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大山倍達マニアック検定

極真空手と少林寺拳法の抗争3(1972年)


JUGEMテーマ:空手
 という事で、先週はちょっと大道塾の東孝塾長の出身地とか出身校に行ってまして。 まぁ、大した事なんて出来なかったのであんまり書きませんけどね。 後、政府の無能っ振りが良く分かりました。 上がダメなので現地では色々機能不全に陥っています。 お世話になった現地の方の自宅で、幼稚園児のお子さんがテレビを見ながら「かんはばかー」と言っていたので、親御さんの口癖になっているのかも知れませんw 個人的に感じたのは、今現地に必要なのは「職」と「見通し」でしょうか。
 そういう事で1週間ほど更新も何もせずにいました。
 まぁ政治ブログじゃないので、本編に参りましょうか。 尚、この記事の大半は極真側の資料で成り立っています。 悪しからず。

過去記事はこちら
極真空手と少林寺拳法の抗争1(1972年)
極真空手と少林寺拳法の抗争2(1972年)
極真空手と少林寺拳法の抗争3(1972年)
極真空手と少林寺拳法の抗争4(1972年)


 1972年11月5日、日曜日の事だった。 1人の青年が池袋にある極真会館の総本部を訪れ、館長の大山倍達へと面会を希望した。 そして館長室に通された青年は、金剛禅少林寺拳法の修業者を名乗り、極真に他流試合を申し込んだ。 当時の模様は同月27日発行の「スポーツニッポン」紙に書かれているので、ここに引用する。
 
スポニチ19721127.jpg
スポーツニッポン(1972年11/27)

 極真会館の機関誌”空手マガジン”に△△△拳法はニセモノ”と題する特別寄稿が掲載されていたことから「二日後、あなたの道場で勝負を決めようではないか」というつまり他流試合の挑戦の申し入れであった。

 大山門下の1人、福沢拳山によれば少林寺拳法側は16時に3名で来館すると伝えたと言う。 大山はこれを了承。 しかし当日の大山は不在。 これについては所用あったのか、それとも徹底的にやる上で責任者の大山が場に居たらまずいという判断だったのかは分からない。 しかし、大山は他流試合に備えた門下生にきちんと「歓迎」する様に伝えたと思われる。

 翌6日、少林寺拳法の鈴木義孝事務局長が四国から上京、「現代カラテマガジン」の編集部を訪ねる。 鈴木は上京する前に谷口統健と面談をして来たのだ。
 鈴木は、例の批判記事は「現代カラテマガジン」が勝手に転載したと谷口が言い張っているのだという事で抗議を切り出した。
 呆れた編集部側は鈴木の誤解を解くべく、谷口が同記事を寄稿した経緯を説明した。 鈴木は納得した様だが、今後の対応も含めて話を詰める為、翌日また改めて会談する事となった。

 7日、鈴木は編集部側と改めて話し合い、谷口の「少林寺はニセモノだ!!」の連載中止を決定するという事で合意を得た。 円満に和解したのだ。 しかし、鈴木はこの時まだ同時に進行していた他流試合について知らなかったのだと思われる。

 大役を済ませた鈴木が東京の少林寺拳法関係者と連絡を取り、話が付いたはずの極真会館側と本日他流試合が行われると知ったー。 この件に関してはあくまでも私の推測である。 が、話の整合性は充分取れるのでは無いだろうか。 鈴木は折角諫めた話を蒸し返したくなかったのだろう。 関係者を説き伏せ、恐らくはこの件について弁明すべく数人を連れタクシーに乗り、他流試合の行われる極真会館総本部へと出発した。 他流試合を前にして殺伐とした雰囲気に包まれた極真会館へと。

 この件は関東の少林寺拳法ではこの様な話になっていた様だ。 以下を中西準一の回想から引用する。

少林寺修行記.jpg

 秋の武道祭の前、ミーティングの席上、
 「今、○○会ともめているから全員気をつけるように」との指示です。
 「おれたちの大学も狙ってくるかもしれないからみな単独で行動しないように」
 戦闘空手を標榜する○○会のことです。
 「怖いよなぁ、あそこは強いんだろ」
 ふともらした同輩の言葉に、わたしはムカッときました。
 「ケンカなら任せとけよ」と後ろにおられた高橋久男先輩も憤り立っています。
 「そうです! やっつけちゃえばいいんです!!」
 これは素手で負けたら火炎ビンの思考です。 というのも、さんざん左翼の闘争を見せられていた当時のわたしは、アパートには木刀を数本用意し、イザという時に備えていたわけです。

 しかしこの時は情報だけが氾濫し、抗争に備えただけで一部の人間だけが行動した様である。

 一方、そんな事情等知らぬ極真会館側は、先の全日本を制した本部指導員の三浦美幸を筆頭に第3回全日本王者佐藤勝昭、台湾から帰ってきた本部指導員岸信行、本年度全日本第2位ハワード・コリンズ、第3回全日本3位の大石代吾、そして第1回全日本2位、第2回全日本3位で添野道場(東京都下・埼玉支部)を預かる添野義二の6名が準備をしていた様だ。 他にも恐らくは立会人として古参の福沢拳山と、梶原一騎の実弟真樹日佐夫がこの場に居たらしい。 当時の本部最強の布陣である。
 火曜日の16時は当時3部あった稽古時間の内、2部の稽古が始まる時間だ。 間も無く冬期審査会、という時期ではあったが2部の稽古に参加しようと訪れた門下生を帰しながら待っていたのだろう。 
 本部付近の通りにタクシーが止まった。 その場でタクシーを待たせた少林寺拳法の事務局長、鈴木と他数名は1階の受付に顔を出した。 それは「現代カラテマガジン」との和解の事を知らなかった極真側にはこの様に見えた。

 ところが当の三人は二日前の勢いはどこへやら、低姿勢で受付をのぞいていて「もう話はついたから………」というばかり。 「何が話がついたんだ。 こっちは試合の用意ができている。 すぐに道場に上がれ」
 三浦二段の言葉に三人はあわてて、エンジンをかけたまま表通りに待たせておいたタクシーに乗り込んで、排気ガスを最後っ屁(ぺ)に雲をカスミと逃げていったのである。 (スポーツニッポン 11/27 1972年)

 翌年「現代カラテマガジン」で福沢拳山も相手が逃げ出したと書いた。 また、真樹日佐夫は後に「現代カラテマガジン」の連載「黒帯交友録」の添野義二の回で当時をこう振り返る。

現代カラテマガジン197905.jpg

 「奴等がきましたッ」
 大石君がとび込んできて言った。
 「よし、それじゃ出迎えなくては、礼儀にはずれるな」
 添野君はニヤッとして呟いた。
 私、添野、大石の三人で本部の玄関を出ると、表の公園の前の道でタクシー二台から某流派の数名が降り立ったところだった。
 彼等はこちらの顔ぶれを見ると、一瞬、うろたえたような表情を浮かべた。
 「おい、奴らは逃げ腰だぞ。 首っ玉をつかまえて引張ってこいッ」
 添野君が云い、
 「オスッ」
 大石君は、その方へすっとんで行った。
 と、某流派一行は忽ち恐怖をあらわにして、降りたばかりのタクシーへ我勝ちに、またとび乗った。
 そして、駆け寄って引きずり出そうとする大石君の手を振り切ってドアを閉め、フルスピードで逃げ去ったのだった。

 添野もその約20年後にインタビューに答えてこう証言する。

 それで他流試合をするっていう話になったみたいで、道場に来るからって、俺と大石代吾と三浦とか10人ぐらい呼ばれて道衣着て待ってたんだよ。 だけど、俺が道場に上げる前にけんか腰だった向こうが逃げてね、それでその事務局長をね。
ーー殴ったんですか?
添野  殴ったっていうか、こづいた程度(笑)。

 昔の話という事で記憶の齟齬が生じているが、話をまとめるとこういう事ではなかろうか。
 全くの別件で進行してた他流試合を知らずに和解が成立したと思っていた鈴木が、直前にその事を知り止めるべく本部にタクシーで訪れる。 そして和解の事を知らない極真側は話を解せず、道場に引きずり出そうとする。 和解したと思って闘う心の準備の出来ていなかった少林寺拳法側は、話が通じず殺伐とした雰囲気に呑まれ一旦出直すか、「現代カラテマガジン」に仲介を頼もうと決める。 それを逃亡と判断した極真側はタクシーまで追い引きずり出そうとするが、そのままタクシーが出てしまう。 恐らくは添野が殴ったという事実も無かったと思われる。

 翌8日、他流試合から1日が経過し、寒さが厳しくなって来たのを感じた大山倍達が三浦美幸に命じてストーブを出した頃、鈴木義孝は発端となった記事を書いた谷口統健を呼び出し、誓約書を書かせる。 これを以て全ての件を収めようとしたのだろう。 以下が誓約書の全文である。

谷口統健誓約書.jpg

誓  約  書

 私こと谷口光昭は、和歌山時事新聞に昭和四十五年一月六日から二十一回にわたり、「少林寺はニセモノだ」という記事を連載しました。 この記事は、私の一方的な取材と偏見から少林寺に対するねつ造と誹謗に満ちており、少林寺に対し多大のご迷惑をおかけしましたので深く反省の上、昭和四十六年十一月十三日付で金剛禅総本山少林寺にあてて自筆捺印のおわび状を提出し、今後再びこのようなことを行わないことを誓いました。 それにもかかわらず制約に違反して、この度、現代カラテマガジン一九七二年年十一月号を及び十二月号誌上に前記「少林寺はニセモノだ」の記事を秘拳日本妙道会主宰谷口統健の筆名で私の近影と経歴書を添えて投稿し、再び大変なご迷惑をおかけしました。 このことは少くとも武道家を名乗るものとして、また一人の人間として全く信義を無視した背徳行為であったと痛切に反省しざんきにたえません。 総本山少林寺に対し、伏しておわび申しあげますとともに次の各条項を私の一身を以って誠実に履行することを固くお誓い申し上げます。
一、秘拳日本妙道会を即時解散して今後一切武道の世界との縁を絶つこと
一、少林寺に関する一切の文筆活動を停止すること
一、少林寺のみなさまに対しておかけした精神的及び物質的ご迷惑に対する罪のつぐないをすること
 万一、右の誓約に反することがありました時はいかなる制裁、処置をうけましても一切不服は申しません。
    昭和四十七年十一月八日
     谷口 光昭
 金剛禅総本山少林寺殿

  鈴木はこの誓約書と詫びる谷口の写真を添えて「現代カラテマガジン」に送る。 これを受けて編集部側は1月号で「少林寺ニセモノ論 顛末記」という記事を書く。 記事は他流試合を除く記事掲載に関する経緯を説明した上でこう締めた。

少林寺ニセモノ論顛末記.jpg
谷口が詫びる写真も共に掲載された。

 本誌はここに、今回の事件を通じ少林寺側が一貫して示された友好的かつ寛大な態度に感謝すると共に、谷口統健なる節操のかけらもない人物に振り回され、少林寺に対してひとかたならぬ迷惑を及ぼしたことに深甚なる陳謝の意を表明するものである。

 ここで一旦話は収束した様に思えた。 実際肩透かしとなった他流試合の余熱は多少はあっただろうが、10日にはハワイから支部長のボビー・ローが来日する為、三浦美幸が羽田に迎えに行ったりと通常通りの業務に戻っていた。
 19日の日曜日には冬期審査会があった。 劇画「空手バカ一代」を読んで入門を決めた門下生の多くが色帯となり、23日には夕方の2部の稽古で56名が参加、夜の3部には31名が参加と確実に門下生が増えている。 また、大山の著作「ケンカ空手 世界に勝つ」がスポーツニッポン新聞社から発売され、それに合わせて本紙では25日から「大山倍達 ケンカ空手」という短期連載記事が掲載される。

ケンカ空手世界に勝つ-広告.jpg

 大山は極真会館会長毛利松平の衆議院選挙応援の為欠席する予定だが、12月1日はイギリスに帰国するハワード・コリンズの百人組手、10日には大会上位3名がハワイ旅行の予定と順風満帆であった。
 

 ちょっと長くなりそうだったので、2部に切り分けますw
 多分この手の記事では初掲載となる「スポーツニッポン」の記事により話が繋がったのでは無いでしょうか。 多分少林寺拳法側は「現代カラテマガジン」と極真会館側が一体だと勘違いしてたんですね。 それで他流試合の話を無かった事にしようとして、やって来たのでこの様な結果になったのでは無いかと、推測しています。
 実際、これが一番筋が通る様な気がします。 互いの前提条件が違っていた為、話が通じなかったんでしょう。 まぁ、一番疑問なのは真樹日佐夫先生ですがw 編集部の方に顔を出していなかったのか、もしくは実は他流試合の日に本部に居なかったのかどっちかじゃないかなーと思います。
 で、添野義二先生についてですが、多分どうしたのかあまり記憶に無かったんじゃないかなぁ。 こづいたぐらいはやった気がするって曖昧な記憶だった様に思います。 次回書きますが、大山倍達総裁は殴ろうとするのを止めたって話をしてるんですよね。 多分次の騒動の際に殴ろうとした記憶と相まってるんじゃないかと。
 最終回はこのまま連続で更新します。

参考文献:
スポーツニッポン スポーツニッポン新聞社 1972年
現代カラテマガジン 1973年1月号 現代カラテマガジン社 1972年
現代カラテマガジン 1973年2月号 現代カラテマガジン社 1972年
現代カラテマガジン 1973年3月号 現代カラテマガジン社 1972年
現代カラテマガジン 1979年5月号 現代カラテマガジン社 1979年
73 極真会館年鑑 財団法人極真奨学会 極真会館 1972年
実録・少林寺修行記 第一部・祖国愛に燃えて 中西準一著 竹内書店新社 1993年
最強最後の大山倍達読本 日本スポーツ出版社 1997年
少林寺拳法五十年史 第一部 正史 『少林寺拳法五十年史』刊行委員会編 財団法人 少林寺拳法連盟 1997年
極真外伝 〜極真空手もう一つの闘い〜 ぴいぷる社 1999年

 






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コメント
少林寺拳法はニセモノだから謝る必要はなかったのに。
  • やいや
  • 2011/06/06 9:15 PM
「大山倍達なんか土下座して謝ったんだ!」

と言って写真をあちこちに宗氏が見せたが
それは谷口氏の土下座した写真だった。

というような話を聞いた事があります。

事実のほどは知りませんが
宗氏が極真に対して
ライバル心むき出しだったのは
間違いなかっただろうと
思います。

生前の宗氏の語録を読むと
良い事をいっぱい言われているので
ギャップが激しいのですがw。

まあ若いころはしょうがない

そのくらいの気持ちがないと
けっしてあそこまで大きな組織にならないのだろうなと感じます。

どこの組織も同じかも知れません。
  • もん爺
  • 2011/06/09 2:43 AM
>やいやさん
まぁ、ニセモノ論の是非については私の専門では無いので…w

>もん爺さん
宗先生の基本的な立ち位置が良く分からないんですよね。 武道家なのか、それとも宗教家なのか教育者なのか。
武道家的批評をしながら、実際に応対する時は宗教家として通すってのはどうかなーと思います。
宗先生にライバル心があったのかどうかはわかりませんが、その門下で意識してらっしゃる方は多いかも知れませんねぇ。
  • Leo
  • 2011/06/09 9:51 PM
確か昔の看板には“卍日本正統北派少林寺拳法”とありましたね。何が日本正統で、何が北派で何が少林寺の拳法なんだろ?あんな内容で今こんな名前名乗ってたら袋叩きですよ。
  • やいや
  • 2011/06/09 11:06 PM
そうですね。

言わば最初に喧嘩を売ってきたのは宗氏ですから。
(実は逆だった、という資料が出てきたら知りませんがw)

禅問答で対応するのではなく

「実際に立ち会って証明しましょう」
とするのが
筋かと思います。

現代だったら
宗氏が批判した段階で
極真サイドが訴訟起こすとか
またスポニチに掲載された時点で
少林寺サイドが訴訟起こすとかいう事になるのでしょうが
これはファン?から見てつまらないですねw。

やはり昔は面白かったです。なんであれ夢?がありました。
  • もん爺
  • 2011/06/10 2:48 AM
>やいやさん
えー現在はこの様に説明して居る様です。
「北派」は、宗先生が学んだ拳法が「北少林系」で、思想面では「北禅」だった事が理由だそうです。
「正統」は、「仏伝正統」の意味を含んでおり、組織拡大の過程で「少林寺拳法」の正当性を主張する必要があったので入れたとの事。
「少林寺拳法」は、禅宗の達磨の遺跡である少林寺の名を永世に残したいのと、師の文太宗が、嵩山少林寺の僧で、義和門拳法の印可を少林寺で受けた為、だそうです。
ちなみに復刻版ですが、1952年に作られた「拳法教範」という内部向けの教範の初版ではこんな感じでした。

私が傳える北派少林寺拳法と云うのは、少林僧堂義和門廿代の師家、文老師直傳の義和門拳を主にして、これに龍華拳の陳良老師より傳えられた白蓮拳と、四川の王老師より傳法せる如意門の拳棒を統合して整理再編したものである。

で、技を日本名にしたんだそうです。 極個人的な感想ではありますが…急所の名称とか、技の名称は何となく柔術っぽいです。 中国拳法もそんな詳しく無いんですが、急所名って日本と同じなんでしょうか?
3種類位見た事がありますが、日本と全く違う名称の物が2つと、壇中など一部の名称が同じのがありました。

>もん爺さん
まぁ、批判された程度で訴訟なんて、武術団体ならそうそうやらないと思いますけどw
知っている限りでは極真に限らず他流の訴訟騒ぎも、大体が名称に係わる事ですし。
確かに昔の方が面白かったですね。 逆にそうで無ければ私もこんなブログはやっていなかったでしょうw
わざわざ「分裂前までの極真を中心に」取り扱う奇特なブログですし。
  • Leo
  • 2011/06/12 1:18 PM
今頃コメントしてすみません。 自分は少林寺拳法の支部道院に4ヶ月程通った程度の者ですが、その4ヶ月間全く実践的な練習は何一つやらなかったです。 あの様な内容で強く成れる人は特異な人の様な気がする、、、、、、。 それと自分の知り合いにカンフー修行者がいるけどその人が言ってたのは少林寺拳法の実態は日本の八光流柔術の影響を受けているとの事。ネットの情報だと+糸東流空手と合気道の影響を受けていると有りました。
  • カンフーリー
  • 2013/03/28 10:25 PM
>カンフーリーさん

まぁ、道院にもよるんでしょうけど、確か少林寺拳法は段階的なカリキュラムが設定されているので、どこの道院に行ってもちゃんとした指導体系が組まれていたような…w
少林寺拳法が色々な武術に影響を受けているのは間違い無いと思いますけど、その辺りをキチンと公開しないというのは、先人に対して失礼な事だとは思いますね。
  • Leo
  • 2013/03/30 9:36 PM
宗さん、坊主の長尾に少林寺の名前つけてもらったことを言って下さい。あ、もう亡くなってるか。
  • やいや
  • 2013/08/27 3:18 AM
>カンフーリーさん
私は剣道をやってましたが、うちの剣道部でも4ヶ月くらいでは実戦稽古(地稽古)はやりませんでしたよ。というか、基本も固まってないのに実戦稽古をしても意味がないです。
 個人的には、せめて初段を取るまではやらないと、その武道経験者としては語れないと思います。(部外者として勝手に語るのはもちろん自由ですけどね。)
  • テツ
  • 2015/08/15 2:34 AM
はじめまして。初めて書き込みをさせて頂きます。

私は以前、少林寺に影響を与えたという八光流を学び現在はフルコンタクトの拳法を学んでおります。

少林寺に影響を与えているといっています八光流ですが、宗氏自体は3日?くらいの講習会で学んだ程度だったはずです。
私自身、八光流を学んだものとしての感想は技法的にかなり違うものであると感じております。

ただし、宗氏自体極真だけでなくあっちこっちの流派に喧嘩を売っていたみたいで
古い先生の話によると、八光流自体にも批判文を書いて奥山氏に送り付けたようです。

宗氏自体の経歴などは、こちらのサイトを見つけましたので参考になればと。
http://budo.sence-net.com/siryou/index.html

それでは、長文駄文でしたが失礼致します。
  • サ理バン
  • 2015/09/25 8:41 PM
>サ理バンさん

八光流は講習会で免状を出すのが有名だったんですよね。
影響を受ける事と、自流の根幹を成す事は全然規模が違いますので、部分的に影響を受けた事はあるでしょうが、それが元になった、とは言えないでしょうねぇ。

あのサイト、それなりの人が関わっているのか、よく資料を集めましたよね。
残念ながら、記事を書いた時にはまだ無かったので、参考には出来ませんでしたがw
  • Leo
  • 2015/10/03 7:29 PM
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