが、自然の根本原理です。 地球は丸く、宇宙も丸いのです。
 丸ということは、"球"であり、"円"なのです。 円は、円融無礙、とどまるところ、窮まるところがない。
 "球"に向って撃とうとすれば、すべて正面で、裏がない。
 しかも、速度変化に応じて、無限の直線を有している。
 さらに"球"は、絶対に倒れることはない。
 重心は、一ヵ所でなく、球のすべてが、それなのです。
 四足すべてが、一体となったとき、人間は変応自在の球になりうるのです。
 球は、また和の象徴ですから、柔道の原理は、
 "柔よく、剛を和す"
 ということになるわけです。

三船久蔵6.jpg
明治時代の講道館、中央が嘉納治五郎

 高田  三船先生のこの原理の発明は、講道館柔道に、革命的な飛躍をあたえたものだったのです。
 先生が、つくられた柔道の歌に、
 〽百練千磨の功をつみ
     七転八起の妙を得て
      解脱の道をさとりなば
      変応自在の球となる
      これぞ真の柔の道
 とあります。 これこそ、平和日本、世界の平和を日本から、柔道から創りだす原理なのですね。
 (中略、長生き、健康について他)
 森川  いろいろと、先生の深遠な柔道の原理、哲学をお聞きして、たいへん処世哲学のうえにもプラスするところがありました。
 また、まだ、試合のお話し、修行時代のお話しなど、おうかがいしたことは限りなくあるのですが、つぎの機会にぜひお願いすることにして、先生の御健康、なお一そうの御活躍を心からお祈りして、この座談会を終りたいと思います。
 ありがとうございました。



 という事で、森川哲郎先生による、三船久蔵先生ののインタビューでした。
 三船先生は翌1965年に亡くなられているので、これが最後のロングインタビューかも知れません。
 気になったとこをいくつか。
 1916年の列車事故の話ですが、調べてみると、「東北線列車正面衝突事故」というのが11月29日に発生しており、東北本線下田駅―古間木駅(現・三沢駅)間で旅客列車と貨物列車が正面衝突し、39名が死亡した大事故だった様です。 「鉄道災害記事. 自大正4至6年度」「軽傷二名」とあるんですが、これがひょっとして三船久蔵先生と、高橋是清氏だったのかも?
 後…まぁ、これはいずれレビューしようかと思いますが、 三船先生が負けた、と言う話がいくつか載っている本があります。 あ、「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」では無いですw
 結構略すのが大変な今シリーズですが、Twitterの方でたまにリクエストを募集してますので、見掛けた方は是非w
 今回はここまで。 それでは、また。


参考文献:
柔道五十年 老松信一著 時事通信社 1955年
武道日本 森川哲郎著 プレス東京 1964年

参考リンク:
東北線列車正面衝突事故 (2015/3/29)
鉄道災害記事. 自大正4至6年度 (2015/3/29)








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コメント
大きい相手の方が投げやすいというくだりは塩田との対談での木村政彦の言葉を彷彿とさせますね。(そしてヘーシンクの勝ちは講道館の勝利理論はエリオグレイシーっぽい。どっちも十段より後の世代の人ですが)
十段の木村政彦評も聞いてみたいです。
  • まる
  • 2015/03/30 10:23 PM
三船さんはそれほど強くなかったという話もけっこうありますね。個人的にはロス五輪金メダル山下が一番かな。
  • やいや
  • 2015/03/31 1:53 AM
三船師範が「横山師範にはほとんど習っていない」というのは以前、少し調べたときに知り、意外な気がしましたが、“むしろ横山の裏の顔の方とのつながりが深かったのかな?”と思ったものでした。喧嘩話ではさすがにそこまでは踏み込んでいないようですね。
  • 通りすがりのマニア
  • 2015/04/01 11:48 AM
>私の考えでは、武道ということは、まず己に勝つことである。人に勝つということは、決してただの一度も考えたことはありません。人の力は分らない。 どんな強い奴がでてきて、あるいは勝てないことがあるかも知れない。しかし、自分さえまけなければ、人に決して敗れることもない。

三船さんの時代と今とでは何が違うかというと、柔道が特権階級の格闘技ではないということ。武道とは無縁な労働者階級のデカくて粗暴な子弟やガイジンなどが取り組むことで大衆スポーツになってしまった。そしてウエイトトレーニングやステロイドで肉体的な強度が飛躍的に跳ね上がったおかげで、研ぎ澄まされた技術が中和され無効化されるまでに至った。

この現時点で、三船先生のような言葉がでてくることがあるならそれは素晴らしいこと。でも、今の強い以外にとりえのないような、たとえばヒカルド・アローナ選手にあっというまにバックを取られてヒぇ〜〜とタップアウトさせられた後に「自分にさえ負けなければ他人にはまけない」などと言えるのかな?と思わされます。
  • 桜井斉
  • 2015/04/04 10:52 AM
>まるさん

まぁ、低重心の方が投げやすいというのは当然の真理でしょうけど、それを小兵がやるには並々ならぬ努力がいりますからねぇ。 やった人だけが言える一言だと思います。

>やいやさん

強い弱いは相対的な物ですので、見た人間、あるいは対戦した人間にしか分らないでしょうね。 ただ、あれだけの講道館門下の頂点に立った人間ですから、相応の実力はあったんじゃないですかね。
坂本龍馬風に言えば「強いも弱いも、物の一表現ぜよ」かとw

>通りすがりのマニアさん

本当の事は言えないものですからw

>桜井斉さん

「自分は負けていない」と負けを実感した時でもそう思えるというのは、負けじ魂なのかも知れませんねぇ。
勝負を投げ出さない事、逃げない事を「自分にさえ負けなければ他人にはまけない」と言い換えているんじゃないでしょうか。

>
  • Leo
  • 2015/04/04 12:39 PM
わかりやすい解説ありがとうございます。
三船名人の真意はおっしゃるとおりそこにあったのだろうと思うのですが、それもある程度の体格的・体力的・社会ステータス的な近似値の中ではじめて成り立つ話ではないかと疑ってみました。

辰吉丈一郎は「たとえ殺されても降参しなければ負けではない」という闘いの哲学を持っていますが、90キロ以上の総合格闘技の選手に首の骨を曲げられて降参する意志さえあらわせない状態のまま奥歯が折れて舌に貫通していく不自由と苦痛の中、同じようなことが本当に主張できるのだろうか?などと考えてしまいました。実戦の戦闘はそんなものじゃなかろうか。

スタローン扮する『ロッキー・バルボア』はいいます。「打たれても前進を止めるな。そうやって勝利はもたらされるのだ。」同じ階級の似たレベルならそれができても、バス・ルッテンのパンチや肘をくらって前進することなど誰もできないわけです。

三船世代の和製柔道家はおそらく、桁違いのパワーを体感したこともなく、またフィジカルの違いにどれだけ自分の柔道が改革を余儀なくさせられるかという想像力さえ持っていないのではないかと思われます。

佐藤勝昭師範が初渡米したきは「ニューヨークの連中にことごとくKOされた」と赤裸々に言っている通りで強制的に負けの屈辱を飲まされた三船ならぬ黒船の記憶から立ち上がることで得られた佐藤師範の武道感はより深みのあるものだったのだろうか、と思わされたものなのです。

  • チベットよわー
  • 2015/04/09 11:53 AM
申し訳ない、ハンドルを統一していませんでした。
  • 桜井斉
  • 2015/04/09 11:57 AM
>桜井斉さん

どうでしょうねぇ。 それでも俺は負けてないと思うのが負けじ魂では無いでしょうか。
階級制が出来る以前は無差別でしたし、三船先生の体躯では桁違いのパワーを経験した事もあったかも知れません。
しかし筋トレの発想が薄い時代とはいえ、ユージン・サンドーの本を翻訳したのは嘉納治五郎先生ですし、我々が思う以上にパワーについて考えていたかも知れません。
その辺りは調べた事が無いので何も言えませんねぇ。
  • Leo
  • 2015/04/09 11:19 PM
貴重なインタビュー記事楽しく読ませてもらいました。
三船久蔵の20代の写真を見るとボディビルダーのような分厚い筋肉をしていますが、これはやはりユージン・サンドーのトレーニング法が取り入れられていたのでしょうか。
戦前の本で、観客を前に三船久蔵と徳三宝が死闘を繰り広げたというのを見ました。その頃は寝技の三船、立ち技の徳三宝と呼ばれていたそうです。三船は足の大怪我が元で、寝技の研究と練習をするようになり、立ち技重視の講道館では珍しい寝技の達人(立ち技と寝技の両刀使い)と周知されていたようです。
  • 通りすがりの格闘技好き
  • 2015/04/14 8:13 PM
植芝盛平は三船さんをあまり評価してなかったようですね。
  • やいや
  • 2015/04/16 8:59 AM
>通りすがりの格闘技好きさん

あの体型は見事でしたね。
講道館の詳しい所までは知りませんが、こちらの国会図書館で公開しているのが「サンダウ体力養成法」という本で、嘉納治五郎が手掛けています。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/836902
この本を読んだ若木竹丸が触発され、怪力法を生み出す訳ですから、講道館内部にそう言ったトレーニングをした人間もいたんじゃないでしょうか。

>やいやさん

評価は客観的なものじゃないですからねぇw
見事な技を見ても「あんなの大した事無い」と言う人だっていますし。
  • Leo
  • 2015/04/23 7:48 PM
貴重な情報ありがとうございます。
以前海外の格闘技フォーラムで、前田光世か福岡庄太郎だったかの筋肉隆々の写真を外国人が見て、「これは戦争前だが西洋のトーレングメッドだろうか、レスリングの影響だろうか、うーん謎だ」みたいなことを話していましたが、まさか嘉納治五郎がユージン・サンドーを翻訳しているのは知らなかったようです。現物の本を見て自分もその影響に確信が高まりました。
出版と著作の造士会は、少数の若年者の心身を鍛えるための嘉納の私塾みたいですね。柔道を始めとした諸武芸や体操や水泳をやっていたそうですから、柔道関係で講道館との人の交流もありそうですし、相互刺激みたいに講道館の練習方法に影響を与えた可能性はありそうな気がします。
  • 通りすがりの格闘技好き
  • 2015/04/25 10:58 PM
>通りすがりの格闘技好きさん

後、サンドーは日本にも来たそうなので、見に行った人もいるかと思います。
日本におけるパワートレーニングは、どうしても若木竹丸の影響が強いですが、その若木竹丸は何に影響を受けたのか、ここを突き詰めて行くと面白い話になるとは思うんですけどね。
影響を受けた人間が1人だけとは限らないでしょうし、「力は不要」と発言する過去の達人も、その殆どがある程度力を追究した上で語っているという事を見逃しがちです。
沖縄唐手の達人も、怪力の逸話はありますし、合気道とて、植芝盛平先生が米俵を両手に1俵ずつ抱えたという話もあります。
小島貞二さんが多少やってますが、日本の怪力史、というのは面白いかも知れませんw
  • Leo
  • 2015/04/26 8:45 PM
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