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大山倍達マニアック検定

幻の極真ジム 4(1969年)

JUGEMテーマ:空手
 

 シリーズ連載4回目ですね。 一応次回で終わりの予定なのですが、追加調査が必要になりましたので、少し間に挟むかも知れません。
 それでは、どうぞ。

 前回はコチラ


ゴング196909.jpg







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幻の極真ジム 3(1969年)

JUGEMテーマ:空手 


 さて、今回はあまり語られた事の無い時期のNET系キックとなりますかね。 大体は始まった頃と終わる頃の話ばかりで、中頃の話はありませんし。
 では、どうぞ。

前回はコチラ

***

日刊スポーツ19690504_2.jpg

 1969年5月4日、特に告知された訳では無かったが、山崎照朝が引退した後、NET(現・テレビ朝日)は16時から30分間、「ワールド・キックボクシング」の放送を開始した。 1回の興行を2回に分けて放送し、毎月東京と地方で1回興行するというスタイルだった。 先発のTBSキックや協同系(日本テレビで放送)キックに割り込むという異例の事態だったが、更にここに東京12チャンネル(現・テレビ東京)がキック中継を検討しており、最悪キック中継で民放4局が争うという事も噂されていたと当時の「ファイト」紙にも書いてある。






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幻の極真ジム 2(1969年)

JUGEMテーマ:空手
 

 では続編です。 ちゃっちゃと先に行きましょう。
 前回はコチラ

***

 1969年4月15日、大田区体育館には入場無料と言う事もあって、3000名の観客が訪れた。
 この日の注目は1967年ボクシング日本フェザー級新人王だった松本敏之と、"牛殺し"の異名を持つ大山倍達八段門下、極真三羽烏の添野義二、山崎照朝、及川宏(現・大川宏)だった。

極真三羽烏.jpg

 最初に全員がリングに上がり挨拶。 大山門下の極真ジム選手は皆黒帯を締め、背中に「極眞ジム」と書いた道着をガウン代わりに使っていた。






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幻の極真ジム 1(1969年)

JUGEMテーマ:空手
 
 さて、今回は1969年にNET(現・テレビ朝日)で活躍した極真会館の キックボクシングジム、「極真ジム」について色々探ってみようと思います。

 多分公式試合の全興行記録を入手出来てるとは思うのですが…、地方ジムが主体となった興行については無理ですw

ファイト19690415.jpg

 それでは、前史からどうぞ。

***






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大山道場とは何か?

JUGEMテーマ:空手
 

 という事で、今回は極真空手の原点である立教大学裏の大山道場について、色々書いてみます。
 本来ならば目白野天道場が極真空手の原点になるのでしょうが、指導方法や技術体系等から鑑みますと、大山道場の方が相応しいでしょうね。

大山道場入口.jpg
大山道場入口

 それでは、どうぞ。






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【新春企画】1952年の大山倍達 渡米記録(2012/01/14版)

JUGEMテーマ:空手
 
 今年は大山倍達伝説の幕開けとなる1952年から60年目となりますね。 で、久々に渡米ネタをやろうかとw 過去の渡米ネタはコチラ
 ただ、そんなにフレッシュなネタが多い訳でも無いので、こっそり纏めてた行動記録を公開します。 ついでに手持ちの木村政彦や力道山の試合記録も少しだけ入れておきました。
 自分の資料用ですので、人に見せる様なスタイルで書いてありません。 また、実際には表に出典を付けていましたが、行数削減の為、いつもの様に参考文献一覧に統一しています。 文中、"WAYLI"というのが出て来ますが、これはプロレス誌"Wrestling as you like it"の略称です。

wayli05031952.jpg
WAYLI誌

 後、青い文字の日付は土曜日、赤は日曜日です。
 それでは、どうぞ。






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神の手の原点、瓶切り

JUGEMテーマ:空手
 
 今回はブログを始めて1年になりますので、ちょっと原点回帰というか、大山倍達総裁の瓶切りについて色々書いてみようかと思います。
 それでは、本編どうぞ。

…そしてそこで、まぁ、あたしなりのねぇ禅を組んでそして精神を統一して、うあぁぁっと気合を掛けながらバッ、バッ、バッ、バッと行ったらねぇ9本の…。12本の中で9本が折れちゃって、3本が吹っ飛んでしまったんだよ。
そうなったら、そのプロレスラー、"Oh my god... God hand!"
そこでゴッドハンドが出て来たんだよ。"Oh my god... God hand!" 初めて見たと!

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大山倍達 対 雷電号 (1956年)

JUGEMテーマ:空手

 さて、今回でブログ記事100回目だったりします。 まぁ、100回と言っても、26%は「今月の格闘技雑誌」に費やされていますw
 このブログで多少なりとも皆様に何かを残せたなら僥倖ですが、どうなんでしょうね?

 今回は1956年に田園コロシアムで行われた「空手対猛牛」という大山倍達総裁がテレビを入れて公開試合をした時の事を書こうかと思います。 劇画「空手バカ一代」の中でも失敗として描かれたこの闘い…実際はどうだったのでしょうか? それでは、本編と参りましょうか。






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極真空手と少林寺拳法の抗争4(1972年)

JUGEMテーマ:空手
   さていつものアバンをすっ飛ばし、本編に入ります。 この連載は今回でラストですね。

過去記事はこちら
極真空手と少林寺拳法の抗争1(1972年)
極真空手と少林寺拳法の抗争2(1972年)
極真空手と少林寺拳法の抗争3(1972年)
極真空手と少林寺拳法の抗争4(1972年)


 11月27日、「スポーツニッポン」の連載記事「大山倍達 ケンカ空手」にこの様な記述が書かれていた。 何度か引用しているが、該当部分を改めて掲載する。

スポニチ19721127b.jpg

 ついこのあいだ、今月五日のことである。
 ある拳法を志しているという若者が池袋の極真会館の大山館長を訪ねてきた。
  極真会館の機関誌”空手マガジン”に△△△拳法はニセモノ”と題する特別寄稿が掲載されていたことから「二日後、あなたの道場で勝負を決めようではないか」というつまり他流試合の挑戦の申し入れであった。
 七日、△△△拳法四、五段という青年三人が約束通り極真会館へ乗り込んできた。 応対に出たのは三浦二段、佐藤二段、英国人コリンズ初段ら六人。 大山館長は「若い者にまかせておけば大丈夫……」とそこには顔を出さなかった。
 ところが当の三人は二日前の勢いはどこへやら、低姿勢で受付をのぞいていて「もう話はついたから………」というばかり。 「何が話がついたんだ。 こっちは試合の用意ができている。 すぐに道場に上がれ」
 三浦二段の言葉に三人はあわてて、エンジンをかけたまま表通りに待たせておいたタクシーに乗り込んで、排気ガスを最後っ屁(ぺ)に雲をカスミと逃げていったのである。
 「△△△拳法の四、五段ならウチの茶帯(一級)で十分相手ができるとふんでいたのだが、やっぱり………」てんで相撲にならなかったこの対決に大山館長はニガ笑いした。

 経緯を知らない関東の少林寺拳法はこの記事に激怒した。 当事者以外誰も知らなかったのだろう。 中西はこう回想する。

 …スポーツ新聞に載っている△△△拳法の伏せ字で、明らかに曲解の記事を目にしたとき、
 「なにいー!」
 先輩に、
 「やっちゃいましょう!」
 「何が戦闘空手だ!」
(中略)
 わたしはすぐに覚悟を決めました。
 「あそこにガソリンスタンド。 ここにコーラの空きビン」などと歩きながらバイトの通勤中に確認をとり、イザとなれば、
〈燃やしちゃえ!!〉という無茶苦茶さです。
 全員の若い血が騒ぎ、主将までが、
 「これはケンカだ! ルールはない」と明言。
 すぐに幹部会を東京農大と大東文化大を集めて開かれた先輩方(大東大の清田先輩は上級生にケンカを売るくらい根性の据わった方でした)、
 「今日、渥美たちが学連で抗議に行くらしい!」
 「一年生は残ること!」
 「二年生は希望者のみ!」
 「幹部は全員!」
 「はい!!」
 「よし! 仕事、仕事!」 三校合わせて八十名くらいの待機です。
 「中西はどうする?」
 「おれは行く!!」
 一年生のほとんどが「先輩!自分も行きます!!」という覚悟を示してくれていたので、「一年生が行くって言ってるのにキサマ恥しくないのか!!」とおびえる同輩を一喝し、
 「渥美先輩を見殺しにできるかぁ!!」
 逆上し、血が騒いで仕方ありません。
 主将がひんぱんに渥美先輩と連絡をとり合い、「オレも行きたいんだよ!」とおっしゃっているのが耳に入ります。
 学生連盟だけでなく連合会(当時関東連合会)本部の鈴木先生も同行しているとのことでした。
 (中略)
 「五千人くらいの関東全域の道院、学生OB、現役を相手にして○○会が勝てると思う?」
 「そうだな!」と、おびえていた同輩もようやく腹を決めたようです。
 「そうさ! おれは高校二年で千数百人の大集団と一緒にッ、……!」
 〈勝てる!〉
 戦いの実際を知らない者の安心感とでもいうのでしょうか。
 「目には歯を! 歯にはハンマーを!」
(中略)
 「少林寺をなめられてタマルカッー!!」
 誇りを失ったら少林寺ではありません。 もし両者の会談が決裂すれば八十名の特攻隊が武装して突っ込み、メチャクチャに暴れ破壊しつくす決意に燃えていたのです。
 「いいかい、ケンカなんだからルールはないんだぜ! 全学連だって鉄パイプや角材で武装するじゃないか!」
 「鉄砲があればな!」
 「そんなもの鉄砲店に一杯あるじゃないか!」
 この辺になるともう「宗門の行」などという段階ではありません。 ヤクザや愚連隊といっしょです。
 「ダイナマイトだ」ますますエスカレートしっ放しの超過激集団です。
 「機動隊に行って先輩から鉄砲借りて来ようか?」と普段はおとなしい某先輩まで巻き込んでほとんどの者が犯罪を犯す決意をしました。 ただ、誤解をして欲しくないのは、わたしたちはヤクザでもなければ過激派でもありません。 いわれもなく他を批判したり、コケにしては、名誉を傷つける○○会に対して、絶対に許すことができなかっただけなのです。
 「防衛大学に連絡すれば……」と言う先輩もいました。

 大山倍達が12月1日〜5日まで不在なので、記事の掲載された11月27日〜30日頃までだろうと思われるが、恐らく当初は数名、そして最終的には関東の少林寺拳法門下80名ほどが池袋の極真会館総本部付近に集結した。
 本部付近で何名かの極真門下生が闇討ちに遭ったと言われている。 そして数日後に百人組手を控えたハワード・コリンズもその被害に遭った。 真樹日佐夫はコリンズの闇討ちについてこう聞いたという。

現代カラテマガジン197909.jpg

 「暴漢は四人いましたが、私は道場以外のところでは腕力沙汰におよぶのは嫌いなので、黙って相手の殴る蹴るに任せました。 私はちっとも痛くありませんでしたが、彼等の方でスタミナ切れしたものか、やがて引き揚げて行きました」

 添野義二の回想ではこうだ。

 …そうしたら事務局長が100人ぐらい連れてきて、当時の総本部を囲まれたんだよ。 夜、『卍』を書かれて、ガラスを割られて、コリンズが襲われて。 何しろ奴ら、カメラを持ってきていてバシャバシャと写真を撮るんだよ。 不気味だったよ。
 

 当時は三浦美幸と岸(信行)が指導員だったんだけど、彼らが道場に来て写真を撮ったりとかかなりされたのよ。 それで大山先生から「ちょっと来い」って呼ばれて、「こうこうこうで闘うから」って言われてね。 そのあとで100人ぐらいで来て道場を囲んで玄関をブッ壊して逃げてったんだよ。 みんなで追っ掛けていったんだけど、ハワード・コリンズは一人でいるところを逆に襲われたりもしたんだよ。

 少林寺拳法の四国の鈴木義孝事務局長(関東連合会本部の鈴木なる人物と同一かは不明)が事態を解決すべく上京。 まずは社団法人日本少林寺拳法連盟としてスポーツニッポン新聞社に事実では無いと抗議したらしい。 そして極真会館総本部で大山と話し合うつもりで来館したが、その背後には学生連盟から約80名。 本部ビルは三方が住宅だが事実上、取り囲んだ。 このまま対峙した形となっていたらしいが、他流試合騒動の時に鈴木の顔を憶えていた添野が1人外に出て鈴木を呼ぶ。  現在は白蓮会館を主宰する館長の杉原正康は、その時の様子をこう語る。

 …囲んだ時には添野(義二。 現・士道館館長)さんだけが出て来た。

 鈴木は館長室に上がり、大山と会談した。 どの様な話となったかは当事者が語っていない為、不明である。 添野は話し合いで解決したと語り、後に少林寺拳法はこの様に書いた。

少林寺拳法五十年史.jpg

 …社団法人日本少林寺拳法連盟では、スポーツニッポン新聞社にこの記事がまったく事実でないことを厳重に抗議するとともに、再び池袋の極真会館本部を訪れ、大山館長と会談し、大山氏もこれが事実ではないことを認めたため、和解した。

 互いに大人の解決を求めたという事であろう。 和解は速やかに血気盛んな学生達にも伝えられた。

 再び連絡をとった主将が、全員に、
 「和解だ!」と伝えます。
 「話はついた!」
 「今、電話で報告があった」という説明だけで詳しいことはわかりません。
 「安心して帰るように!」
 全員「ハイ!!」
 あっけない結末に、〈刑務所行かなくてすんだ〉という思いと〈後輩まで巻き込まずにすんだ〉の安堵感で一瞬のうちに気が抜けました。

 後に全日本学生連盟、関東学生連盟委員長となる中西準一の回想である。 とりあえず双方にとって最悪の事態は避けられた訳だ。
 当時の事を振り返って、大山倍達は自身の弟子で作家の平岡正明と対談した際にこう語っている。

 …俺は支部長会議の時に言ったんだもの。 極真がものすごく大きくなった時は、君たちいつか知っているか、それは、少林寺拳法と血みどろの闘いをやった二年間だ。 その時に先頭に立ったのは、添野義二じゃないか。 師を裏切った男だがその点添野に俺は感謝するよ。 君たち、一人も命張っていなかったんじゃないかと。 添野が、「館長、私に任せてください」と言って、少林寺拳法の鈴木事務局長をタクシーから引きずり下ろして殴ろうとしたのを、私は止めさせた。 彼が来る時には、いつでも二十名の長を連れてきたんだよ。 極真をつぶすために。

添野義二.jpg
添野義二

 他流試合の時には大山はおらず、事後報告しか受けていない様なので、添野については主にこの時の話と混合している物と思われる。
 この騒動の最中、大山倍達は四国で支部長を務めていた芦原英幸に直接首を取る様に指示している。 これを受けて芦原は香川県の少林寺総本山まで行ったらしい。 その際に誰かと立ち会ったとも、立ち会いは適わずに会談しただけとも言われているが、芦原は添野に電話してこう語ったと言う。

添野  大変だったよね。 こっちは別の団体なんて知らないから、芦原(英幸)先生を少林寺に闘いに出したりとかね。 そしたら電話がかかってきたもの。 「いや、少林寺は大変だよ。 逆に少林寺を学んだ方がいいよ」って言ってたんだから。

ーーえ! そうなんですか。

添野  組織力とか、思想とかね。 オレもその頃は極真が100%正しいって思ってたけど、極真を離れたら、それだけじゃないってわかったから。 肉体的強さとは違う、精神的、組織的強さは少林寺の方が強いんだよね。 びっくりしたよ。

 後に芦原が自身の技術体系をまとめ、自流を立ち上げる際には少林寺拳法の稽古体系等を多いに参考にしたと言われている。

 12月1日、金曜日。 2部の稽古終了後、19時頃からハワード・コリンズの百人組手が開始される。 大山は極真会館会長毛利松平の選挙応援で四国に行った為、名代として真樹日佐夫が主審を務め、45名が参加した。 襲撃の際にも大したダメージを負わなかったコリンズは、後半何度かダウンするも22時頃に史上6人目の百人組手達成者となった。 そして翌年の全日本で優勝する事となる廬山初雄もこの日、復帰した。

コリンズ百人組手.jpg

 12月4日。 平日にも係わらず朝の1部の稽古から30名が参加する等、先日の少林寺拳法との抗争など無かったかの様な日常に戻る。 翌日には館長の大山が帰京。 三浦美幸や岸信行といった指導員が羽田まで迎えに行く。 この日の3部の稽古は51名が参加。
 12月10日、先の第4回全日本大会の1〜3位である三浦、コリンズ、秋田支部の佐藤俊和らがハワイ旅行へと出発する。 コリンズはこのままイギリスに帰った。

 しかし年末頃になると、極真会館に妙な噂が流れて来る。 この噂を否定すべく福沢拳山が怒りを込めて「現代カラテマガジン」「他流試合始末記」と称して書いた。 先の他流試合騒動の顛末を書いた上でこう続ける。

他流試合始末記.jpg

…歳の暮の事、単なる”うわさ”ではあるが、例の拳法の連中が全く逆の宣伝を流している事が耳に入ってきた。 ”うわさ”を要約すると、連中の総本部の長が極真会館に乗り込み、大山館長に果たし合いを申し込んだところ、大山は土下座して命乞いしたのだという。 根も葉もない”うわさ”の事で真偽はさだかでないが、弟子としては黙っていられない。 数人の者が血相を変えて報告 人一倍に正義感の強いS支部長等は一人で敵の総本部に討ち入る気配!!

 結果的には和解が済んでいる事から大山が制したが、大山はその後も何度かこの手の話を聞かされ、少林寺拳法の批判を再開する事になる。 例えばこの騒動から僅か2年後の1974年に出版された「続・ケンカ空手 わが青春の修練秘録」にはこう書かれていた。

続ケンカ空手わが青春の修練秘録初版.jpg

 薬屋かなにかをやっていた人が、少林寺拳法とか称して、口先ばかりの闘技を唱え、何者とも戦うことなしに、大きな組織を作り上げた例がある。 そしてその人は、自分をPRする手段として、「少林寺拳法」という本を出版したが、その中にこんなことを書いた。
 「牛の角を折って喜んでいる空手家がいる。 しかし牛は農耕や食用に使うためにあるのであって、角を折るためにあるのではない」
 見事なものである。 口先だけで武術の流儀をでっちあげるくらいだから、理屈ではなるほどと思わせるものがある。 しかしこれは戦うことを知らぬ弱い武道家の”引かれ者の小うた”である。 力を試す方法の一つとして、実力を比較する手段の一つとしてあることを無視して、屁理屈で他の流派を誹謗する。 私はこの中傷に対して腹を立て、挑戦状を送った。 ところが返事はこうだった。
 「私たちは他流試合をしない規則です」
 武道でよその流派とは試合はやらない規則です、などといういい加減な流派があるのを、私ははじめて知った。
(中略)
…この人は活字の上で大見得を切ったが、勝てぬと知っているから、私の挑戦から逃げまくっている。 逃げながら道場を経営して儲けているのだから、相当な人物だと言うべきだろう。

 1979年の「週刊大衆」に極真会館と少林寺拳法の双方にインタビューした記事が残っているので、ここに引用しよう。

 少林寺拳法のある流派は、「牛は農耕用か食肉用に飼育されるのであって、角を折るために飼育されているわけじゃない。 牛の角を折ってよろこんでいる空手家がいるが、あれは邪道もいいところだ」と、大山批判の矢を放った。
 東京都少林寺拳法に、そのことをただすと、
 「ええ。 あれは空手が単に人をやっつけるだけでいいのか、強ければそれでいいのかということを指摘したまでのことです。 少林寺拳法は拳法を”行”としてとらえておりますから、大山さんのところとは宇宙が違いすぎているのでお話しても平行線をたどるだけでございましょう」
 という返事が返ってきた。
 空手を武道として受けとめている大山は、こういう批判に烈火のごとく怒る。
 「なにをいっているか。 牛を倒したのはこの地上でわたしくらいのものだ。 あれこれいうなら自分でためしてみたらいい。 牛の角とまではいわぬが、山羊の角ぐらい折ってみろというんだ。 武道というのはもともとお上品なものじゃない。 本当の武道は勝つか負けるか、二つに一つだ。 彼らはぬくぬくとしていて、他流試合をしないことを理屈でごまかしているが、要は逃げまわってるのと同じじゃないか。 同じ白いといっても砂糖と塩はナメてみなくちゃわからん」

 その後極真は梶原一騎という不世出の劇画作家のプロデュースで急激に成長するが、後に協力態勢は瓦解。 80年代以降は地方支部の充実化と大会を中心とした堅実路線へと舵を切る。

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毎日新聞(1973年9/26)

 少林寺拳法は極真との抗争では痛み分けとなったものの、「行動する少林寺拳法」を標榜したまま歩み、その後も複数の流派と揉めた。 特に1973年の武道学会では殴り合いを繰り広げて新聞沙汰になっている。 1977年12月、横須賀で米国籍の15歳の少年と少林寺拳法関係者6名が揉め傷害致死事件が発生、集団リンチ殺傷事件として世間を騒がすに至り、これまでの組織の方針を大きく見直す事となる。

 そして両組織が交わる事は二度と無かった。


 という事で極真と少林寺拳法の抗争の記事を終えます。 まぁ、調査した結果がこんなオチだったんですけど、如何でしたでしょうか? 納得頂けましたかねぇ?
 資料を基に構成しましたが、私個人が推測した部分はその様に書いていますので、全部が全部事実だとは思わない様にして下さい。 また、極真側の資料の方が多いので、公正では無い記述もあるかと思いますが、その辺りも考慮して頂けると幸いですね。

 まぁ、抗争で極真側が負ったダメージは一部の生徒とガラスと落書きと玄関くらいだったんですけど、現在ではむしろ風評被害の方が大きいかも知れませんねw
 この件で門下生が減ったとか、逃げたとかって話は特にありません。 この事は「極真会館日誌」に掲載されている稽古に参加した人数からも明らかです。 ひょっとしたら本部に通っていても、この件について殆ど知らない人すらいるかも知れません。
 現在の観点からすれば少林寺拳法側の話にドン引きされる方もいると思います。 戦国時代とか戦争なら少林寺拳法側が勝つでしょうけど、実際に極真の本部に火を着けたりしてたら社会的に抹殺されるでしょうね。
 この頃の時代の少林寺拳法については、当の組織自身が苦々しく思っているのか、対立関係にあった不動禅少林寺拳法がやった事だという噂を流していた事もある様で、後に添野義二先生もこの様な説明を受けたみたいです。

…少林寺拳法にはこの間も行ってきたんだけど二代目のいまの館長とその話をしたの。 少林寺の50年史にも書いてあるんだけど、完全に別の団体なんだよね。

 …ちなみに「少林寺拳法五十年史」にはその様な記述はありませんw というか、反少林寺拳法派が極真を巻き込んだ、という風にも受け取れる内容で、抗議をしたという話位しか載っていませんでした。 添野先生も分かった上で大人の態度を見せているんじゃないかな。 ついでに言えば最近「月刊フルコンタクトKARATE」に掲載された記事の中でも白蓮会館の杉原正康館長が、「あれは金剛禅ですよ」とこの事を明確に否定しています。 この記事では杉原先生による大山倍達総裁と宗道臣先生の言い合いについての解説もありますので、読んで見て下さい。

 さて、来週は氷室京介のライブに行ってきますw その前に記事を1本書きたいですねぇ。 これで7月のCOMPLEXのライブチケットも当たれば最高なんだけどなぁ。
 それでは、また。
 

参考文献:
スポーツニッポン スポーツニッポン新聞社 1972年
毎日新聞 毎日新聞社 1973年
現代カラテマガジン 1973年1月号 現代カラテマガジン社 1972年
現代カラテマガジン 1973年2月号 現代カラテマガジン社 1972年
現代カラテマガジン 1973年3月号 現代カラテマガジン社 1972年
週刊大衆 1979年5/3号 双葉社 1979年
現代カラテマガジン 1979年9月号 現代カラテマガジン社 1979年
月刊フルコンタクトKARATE 2011年7月号 福晶堂 2011年
73 極真会館年鑑 財団法人極真奨学会 極真会館 1972年
続・ケンカ空手 わが青春の修練秘録 大山倍達著 スポーツニッポン新聞社 1974年
極真カラテ27人の侍 真樹日佐夫著 サンケイ出版 1986年
武道論 大山倍達、平岡正明共著 徳間書店 1992年
実録・少林寺修行記 第一部・祖国愛に燃えて 中西準一著 竹内書店新社 1993年
最強最後の大山倍達読本 日本スポーツ出版社 1997年
少林寺拳法五十年史 第一部 正史 『少林寺拳法五十年史』刊行委員会編 財団法人 少林寺拳法連盟 1997年
極真外伝 〜極真空手もう一つの闘い〜 ぴいぷる社 1999年






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極真空手と少林寺拳法の抗争3(1972年)


JUGEMテーマ:空手
 という事で、先週はちょっと大道塾の東孝塾長の出身地とか出身校に行ってまして。 まぁ、大した事なんて出来なかったのであんまり書きませんけどね。 後、政府の無能っ振りが良く分かりました。 上がダメなので現地では色々機能不全に陥っています。 お世話になった現地の方の自宅で、幼稚園児のお子さんがテレビを見ながら「かんはばかー」と言っていたので、親御さんの口癖になっているのかも知れませんw 個人的に感じたのは、今現地に必要なのは「職」と「見通し」でしょうか。
 そういう事で1週間ほど更新も何もせずにいました。
 まぁ政治ブログじゃないので、本編に参りましょうか。 尚、この記事の大半は極真側の資料で成り立っています。 悪しからず。

過去記事はこちら
極真空手と少林寺拳法の抗争1(1972年)
極真空手と少林寺拳法の抗争2(1972年)
極真空手と少林寺拳法の抗争3(1972年)
極真空手と少林寺拳法の抗争4(1972年)


 1972年11月5日、日曜日の事だった。 1人の青年が池袋にある極真会館の総本部を訪れ、館長の大山倍達へと面会を希望した。 そして館長室に通された青年は、金剛禅少林寺拳法の修業者を名乗り、極真に他流試合を申し込んだ。 当時の模様は同月27日発行の「スポーツニッポン」紙に書かれているので、ここに引用する。
 
スポニチ19721127.jpg
スポーツニッポン(1972年11/27)

 極真会館の機関誌”空手マガジン”に△△△拳法はニセモノ”と題する特別寄稿が掲載されていたことから「二日後、あなたの道場で勝負を決めようではないか」というつまり他流試合の挑戦の申し入れであった。

 大山門下の1人、福沢拳山によれば少林寺拳法側は16時に3名で来館すると伝えたと言う。 大山はこれを了承。 しかし当日の大山は不在。 これについては所用あったのか、それとも徹底的にやる上で責任者の大山が場に居たらまずいという判断だったのかは分からない。 しかし、大山は他流試合に備えた門下生にきちんと「歓迎」する様に伝えたと思われる。

 翌6日、少林寺拳法の鈴木義孝事務局長が四国から上京、「現代カラテマガジン」の編集部を訪ねる。 鈴木は上京する前に谷口統健と面談をして来たのだ。
 鈴木は、例の批判記事は「現代カラテマガジン」が勝手に転載したと谷口が言い張っているのだという事で抗議を切り出した。
 呆れた編集部側は鈴木の誤解を解くべく、谷口が同記事を寄稿した経緯を説明した。 鈴木は納得した様だが、今後の対応も含めて話を詰める為、翌日また改めて会談する事となった。

 7日、鈴木は編集部側と改めて話し合い、谷口の「少林寺はニセモノだ!!」の連載中止を決定するという事で合意を得た。 円満に和解したのだ。 しかし、鈴木はこの時まだ同時に進行していた他流試合について知らなかったのだと思われる。

 大役を済ませた鈴木が東京の少林寺拳法関係者と連絡を取り、話が付いたはずの極真会館側と本日他流試合が行われると知ったー。 この件に関してはあくまでも私の推測である。 が、話の整合性は充分取れるのでは無いだろうか。 鈴木は折角諫めた話を蒸し返したくなかったのだろう。 関係者を説き伏せ、恐らくはこの件について弁明すべく数人を連れタクシーに乗り、他流試合の行われる極真会館総本部へと出発した。 他流試合を前にして殺伐とした雰囲気に包まれた極真会館へと。

 この件は関東の少林寺拳法ではこの様な話になっていた様だ。 以下を中西準一の回想から引用する。

少林寺修行記.jpg

 秋の武道祭の前、ミーティングの席上、
 「今、○○会ともめているから全員気をつけるように」との指示です。
 「おれたちの大学も狙ってくるかもしれないからみな単独で行動しないように」
 戦闘空手を標榜する○○会のことです。
 「怖いよなぁ、あそこは強いんだろ」
 ふともらした同輩の言葉に、わたしはムカッときました。
 「ケンカなら任せとけよ」と後ろにおられた高橋久男先輩も憤り立っています。
 「そうです! やっつけちゃえばいいんです!!」
 これは素手で負けたら火炎ビンの思考です。 というのも、さんざん左翼の闘争を見せられていた当時のわたしは、アパートには木刀を数本用意し、イザという時に備えていたわけです。

 しかしこの時は情報だけが氾濫し、抗争に備えただけで一部の人間だけが行動した様である。

 一方、そんな事情等知らぬ極真会館側は、先の全日本を制した本部指導員の三浦美幸を筆頭に第3回全日本王者佐藤勝昭、台湾から帰ってきた本部指導員岸信行、本年度全日本第2位ハワード・コリンズ、第3回全日本3位の大石代吾、そして第1回全日本2位、第2回全日本3位で添野道場(東京都下・埼玉支部)を預かる添野義二の6名が準備をしていた様だ。 他にも恐らくは立会人として古参の福沢拳山と、梶原一騎の実弟真樹日佐夫がこの場に居たらしい。 当時の本部最強の布陣である。
 火曜日の16時は当時3部あった稽古時間の内、2部の稽古が始まる時間だ。 間も無く冬期審査会、という時期ではあったが2部の稽古に参加しようと訪れた門下生を帰しながら待っていたのだろう。 
 本部付近の通りにタクシーが止まった。 その場でタクシーを待たせた少林寺拳法の事務局長、鈴木と他数名は1階の受付に顔を出した。 それは「現代カラテマガジン」との和解の事を知らなかった極真側にはこの様に見えた。

 ところが当の三人は二日前の勢いはどこへやら、低姿勢で受付をのぞいていて「もう話はついたから………」というばかり。 「何が話がついたんだ。 こっちは試合の用意ができている。 すぐに道場に上がれ」
 三浦二段の言葉に三人はあわてて、エンジンをかけたまま表通りに待たせておいたタクシーに乗り込んで、排気ガスを最後っ屁(ぺ)に雲をカスミと逃げていったのである。 (スポーツニッポン 11/27 1972年)

 翌年「現代カラテマガジン」で福沢拳山も相手が逃げ出したと書いた。 また、真樹日佐夫は後に「現代カラテマガジン」の連載「黒帯交友録」の添野義二の回で当時をこう振り返る。

現代カラテマガジン197905.jpg

 「奴等がきましたッ」
 大石君がとび込んできて言った。
 「よし、それじゃ出迎えなくては、礼儀にはずれるな」
 添野君はニヤッとして呟いた。
 私、添野、大石の三人で本部の玄関を出ると、表の公園の前の道でタクシー二台から某流派の数名が降り立ったところだった。
 彼等はこちらの顔ぶれを見ると、一瞬、うろたえたような表情を浮かべた。
 「おい、奴らは逃げ腰だぞ。 首っ玉をつかまえて引張ってこいッ」
 添野君が云い、
 「オスッ」
 大石君は、その方へすっとんで行った。
 と、某流派一行は忽ち恐怖をあらわにして、降りたばかりのタクシーへ我勝ちに、またとび乗った。
 そして、駆け寄って引きずり出そうとする大石君の手を振り切ってドアを閉め、フルスピードで逃げ去ったのだった。

 添野もその約20年後にインタビューに答えてこう証言する。

 それで他流試合をするっていう話になったみたいで、道場に来るからって、俺と大石代吾と三浦とか10人ぐらい呼ばれて道衣着て待ってたんだよ。 だけど、俺が道場に上げる前にけんか腰だった向こうが逃げてね、それでその事務局長をね。
ーー殴ったんですか?
添野  殴ったっていうか、こづいた程度(笑)。

 昔の話という事で記憶の齟齬が生じているが、話をまとめるとこういう事ではなかろうか。
 全くの別件で進行してた他流試合を知らずに和解が成立したと思っていた鈴木が、直前にその事を知り止めるべく本部にタクシーで訪れる。 そして和解の事を知らない極真側は話を解せず、道場に引きずり出そうとする。 和解したと思って闘う心の準備の出来ていなかった少林寺拳法側は、話が通じず殺伐とした雰囲気に呑まれ一旦出直すか、「現代カラテマガジン」に仲介を頼もうと決める。 それを逃亡と判断した極真側はタクシーまで追い引きずり出そうとするが、そのままタクシーが出てしまう。 恐らくは添野が殴ったという事実も無かったと思われる。

 翌8日、他流試合から1日が経過し、寒さが厳しくなって来たのを感じた大山倍達が三浦美幸に命じてストーブを出した頃、鈴木義孝は発端となった記事を書いた谷口統健を呼び出し、誓約書を書かせる。 これを以て全ての件を収めようとしたのだろう。 以下が誓約書の全文である。

谷口統健誓約書.jpg

誓  約  書

 私こと谷口光昭は、和歌山時事新聞に昭和四十五年一月六日から二十一回にわたり、「少林寺はニセモノだ」という記事を連載しました。 この記事は、私の一方的な取材と偏見から少林寺に対するねつ造と誹謗に満ちており、少林寺に対し多大のご迷惑をおかけしましたので深く反省の上、昭和四十六年十一月十三日付で金剛禅総本山少林寺にあてて自筆捺印のおわび状を提出し、今後再びこのようなことを行わないことを誓いました。 それにもかかわらず制約に違反して、この度、現代カラテマガジン一九七二年年十一月号を及び十二月号誌上に前記「少林寺はニセモノだ」の記事を秘拳日本妙道会主宰谷口統健の筆名で私の近影と経歴書を添えて投稿し、再び大変なご迷惑をおかけしました。 このことは少くとも武道家を名乗るものとして、また一人の人間として全く信義を無視した背徳行為であったと痛切に反省しざんきにたえません。 総本山少林寺に対し、伏しておわび申しあげますとともに次の各条項を私の一身を以って誠実に履行することを固くお誓い申し上げます。
一、秘拳日本妙道会を即時解散して今後一切武道の世界との縁を絶つこと
一、少林寺に関する一切の文筆活動を停止すること
一、少林寺のみなさまに対しておかけした精神的及び物質的ご迷惑に対する罪のつぐないをすること
 万一、右の誓約に反することがありました時はいかなる制裁、処置をうけましても一切不服は申しません。
    昭和四十七年十一月八日
     谷口 光昭
 金剛禅総本山少林寺殿

  鈴木はこの誓約書と詫びる谷口の写真を添えて「現代カラテマガジン」に送る。 これを受けて編集部側は1月号で「少林寺ニセモノ論 顛末記」という記事を書く。 記事は他流試合を除く記事掲載に関する経緯を説明した上でこう締めた。

少林寺ニセモノ論顛末記.jpg
谷口が詫びる写真も共に掲載された。

 本誌はここに、今回の事件を通じ少林寺側が一貫して示された友好的かつ寛大な態度に感謝すると共に、谷口統健なる節操のかけらもない人物に振り回され、少林寺に対してひとかたならぬ迷惑を及ぼしたことに深甚なる陳謝の意を表明するものである。

 ここで一旦話は収束した様に思えた。 実際肩透かしとなった他流試合の余熱は多少はあっただろうが、10日にはハワイから支部長のボビー・ローが来日する為、三浦美幸が羽田に迎えに行ったりと通常通りの業務に戻っていた。
 19日の日曜日には冬期審査会があった。 劇画「空手バカ一代」を読んで入門を決めた門下生の多くが色帯となり、23日には夕方の2部の稽古で56名が参加、夜の3部には31名が参加と確実に門下生が増えている。 また、大山の著作「ケンカ空手 世界に勝つ」がスポーツニッポン新聞社から発売され、それに合わせて本紙では25日から「大山倍達 ケンカ空手」という短期連載記事が掲載される。

ケンカ空手世界に勝つ-広告.jpg

 大山は極真会館会長毛利松平の衆議院選挙応援の為欠席する予定だが、12月1日はイギリスに帰国するハワード・コリンズの百人組手、10日には大会上位3名がハワイ旅行の予定と順風満帆であった。
 

 ちょっと長くなりそうだったので、2部に切り分けますw
 多分この手の記事では初掲載となる「スポーツニッポン」の記事により話が繋がったのでは無いでしょうか。 多分少林寺拳法側は「現代カラテマガジン」と極真会館側が一体だと勘違いしてたんですね。 それで他流試合の話を無かった事にしようとして、やって来たのでこの様な結果になったのでは無いかと、推測しています。
 実際、これが一番筋が通る様な気がします。 互いの前提条件が違っていた為、話が通じなかったんでしょう。 まぁ、一番疑問なのは真樹日佐夫先生ですがw 編集部の方に顔を出していなかったのか、もしくは実は他流試合の日に本部に居なかったのかどっちかじゃないかなーと思います。
 で、添野義二先生についてですが、多分どうしたのかあまり記憶に無かったんじゃないかなぁ。 こづいたぐらいはやった気がするって曖昧な記憶だった様に思います。 次回書きますが、大山倍達総裁は殴ろうとするのを止めたって話をしてるんですよね。 多分次の騒動の際に殴ろうとした記憶と相まってるんじゃないかと。
 最終回はこのまま連続で更新します。

参考文献:
スポーツニッポン スポーツニッポン新聞社 1972年
現代カラテマガジン 1973年1月号 現代カラテマガジン社 1972年
現代カラテマガジン 1973年2月号 現代カラテマガジン社 1972年
現代カラテマガジン 1973年3月号 現代カラテマガジン社 1972年
現代カラテマガジン 1979年5月号 現代カラテマガジン社 1979年
73 極真会館年鑑 財団法人極真奨学会 極真会館 1972年
実録・少林寺修行記 第一部・祖国愛に燃えて 中西準一著 竹内書店新社 1993年
最強最後の大山倍達読本 日本スポーツ出版社 1997年
少林寺拳法五十年史 第一部 正史 『少林寺拳法五十年史』刊行委員会編 財団法人 少林寺拳法連盟 1997年
極真外伝 〜極真空手もう一つの闘い〜 ぴいぷる社 1999年

 






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