calendar

S M T W T F S
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728   
<< February 2018 >>

categories

無料
無料
無料






archives

大山倍達マニアック検定

【伝説?】真樹日佐夫VS"キラー"バディ・オースチン(1969年) (※追記アリ)

JUGEMテーマ:空手
 

真樹日佐夫2.jpg

 悪名を天下に馳せたのでは週刊誌に"梶原兄弟、プロレスラーと大乱闘"とデカデカ書き立てられたやつ。 夜ふけの青山通りのスナックで弟(真樹日佐夫)と飲んでいて、さる有名な外人レスラーと派手にやった。 相手が悪酔いしており巻きこまれたウンヌンは言い訳にならぬ、逃げてしまえばすむのだから。 私が背後から相手のシャツの袖を半ばズリ下げて巨腕の動きを封じておき、弟が正面から極真空手の黒帯の蹴りをガンガン叩きこんで凱歌をあげたまではいいが、同じ店内で週刊誌の記者が一部始終を観戦していた。






東京・池袋の武道具専門店 ブドウショップ



フレッツ光で最大106,000円キャッシュバック実施中!

海を渡った柔術士、東勝熊 後編(1905年)

JUGEMテーマ:格闘技全般
 


 前回から随分間が空きましたね。 ちょっと色々関連した調べ物があって続きが書けませんでした。
 本記事は「海を渡った柔術士、東勝熊 前編(1904年)」 の後編です。 未読の方は前編の方からお読み下さい。


higashi_10.jpg
東の巴投げ

 それではどうぞ。






東京・池袋の武道具専門店 ブドウショップ



フレッツ光で最大106,000円キャッシュバック実施中!

南部藩お留流諸賞流 (1963年)

JUGEMテーマ:格闘技全般


 ちょっと昨日はお仕事で更新しませんでしたが、今回は海外の諸賞流の方からリクエストがありまして、森川哲郎先生の「武道日本(中)」より、諸賞流の記事を紹介します。 元々は「剣豪列伝集」に掲載されていたものですが、こちらは所有してません。
 
諸賞流5.jpg

 さておき、諸賞流と言えば大山倍達総裁が「100万人の空手」の中で触れていたので、極真門下なら知っている人もいるかと思います。 実は大山総裁が元ネタにしたのがこの記事です。
 この記事は対談形式ですが、諸賞流以外に、鎧蒐集家の方も参加しており、結構興味深い話をされているのですが、諸賞流とは関係無い話ですので、割愛させて頂きます。
 という事で本編へどうぞ。






東京・池袋の武道具専門店 ブドウショップ



フレッツ光で最大106,000円キャッシュバック実施中!

海を渡った柔術士、東勝熊 前編(1904年)

JUGEMテーマ:格闘技全般
 

 永らくお待たせしました。 1904年頃に日本を発ち、アメリカ、フランス、ドイツを渡り歩いた柔術家、東勝熊について書こうと思います。

higashi5.jpg
東勝熊

 東は多少の柔術の伝播に貢献していますが、あまり知られていません。 その理由として、プロレスの世界チャンピオンと試合をして負けた事、そしてアメリカ人作家と出版した共著の書名が挙げられると思います。 では、実際の東勝熊はどうだったのか? これを皆さんと一緒に探っていきましょう。






東京・池袋の武道具専門店 ブドウショップ



フレッツ光で最大106,000円キャッシュバック実施中!

前田光世と闘った男、ブッチャー・ボーイについて調べてみた

JUGEMテーマ:格闘技全般
 
 今回は「武道家列伝」の番外編ですね。 …と言っても、まだ1回しか書いていないのにいきなり番外編ですw 何となくですが、作家の栗本薫先生や、火浦功先生を思い出しました。
 えーやるやる詐欺状態になっている「東勝熊編」ですが、資料は大体揃いました。 後はテンションですって感じになっています。 文章を書くというのは結構パワーがいるし、〆切りに追われる作家さんでも無いのでやる気が起きないと中々進められませんw まぁ、そんなに興味のある方もいないトピックでしょうから、のんびり出来るんですけどねぇ。

 という事で…本編に参りましょうか。
 この話、Twitterでぼそっと呟いたら期待された方がおりまして、それでじゃあ書くかーと思った次第ですw ですので大した理由はございません。
 前田光世という人物について、当ブログに来られるような方ならご存じかと思いますが、講道館初期の強豪として知られ、講道館よりアメリカに派遣され柔道を広めるべく他流試合を繰り広げ、欧州、南米で実績を残し、ブラジルで客死するまでに当地で柔道(後のグレイシー柔術)を指導していた方ですね。 道着を着ての他流試合では無敗だったと言われる事もあります。

前田光世.jpg
前田光世

 そんな前田光世が渡米して初めてプロレスラーと対戦した時の相手が「ブッチャー・ボーイ」なる人物です。
 私がその正体を知ったのは、つい最近で、プロレスの初代世界ヘビー級王者、フランク・ゴッチの技術書を入手した時ですが、先日何気にネットでそのレスラーの名前を検索してみた所、1件もヒットせず。 Wikipediaでもおかしな記述でした。 海外で検索すると、2003年に書かれた本の中で前田と闘ったというレスラーの名前が出て来ますが、それくらいですかねぇ。

frankgotchwrestling.jpg
フランク・ゴッチの技術書

 とりあえず現在は「ブッチャー・ボーイ」に関してこの様に語られているようです。 以下、手持ち資料による記述。

・東部で名の知れたヘビー級プロレスラー、ブッチャー・ボーイとニューヨークで闘った。(「力道山以前の力道山たち」)
・世界一の怪力と言われたヘビー級のレスラー、ブッチャー・ボーイと闘った。(「日本格闘技おもしろ史話」
・身長182cm、体重113kgの近隣では相当名の通ったプロレスラー、ブッチャー・ボーイと闘った。(「前田光世 世界柔道武者修業」
・アトランタで世界一の力持ちと呼ばれたブッチャー・ボーイと闘った。(Wikipedia)

 尚、「明治バンカラ快人伝」「ライオンの夢―コンデ・コマ=前田光世伝」「前田光世の生涯」、それから「世界横行 柔道武者修業」辺りは読んでませんが、余所のサイトでも大体上記の説明のいずれかです。
 で、あんまり引っ張っても中身が無いのでw 正体から明かしますと、ジョン・パイニング(John Piening)というレスラーがブッチャー・ボーイです。

johnpiening.jpg
ブッチャー・ボーイ

 どういう理由で「ブッチャー・ボーイ」というニックネームが付いたのかは知りませんが、殆どの新聞で John Piening "The Butcher Boy"  と表記されています。
 "New York Times""The World"(ニューヨークの地方紙)を読む限りでは、活躍したのは1900年頃から1907年位までの様で、以降はぱったりと記事に出なくなります。
 ではサイズは?と言いますと体重が170〜180ポンド。 つまり77〜81kg位のライト級のレスラーでした。 113kgは明らかな間違いです。 1900年の"New York Times"(11/21/1900)にあるフランスのポール・ポンズというレスラーとの試合では180ポンドでリングに上がると書いてあるのでヘビー級では無かったのは確かです。 1905年の"The Syracuse Herald"(01/17/1905)でも175ポンドとなっていますから、前田光世と闘った時でもそう体重は変わらないでしょう。

pieningprofie.jpg
ジョン・パイニングの体重の記述

 身長の方は新聞記事では見当たりませんでしたが、"Martial arts in the modern world"という本では6フィート、つまり約182cmとなっています。 どうやら身長は言い伝え通りでも、体重が間違っていた様ですねぇ。
 新聞記事の量から察するに、東部では実力とそこそこ人気はあった様ですが、残念ながら当時既に斜陽であったグレコ・ローマンスタイルのレスラーでした。 1800年代後期にアメリカレスリング界で圧倒的な人気のあったグレコの王者ウィリアム・マルドゥーンですら1890年代に差し掛かる頃にはグレコ・ローマンの試合を行う事が困難になっていた状況ですので、1900年頃ともなれば更に困難だったでしょう。 それでも恐らくはローカルタイトルでしょうが、1902年にパイニングはグレコローマンのタイトル戦で勝利を修めています。("The World"11/02/1902)

johnpieningtitlematch.jpg
左がジョン・パイニング

 同年11月には世界ライト級王者のジョージ・ボスナーとキャッチ・アズ・キャッチ・キャンのルールで対戦、敗北。("The World"011/22/1902)

pieningvsbothner.jpg
ジョージ・ボスナーとの試合記事

 翌年1月はアメリカヘビー級王者だった事もあるトム・ジェンキンスとマジソン・スクエア・ガーデンで試合をしていますが、この試合は3本勝負の複合マッチで、最初にコイントスでルールを選択し、1本取ったら別のレスリングのルールに変わるという物でした。("New York Times" 02/01/1903)

tomjenkinsvsjohnpiening.jpg
トム・ジェンキンスとの試合

  空手で言えば、フルコンで試合して1本取ったら(もしくはタイムアウト)次はグローブマッチをするような物です。 試合の方は真夜中になったので警察が介入して中止、ドローでした。 ちなみにボスナーはジェンキンスに勝ってます。
 さて、一番大事な試合記録ですが、これはちょっと見当たりませんでした。 一応ニューヨークの地方紙である"New York Times""The World"の2つを当たってみましたが、分からなかったです。 ただ前述した"Martial arts in the modern world"にこの様な記述がありましたので、転載しましょう。

 One of his early matches was with John Piening, "The Butcher Boy."  This match was held in the Catskills of New York in july 1906.  Like most of Maeda's non-Japanese opponents, Piening, standing about 6 feet and weighting 170, dwarfed the 5-foot 6-inch, 155-pound Maeda.  Nonetheless, Maeda won.

 最後に前田光世の記録をいくつか紹介しましょうか。 最初の物は前田が負けたという記事です。 ニューヨーク・アスレチック・クラブでの出来事ですね。

maeda1.jpg

  名前がMoyedaになっていますが、前田光世の事ですw "New York Times"(03/09/1905)に載った記事ですが、同クラブに所属する200ポンド=約90kgのレスラーとジャケットマッチをやって、前田がテイクダウンを奪った後に下から返されてフォールされたという内容で、説明によればキャッチ・アズ・キャッチ・キャンのレスラーがカラー・アンド・エルボーのスタイルで闘う様な物だと説明されているのが興味深いですね。 東洋の未知の武術でありながら、割と短期間でアメリカに広まったのは、下地があったからなのかも知れません。
 ちなみに同クラブのH.F.レオナルドというレスリングインストラクター(ジョージ・ボスナーの師)が、この試合の後に柔術家の東勝熊と対談している記事があるのですが、この中で東がいくつかの柔術の技を見せ、それに対してレオナルドが「これはレスリングの○○だね」と解釈していました。 まぁ、そこらのレスリングクラブとは違い、キャッチの世界王者、ボスナーを生んだジムだったからこそ、前田をフォール出来たのかも知れません。 ただ、前田が押さえ込みじゃないフォールをどの程度理解していたかは疑問です。

 もう1つ前田の記事を載せましょうか。 1905年末から1906年初頭まで滞在していたアトランタ・アスレチック・クラブでの記事です。 いくつか記事が残っていますが、いずれもレスラーと対戦して勝利したとありますね。 内1つだけ写真入りのがありましたので、この記事で終わりとします。 "E.MAEDA"とあるので、「前田光世」じゃなくて、「前田栄世」の方を名乗っていたんでしょうか…読み方、「ひでよ」じゃなかったんだろうか?

maeda2.jpg
"The Atlanta Constitution"(12/10/1905)

 という事で前田光世ネタをやってみました。 
 こうやって調べてみると、ブッチャー・ボーイは東部では有名ですが、キャッチ・アズ・キャッチ・キャン全盛時代にグレコ・ローマンのエキスパートだったというマイナス面が、彼のレスリングキャリアに響いている様に思います。 その為、新聞に残った記録を見るとグレコ全盛だったヨーロッパの選手との試合以外は大体複合マッチで、キャッチもやらされていました。 前田光世に挑戦したというのも、活躍の場が狭まって行く状況が理由にあったんじゃないかと、そんな風に感じました。
 後そうそう、ヘビー級じゃ無かったのは意外でしたw
 それでは、また。


参考文献:
The Atlanta Constitution,1905-1906
New York Times,1900-1905
The Syracuse Herald, 1905
The World, 1900-1905
H.F. Leonard, K. Higashi, American Wrestling vs. Jujitsu, (媒体不詳), 1905
Frank Gotch, WRESTLING, Paladin Press, 2008 (Originally 1908)
力道山以前の力道山たち 小島貞二著 三一書房 1983年
日本格闘技おもしろ史話 加来耕三著 毎日新聞社 1993年
前田光世 世界柔道武者修業 丸島隆雄著 島津書房 1997年
リングサイド プロレスから見えるアメリカ文化の真実 スコット・M・ビークマン著 鳥見真生訳 早川書房 2008年

参考リンク:
Martial arts in the modern world (2011/06/18)
Wikipedia (2011/06/18)






東京・池袋の武道具専門店 ブドウショップ



フレッツ光で最大106,000円キャッシュバック実施中!

日本人初の世界王者 マティ松田

 JUGEMテーマ:格闘技全般

 このシリーズは空手には直接関係ありませんが、故小島貞二さんの「力道山以前の力道山たち」という本に影響を受けて、大山倍達のアメリカ遠征のついでに調査、発掘した資料を基にした不定期シリーズです。 資料の数に差があるので平等には扱えませんが、かつてこんな日本人がいたんだ、と思って貰えればいいかなと。
 それでは第1回は日本人初のプロレス世界王者となったマティ松田を紹介します。

 マティ・マツダ19180508.jpg

 マティ松田、日本人初のプロレス世界ウェルター級王者となった男だが、その経歴は驚くほど知られていない。 本名は松田万次郎、1887年熊本に生まれ少年時代から相撲と柔道、そして喧嘩が強かったという。
 1904年、松田は突然姿を消した。 そして1914年頃、松田は家族に手紙を寄越し、ようやくアメリカでレスラーとして飯が食えるようになったと報告している。 いつ渡米したのか、はっきりした事は解らないがジュリウス・ジョンソンというレスラーが1909年頃、松田にキャッチを教えたと新聞に語っている事から、1909年〜1910年にはデビューしていたと思われる("Waterloo Evening Courier"9/23/1912)。
 調査した限りでは最初に新聞に載ったのは1911年1月だ。 アイオワ州ウォータールーの地方紙"Waterloo Evening Courier"(1/26/1911)によれば松田はミネアポリスをホームとしていた様で、”Matsuda”というリングネームでウェルター級のローカルチャンピオン、ウォルター・ミラーという選手と対戦し、反則行為による減点が響き判定負けとなったものの「反則の瞬間、ジャップはフェアでは無かったが、評価を与えてしかるべきだ」と賞賛されている。 そして、6月には世界ウェルター級王者、テッド・トーンマンと対戦し破れている("Eau Claire Leader"6/1/1911)。 これが功を奏したのか、早くもトップレスラーの仲間入りをした様で、新聞にも写真が載るようになった。

マティ・マツダ19110614.jpg

 1912年、松田は「無敵の日本野郎」というニックネームを得ていた様だ("Van Wert Daily Bulletin"2/1/1912)。 また、そのタックルには定評があり、「どんなレスラーにでもタックルを決められる」とある("The Waterloo Times Tribune"7/21/1912)。 更にこの頃には柔道か柔術でも教授していたのか、”プロフェッサー”マット松田という名前で呼ばれており、6月24日にはバート・ブレアーという選手と1時間49分にも及ぶ試合を展開し、終始攻め続けたが残念ながら真夜中になった為没収試合となっている("The Waterloo Times Tribune"7/25/1912)。
 同年7月、松田は全ての来場者と対戦するデモンストレーションを行うと宣言した。 145ポンド(約65キロ)の松田が、ライトヘビー級までと対戦するというのだ。 マット松田が出した条件は以下の通り("Des Moines Daily News"7/28/1912)。
・ウェルター級:15分耐えれば25ドル進呈
・ミドル級:15分耐えれば25ドル進呈
・ライトヘビー級:25分耐えれば15ドル進呈

マティ・マツダ19120728_2.jpg

 ATショーと呼ばれるサーカスや祭り等で行われるイベントの催し物だったのか、結果は定かでは無い。 他にもハリー・ニコルスというレスラーに挑戦状を送っており、自分が勝つ事に200ドル賭けようと宣言するなど、中々挑発的である("The Waterloo Times Tribune"7/25/1912)。

 さて、一流レスラーの仲間入りを果たしたマット松田はマティ松田と名を変える。 そして1918年10月7日、オハイオ州コロンバスでウィリアム・ヨハンセンと対戦し、ウェルター級チャンピオンのベルトを奪取する。 3本勝負で行われたこの試合は、最初にフォールを奪われて先行されるもリストロックを極めて1本取り返し、最後はフォールにより勝利を収めた。 しかしこのタイトルが「何の」ウェルター級タイトルなのかは紙面にも出ていない("Evening Independent"10/8/1918)。 この手の混乱は多々新聞に見られ、翌年の記事にも松田が「日本ウェルター級チャンピオン」の肩書きなのにもかかわらず、勝ったレスラーが「世界ウェルター級チャンピオン」となっていたりしている("Kokomo Tribune"7/22-23/1919) 。 新聞を追う限りではだが、松田は1919年7月までには世界チャンピオンだった事には間違い無い様で、何度か王座を行き来している。そして12月26日の新聞にはベルトを巻いた写真が掲載された("The Evening Gazette"12/26/1919)。

マティ・マツダ19191226.jpg

 その後の松田は生涯のライバル、ジャック・レイノルズと何度も王座を争い、1920年6月のタイトルマッチでは当時の金額で7000ドルを得るほどの大レスラーへと成長する("Wisconsin State Journal"6/17/1920)。 この頃がマティ松田のレスラーとしての全盛期だった様で、紙面広告でも大きく扱われている。

マティ・マツダ19200909.jpg
("Spencer News Herald"9/9/1920)

マティ・マツダ19210414.jpg
("Rio Grande Republic"4/14/1921)
 
 そして1929年8月15日、マティ松田はミシガン州バトルクリークにあるバトルクリーク・サナトリウムで死亡した。 肺に溜まった水を抜く手術を受けた後だったが、死因はさだかでは無い。 3週間前にオハイオ州シンシナティで行われた試合の怪我による入院中の出来事だった("Hamilton Evening Journal"8/16/1929) 。

マティ・マツダ19290816.jpg

 また訃報はライバル、ジャック・レイノルズにも電話があり、松田の死因は肺炎では無く、胃への打撃だったと伝えられたという("Sandusky Star Journal"8/15/1929)。
 世界ライト級及び世界ウェルター級チャンピオンだったマティ松田の訃報はUP通信により、広く伝えられた。 42歳という若さで世を去った松田の死は日系社会に衝撃を与え、毒殺説も噂され、レスラーの間にさえ広まったと云う。
 現在、マティ松田の伝説を知る者は少ないが、松田の残した実績は再評価されるべきであろう。

 如何でしたでしょうか? まぁ、極真のみの方には詰まらないかも知れませんけどね(私自身の文章が詰まらないという問題もあるがw)。
 次回は…「近代カラテ」か古書ネタかをやろうかと思っています。
 それでは、また。

参考文献:
Waterloo Evening Courier, 1911,1912
Eau Claire Leader, 1911
Van Wert Daily Bulletin, 1912
The Waterloo Times Tribune, 1912
Des Moines Daily News, 1912
The Coshocton Tribune, 1918
Evening Independent, 1918
Kokomo Tribune, 1919
The Evening Gazette, 1919
Wisconsin State Journal, 1920
Spencer News Herald, 1920
Rio Grande Republic, 1921
Sandusky Star Journal, 1929
Hamilton Evening Journal, 1929
力道山以前の力道山たち 小島貞二著 三一書房 1983年







東京・池袋の武道具専門店 ブドウショップ



フレッツ光で最大106,000円キャッシュバック実施中!





<< | 2/2PAGES |