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大山倍達マニアック検定

極真空手と少林寺拳法の抗争2(1972年)

JUGEMテーマ:空手
 
 さて、昨年予約したブルース・リーフィギュアが手元に届いた訳ですが、高価なだけあって顔とかそっくりです。 不満があるとすれば、まぁ服ぐらいですかねぇ。 あれ、何回も着せたり脱いだりはさせたく無いですw

ブルース・リーフィギュア4.jpg

 これ、色々と映画のポーズを取らせて撮影したくなりますねぇ。 上段がちゃんと蹴れるから素晴らしいですね。 次回辺り、ブルース・リーネタをやろうかな…。

ブルース・リーフィギュア1.jpg

 という事で本編に参りましょうか。 今回は当時の極真会館を時系列で追ってみようかと思います。 引用も多いので、冗長になるかも知れませんw で、昔の事とは言え批判が色々書かれています。 現在の我々には全く関係の無い話ではありますが、不愉快な気分になられる方もいらっしゃるかも知れませんね。

過去記事はこちら
極真空手と少林寺拳法の抗争1(1972年)
極真空手と少林寺拳法の抗争2(1972年)
極真空手と少林寺拳法の抗争3(1972年)
極真空手と少林寺拳法の抗争4(1972年)


 1971年4月末、後の格闘技界に多大な影響を与える漫画「空手バカ一代」の連載が始まる。 先行する形として69年頃から劇画作家梶原一騎とその実弟、真樹日佐夫が、大山倍達や極真会館をモデルとした作品をいくつか発表していたが、その集大成が同作品だ。 回数を重ねる事に人気が高まり、連載していた「週刊少年マガジン」では何度もカラーグラビアを飾る事になる。
 梶原兄弟がプロデュースを始めた69年は、当時人気絶頂にあったキックボクシングに極真ジムの名義で門下生をリングに送り込み、そして初の全日本大会を開催、組織として一気に仕掛けた年だった。

日刊スポーツ1969極真ジム.jpg
日刊スポーツ(1969年6/4)

 しかしまだ極真空手という名称はあまり知られておらず、知名度は大山空手の方が先行していた。
 1972年秋までの極真会館の動きをみてみよう。
1月:スペインのカルロス皇太子(当時)を前にして演武会を開催。

カルロス皇太子1971.jpg
カルロス皇太子を前に

3月:台湾で空手指導をしていた岸信行が帰国。 磯部清次が福井に支部道場設立(正確には69年認可)。
4月:発行者の体調不良により昨年から休刊していた極真の機関誌「現代カラテ」「現代カラテマガジン」と誌名変えて復活、高森日佐志が発行責任者となる。 第2回世界空手道選手権大会がパリで開かれ、全空連の日本選手団は敗北し、国内外から批判を浴びる。
5月:サンケイ新聞社より大山倍達著「闘魂」出版。
6月:先の第2回世界空手道選手権大会を受けて、大山倍達が「日本は負けていない」という主旨の声明文発表。 磯部清次が空手指導の為ブラジルへ。
7月:大山倍達、全米支部長会議の為渡米、その後南米へ。
8月:夏期合宿。
9月:大山泰彦、空手指導の為、渡米。
10月:第4回全日本空手道選手権大会開催。

 1972年は騒乱に明け暮れた60年代の終わりを告げる様な年で、1月にグアム島で元日本兵横井庄一が発見され、翌月には連合赤軍の浅間山荘事件。 5月に日米沖縄返還協定発効と日本人ゲリラによるテルアビブ空港乱射事件。 9月に日中共同声明。 他にも新日本プロレスと全日本プロレス設立といった出来事があった。
 
 この頃の極真会館の規模は、海外にこそ42カ国に420の公認道場を抱えるまでになっていたが、国内支部はまだ10に満たなかった。 以下が当時の支部道場である。
芦原道場(愛媛県)
添野道場(埼玉県)
長谷川道場(徳島県)
松島道場(群馬県)
関川道場(新潟県)
磯部道場(福井県)
真壁道場(秋田県)
高木道場(北海道)
 国内有段者の数はOBや少年部も含めて114名(退会者を除く)とまだまだ少なかった。 しかし前途洋々としており、この年の主な入門者を列挙すると以下の通りとなる。
 浜井識安、東孝、渡辺十也、山田政彦、竹和也。
 5年ほど前に退会した元本部指導員の廬山初雄が復帰したのもこの年だ。

1972夏頃の帯研メンバー.jpg
当時の黒帯研究会のメンバー

 さて、第4回全日本空手道選手権大会が開催される直前、極真の機関誌「現代カラテマガジン」11月号が発売されたのだが、その中に和歌山新聞報道部長で、秘拳日本妙道会を主宰する谷口統建なる人物による特別寄稿記事「少林寺はニセモノだ!!」が掲載された。

現代カラテマガジン197211.jpg
現代カラテマガジン 1972年11月号

 元々は1970年1月から21回に渡って「和歌山時事新聞」に掲載された記事で、その切り抜きを「現代カラテマガジン」の監修者である極真会館館長大山倍達に送り、同誌に掲載して欲しいと宛てたのが谷口だった。 そこで編集部が谷口に掲載の了解を得るべく連絡した所、掲載の承諾を得る事が出来た。 しかし、谷口は記事を大山の名前で発表してはどうかと打診して来た。 理由は、少林寺拳法側は谷口の言う事を信じるなと全国に周知させているからだと言う。 しかし、谷口は別にそのまま載せて戴いても構わないとも続けており、編集部としては些か戸惑った様だ。

谷口統健.jpg
谷口統健

 略歴によれば、谷口統健は1940年生まれで22歳頃より古流柔術10数派と鷹爪拳、武当拳、中国腿撃(弾腿?)学んで融合、更にはソ連のサンボを加えて催眠術を応用した指導を行う秘拳日本妙道会を設立したとある。 あまり信用のおける経歴には見えないが、70年代当時はどういう風に見えたのかは分からない。
 戸惑いはしたが、編集部はそのまま谷口の名前で記事を出す事にした。 谷口の書いた記事とその人物に対する少林寺拳法側の見解については後に譲るとして、先にこの年に大山が出版した「闘魂」に触れたいと思う。 この中で大山は少林寺拳法について書いているが、5月に出版された「闘魂」は、谷口が大山に手紙を出したきっかけを作った本かも知れない。

闘魂.jpg

 ずっと後になって、中国の古武術である”少林拳”とは、まったく無縁の”少林寺拳法”を名乗る人が、その拳法解説書の中で、空手のことをひどい表現で書いていた。
 彼にいわせると、「瓦は屋根にふくものであり、板は、家を建てるためにあるのものであって、割るためにあるのではない。 牛の角を折ってよろこんでいる空手家がいるが、牛は、農耕や食用に使うためにあるのであって、角を折るためにあるのではない」といっている。

いのちがけの格闘に対する批判
 ”牛の角を折ってよろこんでいる空手家”といえば、私をおいてほかには、一人もいないのだから、これは私に対して批判していることである。
(中略)
 ”角を折ってよろこぶ”というけれど、瓦や板とはわけが違う。 いままで書いてきたように、これはひとくちにいって、人間では不可能なことである。 その後、誰か一人でも、素手で牛に立ち向かった人がいただろうか。 寡聞にして私は知らない。 それを誇示するわけではないが、私たちにとって、瓦を割り、板を割り、レンガを割り、石を割ることは訓練の一つの目安であるし、道標としているのである。
 少くとも、それを誹謗するからには、石とまではいわない、レンガくらい割ってみたうえで、また、牛の角を折ってみろとまではいわない。 せめて、ヤギの角くらい折ったうえでのことにしていただきたかった。
 その後彼は、なにもしていない。 なにもしないで、なにもしないことを、よいことだというのなら、これは口先だけのこと、子どもだってできる。 角は折らないが、少林寺拳法は、日本無敵だというなら、私はいつでも挑戦に応ずる用意があるといい続けたが、ただの一度も連絡はなかった。

 少林寺拳法の管長、宗道臣に面会して実際に一手御指南を…と告げて断られた話は何も大山倍達だけでは無い。 大山とも交流のあった後の日本拳法協会最高師範、森良之祐は1950〜51年頃、弟子を伴って武道談義をする為に少林寺拳法の本山に赴いた所、宗の物言いに腹を立てた弟子がその場で稽古を申し込んで断られている。 森の回想によればこうだ。 尚、文中にある中野師とは宗道臣の当時の名前「中野道臣」を指す。

 話していると、彼の口から”柔道屋さん” ”から手屋さん”という武術人らしからぬ言葉が出る。 少林寺拳法は逆取りわざを中心にして技術が構成されていると思って、合気道のことを話すと、「合気道のわざはきかない」である。
(中略)
…ところが気の短いO君は「少林寺拳法は修養道で、勝負の強弱を争うようなことはしないと言っておきながら、他流派の技術は拙劣であるとこきおろすとは矛盾も甚だしい」と思ってか、ややムッとした表情で「中野先生のお話を聞いていると、頭の悪い私にはのみ込めないところが多分にある。 ここらで一手、ご指導をお願いできないでしょうか?」と、稽古を申し込んだ。
 すると「頭の髪の毛を伸ばしている者には指導できない」とのお答えである。 これを聞いて思わず私は苦笑してしまった。 中野師の弟子は数千と呼称していたが、戦後5〜6年も経っている今日、頭をまるめた者をそれだけ集めるのはたいへんだろうな、と思ったものだ。 しかしそのときは別にケンカをやりにきたわけではないので、O君をたしなめ、道場を見せていただいて帰った。

 しかし、宗は別に闘わずして自流を広めた、というのも誤解である。 宗の高弟、内山滋は学生時代に柔道で三段を得、戦時中は銃剣術の将校教育の助教を務め、後に東京で道院長となった実力者だが、1951年に少林寺拳法の噂を聞き、実際に宗に挑戦している。 道場破りをやって負けた側の証言と言うのは中々貴重だと思うので、63年の内山のインタビューからそのまま掲載する。

内山滋1963.jpg
内山滋

 そのころ、宗師範の少林寺拳法の威力を風の便りにきいたのです。
 『いや凄いやつが現れた。 どんな武道家でもたちまち投げられてしまう』
 『とにかく手の先をつかまれると、ふわっと浮いて投げられてしまう。 まったく妙なものだ!』
 という噂なのですね。 私は、
 『ばかをいえ、そんなことがあるものか』
 と鼻の先で笑っていた。 というのは、中国でも、渋川流の達人と称する日本人と立ちあって勝ったことがある。
 それに類したインチキ武道家ではないかと思ったからです。
 そこで、一つこいつを退治してやろう(笑声)と思って出かけて、挑戦を申し入れた。
 すると、宗師範は、こころよく応じてくれた。
 『どこからでもかまわない。 つかんできなさい』
 というのです。 そこで、つかみかかると、つぎの瞬間倒れているのです。(笑声)
 自分で、どっちを向いて倒れたかわからないのですね。 こんなことは全くはじめてで、大変びっくりしました。
 二十畳の道場、すみからすみまでさんざんに投げとばされたのです。
 私は、このとき、これだと腹にきめました。 それに技自体にも、大変な魅力がある。
 その上その思想も、宗教の上に立ったしっかりしたものがある。
 自分の一生をささげて修めるものは、これだと決心したのです。

 ちなみに1911年生まれの宗道臣は大山倍達より約10歳年上なので、大山が挑発していた頃は60前後である。 「秘伝 少林寺拳法」を出版したのは52歳頃だし、いずれにせよ大山の挑発に乗る年齢では無かっただろう。

 1971年9月、本山総務委員会は道院長支部長に対し、「少林寺拳法を誹謗する怪文書について」という通達を出した。
 この怪文書というのは、谷口統健(少林寺側によれば「谷口翡」)が書いた記事の切り抜きと手紙から構成され、宗道臣に対する批判記事となっており、少林寺拳法部のある各大学学長や部長宛に郵送されていたという。 谷口は泉南道院に入門して二段にまでなったという事だが、反少林寺拳法グループのみに取材して「和歌山時事新聞」に書いた記事ー「現代カラテマガジン」に掲載された記事と同じ物だがーが問題となり、谷口はこの通達後の11月に本山に対して自筆捺印の詫び状を書いている。 にも関わらず、「現代カラテマガジン」という怪文書では無く刊行物に転載された同記事を見た時の少林寺拳法本山の怒りはどれほどの物だっただろうか。

少林寺はニセモノだ1.jpg

 「現代カラテマガジン」に掲載された記事には編集部が足したと思われる序文があるので、単に転載した、という訳でも無い。

 戦後、マスコミの虚像に踊り、中国拳として売り出した四国の少林寺拳法、実は中国拳でないことがわかりはじめ、日本の武道家の間で物議をかもしている。
 そこで少林寺の有段者でありながら全ての武道を愛する姿勢で少林寺の内幕と矛盾を調査中の元放送記者、谷口統健氏の少林寺ニセモノ論を特集することにした。

 一連の流れを見ると、どうやら新興団体である極真には既に大組織となっていた少林寺拳法を、どうにかして対決の場に引っ張り出したいという意図があった様にも見える。 講道館と古流柔術の故事では無いが、勝てば一気に勢力を奪える可能性がある事を考えると、あり得る話では無いか。

 谷口統健による少林寺拳法批判記事は割愛するが、記事その物は拳法の出自と宗教としての少林寺拳法、そして宗道臣の人格に対しての言及に終始している。 「現代カラテマガジン」では6回に分けて掲載する予定だったものが僅か2回で終了したので、これ以降何と書かれていたかは知らない。 私自身は少林寺拳法に関して技術書に書かれている範囲の事しか知らないし、中国拳法や他の日本武術との関連に関しても調べた事が無いので、記事の正当性については分からない。 ただ、批判を展開している谷口の論文も、現代の知識から見れば首を傾げるところがあるのもまた事実だ。
 また、1969年には第2回日本武道学会大会で日本兵法大和道を創始した佐藤金兵衛が、「義和団事件と拳法」という宗を誹謗中傷したとされる論文を発表しようとして少林寺拳法側が抗議、結局発表中止になったという事もあったし(4年後には暴力事件へと発展する)、同一名称を持った他流との争いも頻発化していたりと、少林寺拳法は組織防衛の為に非常にナーバスになっていた。
 そこへ来てこの記事である。 「現代カラテマガジン」の記事掲載後…10月20日過ぎて、という事だから第4回全日本大会の2日前に四国の金剛禅総本山少林寺事務局長 鈴木義孝の名義で編集部に内容証明付の抗議文が寄せられる。 抗議文には谷口の記事が事実無根で事実を歪曲している、誹謗中傷なので厳重に抗議するとあった。 要は記事連載を打ち切って欲しいという要求だ。 そして筆者である谷口とは既に解決済みだと言う。 その事を裏付ける様に、別便で谷口が書いたという詫び状のコピーが届いた。

 …「(問題の記事は)私の取材不足と私の主観のため金剛禅総本山少林寺に対し多大の迷惑をかけましたことを深くおわび申し上げます」という内容で、編集部はこのわび状の存在にひとかたならず驚かされたが、「強引にかかされた」ものだとする谷口氏のことばに留意し、さらにはこの鈴木氏からの抗議文が届いた時点ですでに一二月号(十一月一日発行)の編集を大方完了していた事情もあって、とにかく二回目掲載を決定したわけである。 そして急きょ善後策を協議した結果、一流一派に偏することなく公正な立場を貫く意味からも、谷口氏の記事とそれに対する少林寺側の反論を併せて掲載する方向で事態の収拾を計るべく方針を決定した。

 編集部が詫び状のコピーを見て谷口とコンタクトを取った所、本意では無いと回答したのだろう。 これを受けて編集部は両論併記する事でバランスを図ろうとした。 尚、実際に少林寺拳法側に反論記事を打診したのか、それとも打診しようとしたのかは不明である。
 
 10月22日、東京都体育館で第4回オープントーナメント全日本空手道選手権大会開催。 本部で約2年、イギリス時代も併せると約5年修行し、この年に初段となったばかりのイギリスからの空手留学生、ハワード・コリンズが優勝候補の山崎照朝、佐藤俊和、鈴木浩平を下すものの、本部指導員となった三浦美幸には及ばず、準優勝となる。

第4回全日本1972.jpg

 優勝した三浦とコリンズは昨年も対戦していたが、結局コリンズは雪辱を果たせなかった。

 11月3日、谷口統健から自身の記事連載中止を求める電報が編集部に届く。 編集部はその豹変振りに驚くが、筆者自身の申し入れという事なので中止せざるを得ない。 しかしながら12月号は既に印刷に入っておりこれを止める事も適わない。 協議の結果、翌月からの掲載を控える方針となったが、今号はこのままで行く事にした。

 そして11月5日、池袋の極真会館総本部に男が訪れた。


 という事で、連載の第2回目はここまでですw
 今回の記事は資料を探すのに2ちゃんねるが役に立ちましたw 普段はニュー速+とか特亜板にしか行かないのですが、久々に武道板を見たって感じですねぇ。 言説その物は参考にしていないので、参考リンクには入れていません、悪しからず。 ソースは2chで通るのは、まとめブログと韓国の新聞、そして犯罪予告ぐらいなもんです。
 日本拳法の森良之祐先生の話と裁判記録の情報は、武道板から仕入れました。 それにしても「マス大山カラテスクールBOX」、便利過ぎ。 スキャンしなくても「現代カラテマガジン」全誌のJPEG画像が用意されているなんて素晴らしいの一言ですw 「近代カラテ」「現代カラテ」「月刊パワー空手」と海外に出してた季刊誌もDVDで出して欲しいものです。

 さて、本文中には書いていませんけど、宗道臣先生が挑戦を受けた時の話にはどうやら傾向がある様でして、組技系の武道の挑戦は受けている様です。 対決出来なかったと発言している人は皆打撃系です。 まぁ、私が知っているのが3名だけって話なんですが、列挙すると…大山倍達、森良之祐の弟子、風間健の3名です。 風間先生はそのまま弟子になっちゃいましたねw やはり人間味溢れる人物だったのでしょう。
 大山総裁は70歳頃に帝国ホテルで他流派の人物をぶん殴って顎を骨折させ、警察に連行されて示談金数百万を支払ったそうですが、普通は50歳を超えたら直接立ち会う事は無いですよね…w この時に自宅に帰った大山総裁が、家族に話した説明が面白かったので引用してみます。

…「一人で来いというから行ったんだがね、相手は五人も引き連れているんだよ。 私が雑誌で言ったことに文句を言うんだが、口の利き方が生意気でね。 君ぃ、年上の私に向かってその態度はないじゃないかと言ったら、今度は私に指をさすんだよ。 これはいかんなぁと思って手をはらったら、相手が私を叩いたから、私も思いっきり殴ったら相手のアゴが折れてしまったよ。 これはまずかった」

 尚、このエピソードの詳細は「大山倍達 強く生きる言葉」に収録されています。 …大山総裁、宗先生も年上ですよー…と言ったら野暮かw

 ちなみに70年代の極真はかなり強気で色々な所を挑発していますが、逆に果たし状を送られた事もありますね。 この件に関してはあまり知らないのですが、1976年9月に剛柔流の香川治義先生がウチの大会に出て来いとやったみたいですね。 最早野試合で決着をーという時代でもありませんし、戦術的にも自流の大会に引き摺り込むのが最も有効で勝率も格段に上がりますから、極真は挑戦するならウチの大会に来いとやり返したみたいで、結局平行線を辿ってしまった様です。 他にもこの少林寺拳法と揉めていた年は、旗揚げしたばかりの新日本プロレスから大会に出たいという話があったのですが、ルール的な問題からお断りしてたりします。 まぁ、熱い時代だったのでしょうw
 結局空手界における勢力争いというのは80年代に持ち越され、全空連と極真は交われずにそれぞれオリンピックを目指し、少林寺拳法は恐らく単一流派としては国内最大規模(柔道を除く)にまで成長し、極真に触発されたー当時はニューウェーブ空手なんて言っていましたが、インディー系空手団体の交流が関西を中心に活発化し、混沌となって行くのですが、それはまた別の話。
 それでは、また。

参考文献:(今回から新聞、雑誌、書籍の順に並べる事にしました)
日刊スポーツ 日刊スポーツ新聞社 1969年
スポーツニッポン スポーツニッポン社 1972年
剣豪列伝集 第83号 双葉社 1963年
現代カラテマガジン 1972年6月号 現代カラテマガジン社 1972年
現代カラテマガジン 1972年7月号 現代カラテマガジン社 1972年
現代カラテマガジン 1972年8月号 現代カラテマガジン社 1972年
現代カラテマガジン 1972年9月号 現代カラテマガジン社 1972年
現代カラテマガジン 1972年10月号 現代カラテマガジン社 1972年
現代カラテマガジン 1972年11月号 現代カラテマガジン社 1972年
現代カラテマガジン 1972年12月号 現代カラテマガジン社 1972年
現代カラテマガジン 1973年1月号 現代カラテマガジン社 1972年
現代カラテマガジン 1973年3月号 現代カラテマガジン社 1972年
週刊大衆 1978年 2/16号 双葉社 1978年
月刊秘伝 2008年1月号 BABジャパン 2007年
秘伝 少林寺拳法 宗道臣著 光文社 1963年
空手バカ一代 闘魂 拳ひとすじの人生 大山倍達著 サンケイ新聞社出版局 1972年
73 極真会館年鑑 財団法人極真奨学会 極真会館 1972年
爆発! マス大山空手 勁文社 1974年
第1回オープントーナメント 全世界空手道選手権大会記念プログラム 財団法人極真奨学会 極真会館 1975年
少林寺拳法五十年史 第一部 正史 『少林寺拳法五十年史』刊行委員会編 財団法人 少林寺拳法連盟 1997年
絵説 日本拳法 森良之祐著 東京書店 1998年
極真外伝 〜極真空手もう一つの闘い〜 ぴいぷる社 1999年
大山倍達 強く生きる言葉 大山喜子クリスティーナ編著 成甲書房 2010年

参考リンク:
義和団事件と拳法 (05/21/2011)
吉峰康雄 武道放談 少林寺拳法の記事 (05/21/2011)
昭和48(ワ)1491 不正競争 民事訴訟 昭和55年03月18日 大阪地方裁判所 (05/21/2011)
 






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コメント
私も「マス大山カラテスクールBOX」を購入してしまいました。大量処分してしまったのですが、忘れがたく・・私も同感で「近代カラテ」「現代カラテ」「パワー空手」の完全巻収録版が欲しい。昨日、どっかの掲示板に、舟木昭太郎さんに「ムエタイ・キック50年史(過去のキック記事の完全収録版)」を作って欲しい旨を書いた事を思い起こしました。
  • 四十路
  • 2011/05/23 2:52 AM
上のレスですが、一部訂正をさせて下さい。何故か気になってしまって(苦笑)・・(正)書いた事が思い起こされました。 添野師範の著書に記憶があるのですが、埼玉東部在住の空手八段の方から挑戦の申し入れがあり、野試合に発展する可能性があったそうです。添野師範は「もし、自分が負けたら埼玉から手を引きましょう」と挑戦の受諾を示したそうなんですが、先方が謝意を示して事無きを得たらしいです。なんか支部開設によるトラブルだった様ですね。先方からすれば「うちのシマを荒らすな!」って事だったのでしょうか。
  • 四十路
  • 2011/05/23 3:22 AM
>四十路さん
支部単位でしたらそういう事もありましたね。
某支部長の所にはヤクザを使った嫌がらせ、なんて事も実際にあったみたいですし。
西日本の方ですと、支部開設が遅い地域もあったので「ニセ極真」なんてものもありましたw
九州の支部長で、開設時に「ニセ極真」の道場破りに行った人もいらっしゃいますしねぇ。
  • Leo
  • 2011/05/23 9:19 PM
「はじめよう!少林寺拳法」を立ち読みしました。

いきなり「少林寺拳法は日本でできた拳法です」
と明記されているのには驚きました。さわやかさまで感じましたw。

発祥云々であれこれ言われていたのは
はるか昔の事になってしまったのですね。


宗氏が打撃が苦手かどうかはわかりませんが
避けていた事が多い(3件あった)
という事実は面白いです。


「大山倍達 強く生きる言葉」は買わないつもりだったのですが
もう一回立ち読みして再考しますw。

  • もん爺
  • 2011/05/24 2:47 PM
>もん爺さん
確かに中国拳法の正当性云々の話は無くなったんでしょうかね。
佐藤金兵衛先生もやられ損だなぁw
あれだけのシステムを1人で作ってはいないとしても、立ち上げた宗先生が打撃が苦手、という事は無かったと思いますが、聞こえてくる逸話の大半に打撃系な感じがしませんね。 得手としていたのは組技じゃないかなーと思っています。
  • Leo
  • 2011/05/24 9:24 PM
こんにちは。
毎日暑いですね。
今日、東映チャンネル観ていたらNET 特別機動捜査隊『#419 夜のシャボン玉』に極真ジムの添野先生が少しだけ出演されてました。カラーでセリフあり(笑)16日金曜日午前中に再放送あります。
  • 天下泰平
  • 2013/08/11 9:45 AM
>天下泰平さん

あぁ、それだ。 ワールドキックのジャンパーを着てるんですよね?

見たいですw
  • Leo
  • 2013/08/11 12:08 PM
宗道臣の喧嘩する場面を見た人によると、複数の相手を手際よく倒して相当強かったみたいですね。
  • やいや
  • 2013/11/19 12:34 AM
いつも面白く詳細な記事を、ありがとうございます。ソース(記憶)が定かでないのですが、極真と少林寺とのトラブルの背景には、両団体の、某振興会(当時)会長との関係があった、という見解を見た覚えがあります。
  • 柳生呑兵衛
  • 2013/11/21 2:47 PM
>柳生呑兵衛さん

どうなんでしょうね?

時期的にはあり得ますが、個人的には無い、と思います。
というのは、色々精査してて気付いたんですけど、最初に全空連に対して声明文を発表した72年は、全空連側から反論もありましたが、感情的なやりとりは余り見られません。
どころか、笹川氏は大山総裁の意見を一部肯定すらしていますw
いつから感情的になったのかと言うと…今の所、見た感じ、76年の剛柔流の挑戦状辺りからかなぁ。
多分この頃に挑戦状を受けて、笹川氏の意向だと思ったのか、インタビューで70年の全空連との会合を暴露してますしw
その次に問題となったのは、78年の声明文ですね。 全空連の団体戦3連敗という結果を受けての声明文ですが、この中で大山総裁は「日空連会長」を含む一部指導者が組織を私物化しているとして、非難しています。
この名指しの批判を受けて、笹川氏が「大山クンがウチの組織に入れてくれと言いに来た事がある」と、同年のテレビ朝日の「こちらデスク」で発言し、極真側が猛抗議、なんて一幕がありました。

よって、72年中に行動を起こすのはちょっと考え難いですね。
  • Leo
  • 2013/11/23 12:31 AM
そうでしたか。承知しました。
詳しく教えて頂き、ありがとうございました。
  • 柳生呑兵衛
  • 2013/11/25 6:05 PM
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