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大山倍達マニアック検定

マス・オーヤマ・究極の挑戦への探究(1970年)

JUGEMテーマ:空手
 さて、先日森川哲郎先生の本を読んでいたら、ひょっとしてこれが李青鵬の元ネタかッッッ!!! という話を見付けてしまったのですが皆さんお元気でしょうか。

 今回はですねぇ、アメリカで一番伝統のある格闘技雑誌、「ブラック・ベルト」誌の1970年イヤーブックに10ページに渡って載った大山倍達総裁の記事を紹介してみようと思います。 題して、”MAS OYAMA SEARCH FOR THE ULTIMATE CHALLENGE”。 意訳すると今回の記事の表題になります。 言わば、アメリカ版大山倍達伝説ですね。

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 どこまで事実であるかはともかく、興味深い内容だと思います。 そもそも翻訳は苦手なので、結構破綻した文章になってたりするかと思いますが、とりあえず本編へどうぞ。

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 終戦直後、米士官の為に接収されていた東京の山王ホテルで開かれていたダンスコンテストも終わろうとする頃、1人の日本人が激怒していた。 そしてその怒りの矛先である韓国人は気にする事無く笑っていた。
 2人の男は女を巡って争っていたのである。 日本人はベルトに装着したナイフを取り出しちらつかせた。 間合いに入るや、男は突進してナイフを突き出す。
 そして韓国人と交差する瞬間、男は逆突きを顔面に食らった。
 骨の破壊される不快な音が鳴り響き、まるで熟したスイカを開いた様なその頭が床に着くまでに、男は死んでいた。
 その韓国人、当時24歳の崔永宜ー後に大山倍達という日本名を得て帰化するーにとって幸運だったのは、この日本人がいくつかの殺人事件に関与していたとされるヤクザだった事だ。 その為、大山は裁判所で厳重に警告されるだけでこの事件から解放される事となった。

 この事件は大山の人生にとって大きな転換期となった。 大山のそのハンマーの様な拳は、人間にとってはあまりにも危険だったのだ。 大山の手は、牛を一撃で昏倒させ、角を叩き落とし、そして捻り殺した。  また、石や木、瓶や瓦、レンガや板を破壊した。 拳の打ち下ろしで30枚の瓦を割った記録さえある。 そして板を支える人間を板と同時に叩いて病院送りまでやってのけた。
 1960年、大山がマジソン・スクエア・ガーデンで行われた北米空手大会の為にニューヨークを訪れた際、「ニューヨーク・タイムス」紙は大山を「世界で最もタフな男」として紹介した。 しかし大山はこの様に語っている。

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”The New York Times”(1962年11/25)に載った記事

 「空手の中で最も強い男は、最も弱い男だと言えます。 一撃で人を殺せるのだから、自分自身を制御する術を学ばねばなりません」

 「私があのヤクザの妻が夫の遺体にすがって号泣しているという悪夢を見始めた時、自分の人生を変える覚悟が出来ました」
 大山は酒も煙草も喧嘩も全て止めた。
 「自分がいつでもヤクザの組長になれる可能性があるのを知った。 しかし空手の指導者を選択したのです」

 大山倍達は1923年、朝鮮半島の南西、黄海から数マイルのところで、崔承玄の第4子として生を受けた。 崔家は裕福であり、広大な農場を所有し、村長を務めていた。

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1966年、韓国の空港で一族と記念写真

 大山は6マイル離れた龍地小学校に通った。 あまり勉強熱心では無かった様だ。 彼はホッケーや水泳、釣りや山登りと大いに遊んだ。 しかし彼の少年期を占めていたのは借力であった。 借力とは朝鮮式の柔術と拳法を複合した武術の様なものである。 この生活に終わりを告げるのは、大山が京城の叔母の元に住む事になったからだ。 大山はここから中学に通う。
 しかし、大山は問題を起こしてばかりいた。 街をうろつくチンピラと喧嘩をしていたのだ。 そして温厚な父を激怒させ、警察を怒らせた結果、山梨の少年士官学校に送られた。 ここで大山は、主に航空機のエンジンについて学ぶ。
 自分で改名した大山は、山梨で松濤館の空手を学び始める。 しかしこれに満足しなかった大山は、東京でも空手を学ぶ事にする。

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千葉の海岸で構える24歳の大山倍達と柔道家の松岡氏

 拓殖大学に入学した大山は、再び空手を学び始めた。 目白の松濤館には「空手の父」船越義珍とその息子が指導しており、大山は毎日2時間、2年間に渡り修業した。
 18歳になる頃、日本はアメリカとの間で戦端が開かれ、大山は帝国陸軍に徴兵された。 そして政府が後援する武徳会に入った大山は、ここでも空手の修業をする。 正確には武徳会傘下の義方会のメンバーであり、この部署は戦時下におけるゲリラ戦や各種工作をの専門としていた。 義方会の本部は京都にあったのだが、大山は東京六本木の支部と繋がっていた。
 義方会の15名の生徒は当時の総理大臣、東条英機に対して強行に反発しており、暗殺を計画した事もあった。 しかしこの計画は事前に漏れてしまい15名は切腹、そして大山を含むその他のメンバーは2週間ほど監獄に入れられ、義方会は解散させられてしまった。
 この時期、大山は朝鮮出身の剛柔会の達人、椎柱と出会う。 大山は以降、2年ほど弔慮気能ざ箸鮟鼎諭∪鞍兵として南太平洋に派遣される直前、終戦となった。

 終戦後、大山は再び椎柱がいた高円寺の道場で修業を重ねる。 しかし1年の後、弔和膸海鮓討咾海ε舛┐拭
 「もう君に教える事は何も無い。 君は私より強くなった。 殆どの人間より強いだろう」
 そして、弔老嘩をするな、ヤクザや女に時間を費やすな、そうしなければ君は刑務所で人生を終えるだろう。 もっと正しい方向に力を使え、と諭したのであった。
 「正義の味方」としてその腕を振るった大山は、深刻な問題に立たされる事になった。 米兵や船員から女性を守って叩いていたのだ。 こうして日本警察とMPは大山の確保に動く。 大山の友人は死にたくなかったら街を去れと警告し、大山は弔離▲疋丱ぅ垢暴召ぁ∧寺に行く事にした。

 山梨県身延山にある仏寺で3ヶ月ほど過ごし、夜明けから夜中まで働いた。 しかしこの禁欲的な生活は大山にとって不満だった。 空手の修業が出来ない程忙しかったのだ。

 こうして首都に戻った大山は、衆議院議員の小沢専七郎を紹介される。 これが精神修養を始めるきっかけとなった。 小沢は大山に、山に1人で行って1年は帰るな、質素な生活をして空手と強さを鍛えよと伝えた。
 大山は、日蓮聖人が修業した清澄山で修業する事にした。 小沢は毎月50ドルを生活費として送ってくれた。
 月日を重ね、大山は1日7時間は修業し、8時間は寝た。 残りの時間は3食を喰い、リラックスして坐禅を組んだ。
 ここで大山は独自の試し割りも研究した。 現在、大会のハイライトでもある演武で見せている試し割りだ。 岩を砕き木を破壊した。 こうして大山の手は厚く固く尖り、スレッジハンマーの様な拳が誕生した。

 大山は1年以上も山伏の様な修練を重ねた。 18ヶ月が過ぎる頃、小沢からの送金が絶えた。 噂ではスキャンダルに荷担したしたとして、収監されているという。 その為、大山は清澄山を下りて館山に行った。
 髭は山を下りたその日に剃ったが、髪は伸び放題だった。 そして屠殺場で自信たっぷりに牛を一発叩かせて欲しいと告げた。

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28歳の大山倍達
 
 「彼らは私が狂人だと思った様です」
 大山はそう回想する。 1人の老人が来た。 彼は頑丈そうな牛を用意し、大山に叩く許可を与えた。
 突然降って沸いたビッグイベントに、屠殺小屋のドアや窓の周りには人が押しかけた。 大山は力を集中させて眉間を叩いた。 牛は唸りを上げ、首を左右に振り始めた。 辺りは騒然となった。 見物人は恐慌をきたし、椅子や机は破壊され、窓も壊れた。 大山が逃げた後も誰も怒り狂った牛を止められなかったのだ。

 大人しくなった牛が確保された後、大山は詫びに半壊した屠殺小屋に戻った。 気にするな、と皆が言った。 大山が本気で牛を怒らせる程の一撃を与えられるとは、誰1人思っていなかったのだから。
 ここで彼はこの場を去る事も出来たであろう。 しかしこの頑固な朝鮮人はそうではなかった。 彼は毎日の様にやって来た。 そして牛をハンマーで叩く様を見つめた。 ハンマーは牛を殺せるのに、どうして大山に出来ないんだ?

 数日後、大山は別のチャンスを与えて貰った。 前回と同じ場所には、多くの群衆が集まった。 最初の一撃で牛の頭蓋骨にヒビを入れていた。 牛の膝はよろめき、大山は牛を立ち上がらせ眉間に2撃目を叩き込んだ。 農夫が角を叩いてみたらどうかとアドバイスした。 大山は牛の後ろに回り、叩いた。 角は飛んで泥に落ちた。
 大山は40回角折りに挑戦し、内36回成功した。 伝えられるところでは、大山は50回牛を殺したと云う。 しかし正確には3回である。 それは全て捻って首の骨をへし折って殺したのだった。

 松竹映画は大山の牛との決闘を中心とした20分の映画を作った。 いつもの様に興味本位の観客が集まり、派遣された50名の警官は、大山が牛を殺すのを防ぐ為の処置だった。 しかし大山は拳で叩かず、手刀の後に角を引きちぎった。 これは動物虐待防止協会(SPCA)への為である。

 牛と闘って後、大山は有名になった。 こうしてこの朝鮮人の空手家は館山に小さな道場を開いた。 しかし間もなく、大山は東京に戻る事になった。 朝鮮戦争が始まり、東京における韓国の作戦の為には護衛が必要だったのだ。 この護衛の仕事は月に150ドルとなった。 勿論空手の稽古を毎日続けた。
 大山の生活は一変した。 始めて良い職と給料にありつけたのだ。 彼には置八子という妻と小さな娘がいた。 2人は東京郊外の妻の実家に住んでいた。 家族は大山が空手家として大成するのを待ち望んでいたのだ。 そして1947年、大山は京都で行われた空手の大会で優勝した。

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1956年の大山倍達

 護衛の仕事を終えた頃、大山は初めてアメリカに渡米した。 1952年3月、柔道家の遠藤幸吉とカリフォルニアのプロレスラー、グレート東郷と共にシカゴのプロレスリング協会に招かれた。 シカゴで演武を見せたのを皮切りに3人は11月までアメリカを巡業し、プロレスラーやボクサーに挑戦した。 大山は全ての試合にKOで勝利した。

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1952年、左から遠藤幸吉、ジャック・デンプシー、大山倍達

 次の夏、大山は再びシカゴを訪れた。 そしてここで有名な素手で牛と闘うのを披露した。 TVカメラが離れると大山は最初の一撃で牛を昏倒させ、角を切り落とした。 その後はニューヨークで1週間ほど空手を指導し、日本へ帰った。

 1954年、大山は3ヶ月ほど東南アジアに空手旅行に赴く。 日本の空手家がタイのキックボクサーに負けたという屈辱を払拭する為だ。 同時に、大山は空手指導や演武を見せて回る事を企画していた。
 蒸し暑い夜だったが、会場には多くのキックボクシングファンが詰めかけていた。 彼らの英雄が、再び日本の空手家を倒すのを見る為だ。 大山の相手は「ブラック・コプラ」、ウエルター級のトップ選手で、アメリカでは苦い試合経験のある選手だ。 加えて、長いキックボクシングキャリアがあった。 大山がリングに上がると、観客は彼を嘲笑した。
 第1ラウンドを告げるゴングが鳴った。 大山はコーナーから出た。 慎重に「ブラック・コプラ」の周囲を回ると、突然恐怖の蹴りが飛び、大山を伸ばした。 レフリーはカウントを数え始め、観客は騒いだ。 しかし驚く事に大山は立ち上がった。 殆どの対戦相手を倒したという致命的な蹴りに耐えたのだ。
 大山は相手の蹴りの動きに集中した。 そして再び顎目掛けて蹴りが放たれる瞬間、大山は足を捕らえ足を引き、バランスを崩させ、廻し蹴りを繰り出しマットに叩き付けた。
 最後に「ブラック・コプラ」が蹴り足を持ち上げると同時に大山の突きが顎に入り、倒れた。 試合後、失神したタイ人を控え室に運ぶと、彼の顎の骨が酷く折れていたのを発見した。 1ラウンド2分、これが大山とキックボクサーの試合結果である。 大山は日本の空手家の名誉を回復させたのだった。

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 1954年は大山にとって素晴らしい1年だった。 ハワイでは1ヶ月ほど、中国系アメリカ人で彼の指導員ボビー・ローを助けて空手指導を行った。 これが彼の最初の海外道場だった。 日本に戻ると目白の公園で生徒に指導を始めた。
 1957年、大山は北海道で半年を過ごした。 滞在中には熊に挑戦した。 しかし公開試合は流れた。 熊の背が高すぎて、大山の拳が届かなかったのだ。
 その頃、マス大山は東京の国際スタジアムで牛と闘う事になっていたが、動物愛護団体と嫉妬した空手家たちが警察に働きかけて興行を止めようとしていた。 非道い状況だった。 雨の降る夜に行われたこの興行では、プロモーターも姿を見せなかった。 しかしやらない訳にはいかない。 大山は不本意ながらも興行を行い、そして角を折る事は出来なかった。

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”Pacific Stars and Stripes”(13/11/1956)

 大山が初めての空手本、”What is Karate?”を出したのもこの年だった。 そして剛柔会の会長、山口剛玄は大山を副会長へと招いた。 この申し出は辞去したものの、顧問となった。 3年後、剛柔流は爆発的に大きくなった。 しかし大山は派閥を嫌い組織から身を引いたのだった。

 大山がアメリカに戻ったのは1959年の事だ。 この時にはシカゴやロサンジェルス、サンフランシスコの支部で指導し、演武を見せた。 そしてFBIの本部とニューヨークでも空手を見せた。 元FBI捜査官で元サンフランシスコ市警のドナルド・バックがサンフランシスコの道場を立ち上げた。

 1960年、増補版の”What is Karate?”を出版した。 大山はこう語っている。
 「私は最初に本を書いた時、3000部程度しか売れないだろうと思っていた。 しかし今のところ170000部以上も売れています」
 これが現在一番売れている武道書だ。
 この年は大山がニューヨークに出向いて、マジソン・スクエア・ガーデンで北米空手大会を行った。 これだけの規模の大会がアメリカで開かれたのはこれが初めてであろう。
 大山は4ヶ月間ニューヨークで過ごした。 ここで大山道場を立ち上げ、指導の為だ。 大山は2年ほど同じ様な行動を取り、海外に支部を増やした。

 1961年、大山は道場の名前を変え、極真会とした。
 そして2年と150000ドルを費やして平塚病院の後ろ、池袋警察署から1ブロック離れた場所に100マットサイズの道場を建設した。 日曜日には150人の空手家が稽古をしている。
 大山は東京に20000人、世界で50000人以上の極真門下生がいると語る。 彼の世界支部は43カ国に180の支部を持っている。 それぞれの海外門下生は毎月3ドルを15ヶ月に渡って納め、それらの収益の他に国内道場からの収入、そして12冊の書籍、内6冊の日本語版を含むの印税が入って来る。
 昨年、大山は最初のオープントーナメント全日本空手道選手権大会を開催。 そこにはそれぞれの道場やキックボクサー、柔道家、他の格闘技者、西洋武術家を招待した。 想像通り、野性的な大会だった。 そして彼は出来れば年内に千駄ヶ谷の東京体育館で3日間のオープントーナメント全世界空手道選手権大会を開く計画を持っている。
 
 大山は自分の強さが衰えつつある事を、不本意ながら認めている。 「しかし私の技術は、」衰えていないと付け加える。 昨年の大会では瓶切りを見せ、今年の7月には重ねた煉瓦を割るシーンをカラー写真に修めた。

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1970年7月、自宅で妻と

 成長する極真会を助ける為、30名からなる本部委員会を設置した。  大山流の空手は闘う精神に焦点を当てており、首から下は直接打撃制だ。  彼は他にも別のスタンスから指導している。 足は真っ直ぐでも身体は別の方向を向いている。 彼独自の技術を追求する為だ。
 47歳の空手の達人が引退する前に、彼には完成させねばならない計画がある。 彼は国際空手道連盟の総本部、講道館の様な巨大な道場を建設したいと思っている。
 「私の夢を実現するには、少なくとも5年は掛かるでしょう」
 大山は言う。
 「しかしこれが完成すれば、現役引退です」

 
 という事で…如何でしたでしょうか? ちなみに結構意訳してたり省略してます。 翻訳は嫌いなんですよw
 色々と首を傾げる様な部分もありますし、年度が間違ってたりとか、時系列上、明らかにおかしい部分もありますが、アメリカにおける大山倍達の伝説っていうのはこんな感じなのです。 これが韓国の大山倍達伝説ですと、日本中の道場を荒らし回って制圧したとか、忍者と闘った、なんていう事になっている様ですが…w

 いくつか解説。
・シカゴの牛との対決に「有名な」とありますが、これは「牛と闘う」のが有名なのか、「シカゴで牛と闘った」のが有名なのか、ちょっと分かりませんでした。 多分前者だと思います。
・タイの「ブラック・コプラ」は原文では”Black Copra”となっています。 アメリカでの試合経験については特に書いておらず、原文には”who had bad ring experience in the U.S.”とありました。

 それでは、また。

参考文献:
Pacific Stars and Stripes, 1956
The New York Times, 1962
Andrew Adams, "MAS OYAMA SEARCH FOR THE ULTIMATE CHALLENGE", BLACK BELT THE 1970 YEARBOOK, BLACK BELT INC., 1970


 






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コメント
京都武徳会が出てきたので、中村日出夫とのつながりを考えてしまいました。李青鵬を待ってます。
  • やいや
  • 2011/04/19 12:16 AM
1966年度版のwhat is karate 1965年度版のthis is karate そして 1970年度版のAdvanced karateでは大山総裁の米国におけるchallenge matchのことが言及されていないそうですが...(自分で確認できてないのですいません)何か心境の変化があったのでしょうか?私見では 組織の拡大の方に大きく舵をきりはじめたことと関係ある話だと思っています。(教育上の配慮とか 暴力的なイメージの払拭だとか)しかし、結果としては 総裁の意思とは裏腹に伝説が一人歩きし始めた時期でもあったのかと今回の記事で再確認しました。 
  • tada
  • 2011/04/23 1:30 PM
>やいやさん
李青鵬は明日やりましょう。
中村日出夫先生について、ですが本当に武徳会の空手部門にいたのか、よくわかんないんですよねぇ。 調べた範囲では痕跡が見付かりませんでしたし、私にとっては謎の空手家ですw

>tadaさん
1966年版の"What is Karate?"には少しありますよ。 カバーの耳にある筆者紹介欄にも書いてありますし。
"This is Karate"と"Advanced Karate"の方には筆者紹介欄にも殆ど書いてありませんけど。
"What is Karate?"は正に空手の偉力を紹介するのが最大の主旨であったのに対し、"This is Karate"と"Advanced Karate"の方は空手の伝授が主になっていたので、必要なかったのかも知れませんね。
今回の記事は「ブラック・ベルト」誌の記事という事もあってか、その後の大山倍達伝説のスタンダードになっている様で、アメリカのいくつかの武道書で似た様な記述がありました。
  • Leo
  • 2011/04/23 7:50 PM
1966年度版のwhat is karate?にリアルファイトの記載があるということなので クレームがあって削除したのでは?という疑念も晴れました。
  • tada
  • 2011/04/26 6:42 PM
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